ざーざーと窓ガラスに雨粒の当たる音が聞こえる。降ったりやんだりを繰り返しながらもう3日も雨続きだ。気分が乗らないなぁと窓の外を見ると曇り空が目に入ってさらに気分が落ち込む。

「はぁ……」

勉強の手も進まないな…こんなことじゃダメなんだけどなあ。そう思いながらノートを見ると、シャーペンの先っぽがノートにミミズの這ったような跡を作っていた。ため息も出るよ…。

「諸伏さんまだかなぁ……」

諸伏さんは今日もバイトだ。帰宅時間はもうそろそろだと思うのだが……。
私は手にしていたシャーペンを机に置いて立ち上がる。コーヒーでも入れて落ち着こうかなぁとキッチンに向かうと、アパートの階段が慌ただしく鳴る音がする。誰かが雨に降られて慌てて帰って来たのかなぁと思いながらやかんを手に取ると、この家の扉が勢いよく開いた。驚いて手にしていたやかんを取り落としてしまう。しかしそんなものはどうでも良くて、玄関に向かうと目に入った光景に唖然とした。

「諸伏さん!?」

肩で息をする諸伏さんがずぶ濡れの状態で玄関に座り込んでいるのだ。「どうしたんですか!?」と駆け寄ると、ハァハァと荒い息遣いだけが耳に入った。

「と、とりあえずタオルを持ってきて…。体拭かないと…っ」

タオルを取りに脱衣所に行こうとすると、手首を掴まれる。じっとりと湿ったそれは諸伏さんのものだ。そちらを振り向けば、汗なのか雨なのか涙なのか、顔面をぐしゃぐしゃにした彼が視界に入り言葉が出ない。

焦点の定まらない瞳は激しく揺れ、私を掴むその手はガタガタと震えている。奥歯が当たる音が外の雨音と混じって私の耳にするりと入り込んだ。何かがあったなんていうことは一目でわかる。

「諸伏さん…っ諸伏さんっ」
「はっ、ハァ、はぁっ」

何度声をかけても彼は正気に戻らない。肩を揺さぶっても、その瞳を見つめても。どくんどくんと心臓の鼓動が煩く響いた。
私は腕を伸ばして開いたままの扉を閉め、鍵をかける。雨音が、少し静かになった。

「大丈夫ですよ、諸伏さん。大丈夫ですから」

とりあえず落ち着かせないとどうしようもない、と穏やかな声で名前を呼ぶが変化はない。

どうして…どうしたら……。
助けたい、助けになりたいのに…!
諸伏さんが私を助けてくれた時みたいに、私も彼を助けたい!
その瞳から今まさに涙がこぼれ落ちようとしている。そんなの、耐えられない!

方法がなかった。
必死だった。
言い訳はたくさんある。
気づいたら彼は私の腕の中にいた。

「大丈夫…!大丈夫ですよ!私はここにいますから!諸伏さんは一人じゃないんです…!」

それは多分、私が言われたい言葉だったのかもしれない。

「名字…さん……?」

腕の中で震える彼の声がした。咄嗟に離すと、諸伏さんの目は正気を取り戻しており、潤んだ瞳に心配そうな私が映って見える。

「諸伏さん!よかったぁ…」
「お、俺、ぁ……悪いな……、手間をかけたみたいで…」

彼は自らの頭を押さえて視線を下げる。いつもの明るい様子は微塵も感じなかった。

「とりあえずタオル持ってきますね」
「ああ……」

意気消沈と言った様子の彼を一人にしておくのは気が引けて、駆け足でタオルを取りに行く。その道中で床に転げたやかんを拾いお湯を沸かそうとして、それよりもお風呂だ、と給湯機を操作した。

そのあと何も言葉を発しない彼をタオルで軽く拭いてからお風呂に案内し、彼がシャワーを浴びているうちに着替えを脱衣所に用意する。部屋着に着替えた彼が出てきたのは、それから十分後のことだった。

私はお風呂から上がった彼に淹れたばかりのコーヒーを差し出す。ありがとうと笑った彼は、やはりいつもと違う。

「お腹空いてますか?」
「いや……」
「そうですか。でも何も食べないのは良くないので暖かいスープを用意しますね」

立ち上がり、キッチンに向かおうとすると、Tシャツの裾を掴まれた。その手はまだ微かに震えている。何も聞かないのか?と、そう言われているような気がした。

「聞きませんよ」

私は即答する。びくりとその腕が跳ねた。

「私からは聞きません。諸伏さんが言いたくなったら言ってください」

もし私があの日のことで怯えて泣いたとして、彼はそれを深くは聞かないだろうと思った。何も聞かないでいてくれるのだろう、と。だから私もそうしただけだ。気にならないのかと言われたら嘘になる。

「…………」

彼は私から手を離さない。きっと、言おうとしてくれてるのだと思った。ただ、それに勇気がいるだけだ。彼が口を開くのをじっと待つ。だけれど、本当のことを言うと私はなんとなく「言われることをわかっていた」。私の「何か」がそう言っているのだ。急かさずにそれをじっと待つ。

「……たんだ」

ぼそりと、諸伏さんが呟いた。

「俺の両親は、小さい頃に殺されたんだ。目の前で」

ああ、やっぱりそうか。
やっぱり、私は「知っていた」。

「それで…それがトラウマでさ、前パニック障害があるって言ったろ?それなんだよさっきのも」

PTSD。以前その話をしたのを思い出す。目の前でご両親が亡くなられたんだ、ショックになってもおかしくはない。いや、「当然」だ。

「町の電気屋を通った時、テレビでニュースがやってた。一家惨殺事件…って。昔からたびたびフラッシュバックすることはあるんだけど、今回は不意打ちで……結構キツかった」

諸伏さんはそこまで言って苦笑した。笑い事じゃないんだと、そんなことを言う資格がなくて何もいえない。本当はあの時、抱きしめる資格だってなかったんだ。人殺しの私には。

「悪いな、情けないところを見せて」

違う、謝る必要なんてないのに。
どうして私はそんな簡単なことも言えないんだろう。

「なんで名字さんが泣いてるんだよ」

そう言って笑う彼のことを瞳に捉えるのが憚られて顔を逸らすと、よしよしと頭を撫でられた。違う。こんな風に優しくしてもらう資格なんてない。私には、私は……。

何もいえない私の嗚咽が耳障りだった。