ずっとずっと考えている。
諸伏さんが目の前に現れたあの日から。
私はここにいていいのか、と。


今日は午後から雨だった。曇天の空模様に何度目かのため息をついて私はシャーペンを筆箱にしまう。もう夕食を準備する時間だ。諸伏さんは私の向かいで大学の課題をこなしているようだった。

諸伏さんはいつも通りの日々を過ごしていた。気になること、気を付けたいことはたくさんあったが、下手に口にして気を使われるのも嫌だったので私は極力話題に出さないように心がけていた。私の心情に気付いているのか、彼も必要以上には言葉にしない。それでよかった。

その日の夜は、父を殺した日の夢を見た。

忘れることもできない。どれだけ記憶の隅に押し込もうとしても忘れられない。
肉と神経と筋を刺し貫くあの感触、さっきまで人の体内を流れていた血の温度、痛いと泣き喚く聞いたこともない声。どんなに目を逸らしてもそれは絶対に私から離れない。いや、離してはいけない。私を形作るものの一つでなくてはならないのだ。
私のはPTSDなんてものではない。自業自得。まさしくカルマ。背負わなければならないもの。
うなされて飛び起きて、呼吸を整える頃には乾いた笑いが漏れた。馬鹿馬鹿しい。数奇な運命だと思った。死んだら転生しますなんて誰も教えてくれなかったのに。
あちらの世界の私はどうなったんだろうか。警察はきただろうか。弟は供養されただろうか。そんなことを考えるとその日は眠れなくて、いつもの時間に起きてきた諸伏さんに隈を指摘されて返す言葉がなかった。

今日は何を作ろうとキッチンに立つ。冷蔵庫の中身を確認しメニューを決め、シンク下のベースキャビネットを開いて包丁を引き抜いた瞬間、それは再び蘇った。

「っ…!!」

手が、真っ赤に染まっている。
じとりと広がり、包丁を伝ったそれは足元に溢れた。慌てて見下ろせば赤い水溜があるじゃないか。

あの夢と、
あの日と同じ。

「あ、ぁ、あぁ、あっ」

喉から引きつった音が漏れる。
それは私のものか、それとも、

“父だったモノ”か。


「ぅあああああ!!!!」


慌てて手放した包丁が、乱雑に金属音を響かせながら床を二度ほど跳ねる。赤い水溜に溶けていくそれを見つめていると、あの日の“バケモノ”がこちらに手を伸ばしているように見えた。


ーお前はこちら側だろー


バケモノの声がする。耳障りな声だ。
突如脳内に赤子の泣き声が響き渡り、背中に痛みが走る。
タバコだ。タバコを押しつけられたんだ。

痛い。痛い。痛い。痛い!痛い!!
熱くて鋭くて、じゅくりと皮膚と肉が焼ける音が脳を蝕む。ゆらゆらと視界が揺れて、揺れが治る頃には再び手の内に包丁が握られていた。溢れ出る赤は止まることを知らないように私の体まで濡らしていく。

殺した。
殺したんだ。
私の手で。
殺した。
早く、はやく、はやく。
弟のもとへ行かなきゃ……。



「ーー名前!!」
「っ…!」

声がした瞬間ちかっと視界が白く輝き、先ほどまで脳を喰らっていた声が途端聞こえなくなった。ばくんと大きく鳴る鼓動に息が詰まる。ゆっくり息を吸うと、目の前にいる彼が心配そうな顔で私を見ていることに気づいた。

「っもろ、ふしさ…ぁ」

言葉を紡ぐのも精一杯で、まるで久方ぶりに言葉を発したような感覚に襲われる。人間としての生を失っていたかのようだ。

「大丈夫か?」

私が持っていたはずの包丁は三十センチ先で横たわっている。赤い水溜も存在しない。先ほどまで痛んでいた背中もうずかない。全部全部、幻覚だったのか。

「だい、じょうぶです……」

そんな風には見えないだろうな、と思いつつそれしか言葉がなかった。私は知っている。彼が私が言わない限り聞かないと言うことを。彼に聞かせられるわけがない。それが彼のパニックのトリガーになるかもしれないのだから。

私は滲んでいた涙を拭い、包丁に手を伸ばす。指先は少し震えたが、これを握らなければ料理はできない。すると、伸ばした手を諸伏さんに掴まれてしまう。

「今日はいい」
「ダメです…」

諸伏さんは優しいな。私がこうなった原因が包丁だって気付いてしまったのだろうか。いやでもこんなに震えていたら隠すこともできそうにはないが。
それでも、これを止められるのは私的にすごく困る。

「いいって言ってるんだ、俺が。今日はいいから、出前でもコンビニでもなんでも食事は取れるだろう」
「だめ、です」

頑なに否定する私に何を思ったのか、繋がった彼の手に力が籠るのを感じた。止めようとしてくれるんだ。優しい。やっぱり、優しい。

「諸伏さんに、迷惑はかけませんから…」
「迷惑なんて……!」
「私が、嫌なんです。やらせてください。じゃないと私は……ここにいられないから…」

諸伏さんがあいつと違うのなんてわかっている。けれども、これは私が生まれてからずっと体に、脳に、叩き込まれたものだった。
存在価値がないのなら捨てられてしまう。少しでも役に立たなくちゃ、きっと私は私を許せなくなる。

「名字さん……」
「心配してくださって、ありがとうございます」

でも、大丈夫です。
精一杯笑顔を作って言うと、諸伏さんは悔しそうに下唇を噛んで、それでも手を離してくれた。私のことで諸伏さんを悩ませるわけには行かないのに。今日は失敗したな…と包丁を拾って立ち上がる。

そのあとは人生で初めて、指を少しだけ切ってしまった。