本当に馬鹿だと思う。
ここから、諸伏さんの側から離れなきゃと言う感情はずっとあったけれど、それにどれだけの覚悟と意志があったのだろうか。本当はもっと苦しまなきゃいけなかったのに。ここは暖かすぎる。少なくともここにいるべき人間ではないのだ。それに、私が側にいることで諸伏さんを精神的にも追い詰めてしまうかもしれない。
もっと理解すべきだった。
誰も裁くことができないのなら、自らがやるしかないということを。
あの幻覚を見た日から3日、私は十分に寝ることができなかった。瞳を閉じると襲う闇が、ゆるゆると私の首を絞めるようで耐え難かったのだ。
また、パニックに陥るわけにはいかない。心を強く持つしかない。言うのは簡単だ、でも正直限界だった。精神的にも肉体的にも。
隈を心配する彼に精一杯笑う。せっかく買ってもらった参考書は全く頭に入らない。最低な人間だと思った。服も買ってもらったのに。彼は私を助けてくれたのに、笑いかけてくれたのに。私にはその資格がないのだ。受け取る資格が。悪夢のあの日から。
辛かった。
もっとふさわしい人間がいるのに、私が幸せを感じている事実が。こんな汚れた手で彼に触れることが。
私は、弱かったのだと思う。
「俺に何かできることはあるか?」
だから、その真っ直ぐな善意が耐えられなかった。
夕食のお皿を洗い終わって定位置に座ると、向かいに座る諸伏さんが揺るがない信念を持った瞳で私を見つめてくる。やめて。逸らすこともできずに固まっていると、諸伏さんは優しげに眉を下げる。ずきり、と奥の方で何かが音を立てた。
「最近眠れてないんだろ?だから俺にできることがあるなら何か力になりたいんだ」
彼は一切理由を聞いてこない。そう言う人だ。わかっていた。理由も聞かず、何も知らず、それでも無条件に救いの手を差し伸べようとでも言うのか。あぁ、どれほど彼は淀みないのだろう。私が罪人だなんて、知らないまま。
「だ、いじょうぶですよ。お気になさらないでください」
「名字さんはすぐそう言うよな」
「え?」
「大丈夫って。そうじゃないことくらいわかるよ」
違う。大丈夫なのだ、本当に。だからそう言っている。それでも彼はそれがおかしいことのように唇を尖らせた。私のせいで表情を変える様もなんだかとても苦しくて、膝の上で握った拳に力がこもる。
「ほら、な?言ってくれよ。俺も一緒に考えるから」
「…………」
優しさは毒だ。
心を溶かす、猛毒。
「名字さん?」
「……。………て、ください」
喉から出た声とも取れぬような呻きは小刻みに震えていた。彼は心配そうに笑って私に手を伸ばす。
触らないで。お願いだから。
「やめてください…!!」
彼の手が私の頬に触れたその時、まるで張り詰めていた琴線が切れたように私は立ち上がって、叫びあげると駆け出していた。なりふり構わず、がむしゃらに。
背中にかかる諸伏さんの声を振り切って、靴も履かずに部屋を飛び出す。相変わらず今日も雨。鉄製の階段を滑りそうになりながら駆け下りて、行くあてもなく走る。ただ、そこから離れられるのであればよかった。
水たまりを駆け抜ける車の音。
雨に揺れる街路樹の葉。
乱雑に水しぶきを上げる足元。
頭上から降り注ぐ雨は、不浄の体を押し流しているかのようだ。こんな雨ごときじゃ何も変わらないのに。
馬鹿みたい。
いや、馬鹿なのだ。
結局、全部、最初から、自分のことしか考えていない。こうやって彼から逃げ出したのもそうだ。私のためなのだ。
どこまで走ったかもわからない。知らない道を曲がったし、見覚えのない通りも走った。ここがどこだかわからないまま路地を抜ける。
急に視界が広がった。
「はぁ……はぁ……、うみ…?」
そこは海だった。
とは言っても砂浜とかではなくて、海釣りが出来そうな海道だ。多分、諸伏さんが言っていた「海」とはこれのことなのだろう。こんな近くに海があったなんて、普段の行動範囲がスーパーに限られている私には全く縁がなかった。
海道沿いにポツポツと電灯が立っているだけのそこは薄暗く、真っ暗な空と海は見分けがつかないほどだ。しかし、潮の匂いと雨音に混ざる波音は海そのもので、その音を聞いていると段々あれ荒む心が落ち着きを取り戻し、気付いたら涙が溢れてきた。
「うっ、うっ……うぐっ……」
泣いてたまるかと思っていたのに、足は痛いし、寒いし、濡れた服も髪も気持ち悪いし、というか眠いし、諸伏さんに対して最低なことをしてしまったし、とにかく苦しかった。
ボロボロと流れる涙が次々に雨と混じって地面に落ちていく。拭っても拭っても意味はなかった。
これからどうしよう。
謝る?
いや、もう戻れない。
あんなことを言っておいて帰るなんて、許されるわけがない。
器から溢れた水が元に戻ることがないように、私も彼の元に帰ることはできないのだ。
必死に考えては涙に滲んで流れ落ちてしまう。打ち付ける雨は「何も考えなくていいよ」と言っているようだった。
「うぅ……あぁ……っ」
ふらふらと歩を進める。
何も考えたくない。
このまま進み続けたら、手放せるのだろうか。
私を喰らい尽くそうとする苦しみを。
「馬鹿野郎!!!」
声が聞こえた。
反動で顔を上げると同時にお腹に回った何かが私を引っ張った。冷え切った背中に温もりが広がる。眼前には海が広がっていた。そうか、あと一歩で私は……。
「死ぬな……っ、絶対に……っ」
雨音が遠くに聞こえた。左耳に降り注ぐ声はよく知った声で、私は自分の体から力が抜けたのを感じる。
声の主は両腕で私を抱き竦むと、押し殺したような声で「頼む…っ」とそう言う。
視界の端に揺れる金色の髪が、水滴を垂らしていた。
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