「PTSDぃー?」

大学の学食でヒロと食事をとっていると、向かいに座る彼が突然そんなことを言い出した。思わず聞き返すと彼は「しーっ!」と人差し指を口元に当てた。悪い、と短く謝り手にしていた箸を生姜焼きが乗っていた平皿の端に置き、「で?」と先を促す。彼は辺りを気にしているように視線を巡らせてからゆっくり口を開いた。

「ああ……あの感じは“そう”だと思う」
「ふぅーん」

彼が言うには名字さんに“その気”があるらしい。僕にはパニック障害になるような経験はないから、そう言うことはヒロの方が詳しいのだろうけれど、あの子は遠慮しいなだけでおかしなところはなかったと思うのだが。

「確か交通事故にあったって言っていたか?その影響か…?」
「いや、それだったら外にいるときにパニックになるはずなんだ。車とか、あの子が事故にあった横断歩道とかが関係してないとおかしいだろ?」
「違うのか?」
「ああ……。あの子の気が動転したのは家の中だったから…多分…」

顎に手を当て考えるそぶりを見せるヒロ。何か思い当たる節はあるようだが。その現場に遭遇してない僕が何か口出しすることはナンセンスだと黙って悩める親友を見ていると、彼は長く息を吐いて「わっかんねぇ〜」とうなだれた。

「本当にPTSDなのか?」
「いや…医者じゃないからわかんないけど、でも何度か声をかけても反応はなかったし、目の焦点もあってなかった。全身から汗が吹き出してたし、脈も正常じゃなかった……」

確かに話を聞く限りはパニック障害の症状に該当する。ヒロがそれに苦しめられているのも何度か見たことがあるから、彼の見立てが間違っているとは言いたくないが…。僕にはどうしても、彼女にそれほどの過去があるように思えなかった。それとも、二つの視線を掻い潜って見つからないようなところで泣いているとでも言うのだろうか。一人ぼっちで。

「で?本人には聞いたのか?」
「いや、聞いてない」
「聞いてないだとぉ?」
「だって、言いたくなさそうだったし…無理に聞くものでもないだろ」

彼の言うことにも一理あるが、ため息が溢れる。これは根本的なことだが、何も知らない人間を家に置いておくのも僕の理解の範疇を超えていた。

「でも、何かしてあげたいんだよ。一昨日から眠れてないみたいだし」
「何かって、そんなこと言われてもな……」

ヒロは昔からズレているのだ。そう言うところに救われた身ではあるが、懐に入れたものに入れ込みすぎる。今日何度目かのため息を吐きながら彼を見やると、真剣に考えているようだった。こう言うやつを「お人好し」と言うんだろう。

「家事は名字に任せてるんだろ?寝不足なら不便なこともあるだろうから、そこら辺を助けてやったらどうだ?」
「ああ、それもそうだな!ゼロと違って料理もできるし!」
「一言余計なんだよ」

さっきまでの憂い顔は何処へやら。パッと表情を明るくしたヒロは納得がいったようですっかり冷めた牛丼をかき込んでいく。僕も残っていた味噌汁をすすり、名字のことを考える。

名字 名前。17歳…と言っていたか? 高校には通っていなかったようだが、見慣れない制服を着ているのを本屋で見た。歳の割には大人びており、ヒロと暮らしている状況にも順応している様子だ。
時々ヒロよりも大人っぽい雰囲気を見せるし、家事炊事に万能。中でも料理の腕はかなりいい。服やメイクに無頓着であまり外に興味はない様子。
毎日ヒロの家のことをこなしながら、がむしゃらに参考書を解いているようだ。その参考書も高校三年生レベルから始めていたことが少し引っかかる。身寄りがないと言っていたのに、どこかで教育を施された跡が伺えるのだ。
それに追い討ちをかけるようなPTSD。不可解だ。誰かが関わったであろう痕跡が多すぎる。なのになぜ彼女は誰の名前もあげないし、誰も彼女を知らない。
まるで、世界から名字だけが切り取られたかのような……。

「そんな馬鹿な」
「んー?何か言ったか?」
「いや、何でもないさ。気にしないでくれ」

「そうか?」と首を傾げるヒロはこの違和感に気付いていないのだろうか。何か伝えようかと口を開いたが、あまりにも突拍子もなく仮説に過ぎないことだったので口をつぐむ。

こんな三文ミステリー、誰も好みやしない。
デウス・エクス・マキナ ー神の仕業ー はもっとも馬鹿げた幕の下ろし方なのだから。