名字さんが俺の家に来てからもうすぐ二ヶ月になる。
彼女はなかなか弱みを見せてくれないが、名字さんが家を飛び出してしまったあの日を境にどこか表情が柔らかくなったような気がしていた。いつも口癖のように言っていた「大丈夫」が少なくなり、体調が悪い様を心配すると素直に症状を言ってくれるし、看病も受けてくれる。俺に家事をやらせるのは相変わらずいやそうだが、体調が悪い時だけに限ってやらせてくれるようになった。
何がきっかけになったのかはわからないが、その変化はとても嬉しい。特にこれから夏休みに入り、バイトはもちろんたくさんやる予定だが、家にいることも多くなる。分担できる家事は分担した方が彼女の負担にならないだろう。

それと、ゼロもあの日から少し変わった。講義が終わって帰ろうと誘っても一人でどこかに行ってしまうし、あちらから名字さんの話題を出してくる。最近変わったところはないか、とか、何か聞いてないか、とか。これまでずっと俺が一方的に話していただけだったのに。
ゼロが家に来ると名字さんはやけに彼を避けるし、仲良くなった…と言うわけでもなさそうだ。それがなんだかちょっぴり面白くない気がしている。だってそれは、二人の間に何か変化があったと言うことなのだ。俺の知らないうちに。

触れていいか?という問いに「もっと触れてください」と微笑み返された時、俺は確かにドキッとした。もしかして保護すべき相手に邪な感情を抱いたのでは?と自分を疑ってみたのだが、あれ以来ドキッとすることはない。どちらかというと彼女の側は落ち着くし、だからこそ一瞬でもドキッとしたのが信じられなかった。彼女のことを「妹」のように思っていたから。名字さんも俺のことをそういう目で見ているようには感じないし、一緒に住んでいる以上あまり男女の関係を持ち込みたくなかった。
それなのに、ゼロと何かあったのでは…と疑っている自分がいるのは矛盾にも程がある。まるで気があるみたいだ……。そんなわけないよな?と何度自問自答してももちろん答えはない。

……いや、だが本当は、俺がパニック状態に陥った時、「一人じゃないんです」と言った彼女が、「何も聞きません」ときっぱり宣言した彼女が、あの日を境に何か特別なものに変化したのは確かだった。それ以上の感情は、若輩者の俺にはまだ手に余る。

「じゃあ、用事があるから」

ゼロは今日もそう言って駆け足で大学を飛び出してしまう。ほんと、何があったんだ?と彼の背中を見送っていると、入り口のあたりで一度足を止めて誰かと話しているのが見えた。誰だろう?俺も知っている人か?と思って近づくと、俺が声をかけるよりも早くゼロはその人に軽く手を振って駆けて行ってしまった。
いったい誰だぁ?と彼が向いていた方を覗き込む。

「名字さん!?」
「あ、諸伏さん」

するとそこには知っているどころか一緒に住んでいる名字さんが買い物袋を持って立っていた。「どうしてここに?」と聞くと、彼女は持っている袋を掲げる。大学近くのドラッグストアの袋だ。

「スーパーに洗剤を買いに行ったら売り切れてて、店員さんに聞いたら大学近くにドラッグストアがあるって言われて来たんですけど、そしたら講義が終わる時間に近いなぁ…と気付いたので、一緒に帰ろうかなって待ってたんです」

にっこりと笑う彼女につられて笑顔になる。二人してニコニコしていると、近くを通った同じ学科の男友達に「諸伏、彼女か〜?」とヤジを飛ばされた。そちらに「ちげーよ!」と返し、名字さんに「ごめんな?」と謝ると、「私の方こそ…」と控えめに言われてなんだかもやっとする。別に否定する必要もなかった気がしたのだ。

「というか、待たせただろ?」
「いえ……。何か用事があったんですか?」
「ああ、ちょっと教授に質問があって、ゼロと聞きに行ってたんだよ」

今の時間はいつも講義が終わる時間より二、三十分遅い。彼女は「へー」と興味深そうに校内を覗き込んでいた。高校生からすると大学って未知の存在だからな、興味があるのもわかる。

「今度校内案内しようか?」
「え!?いいんですか?それって…」
「いいんじゃないか?結構自由だぞ?」
「そ、そうなんですね……」
「ほら、あれ見えるか?」

俺が指さしたのはこの大学自慢の時計塔だ。この周辺だと一番高い建物ではないだろうか。名字さんは俺の指の先を辿って、その時計塔を見上げた。「大きい……」と、きっと無意識に呟いている様が可愛らしい。

「あれとか普通に入れるしな」
「許可とかいらないんです?」
「いらないいらない。最初は物珍しかったけど、もう慣れたからこの時期だと一期生も近寄らないよ」
「なんだかもったいないですね…」
「そう、もったいない。だから、俺と名字さんで見に行こうってわけ」
「中ってどうなってるんです?」
「実はエレベーター入ってるんだよ」
「わぁ、意外とハイテクですね」
「昔は壁伝いにぐるぐるっと階段があったみたいだけど……」

俺が入学する頃にはもうエレベーターに変わってしまっていた。この大学出身の教授が、当時の石造りの階段がそれは荘厳で美しかったと語る目が少し悲しそうだったのを覚えている。だが施設の老朽化を受け、耐震と電動化の工事が行われたらしい。

「頂上行くのも楽だし、行ってみないか?」
「いいですね。また今度、機会があれば」

そう名字さんは優しく笑った。本当は今すぐ連れて行きたかったが、「今度」と言ってしまった手前頷くしかない。「帰ろうか」と帰路への一歩を踏み出すと、彼女も続いて歩き出す。その途中で彼女が後ろ髪引かれたように、一瞬だけ時計塔を振り向いたのが脳裏に焼き付いた。