ガバッと身体を持ち上げる。
ひどい夢だった。
ばくんばくんと心臓は鳴ってるし、背中どころか全身汗でぐっしょりだ。
ゆっくりと深呼吸し、荒れた鼓動を落ち着けようとする。何度か繰り返すとそれは次第に静寂を取り戻し、そこでやっと自分が泣いていることに気づいた。



ーーあの日。バケモノを殺し、自殺を計ったあの日。
私はきっと、ちゃんと死ねたのだと思う。しかし、目を覚ますとそこに愛しい弟はいなかった。

(白い天井?なに……?)

規則的に鳴るピッピッという電子音。あまり動かない身体には何かコードのようなものがたくさんついていた。なんとか身体を持ち上げようとするとずきりと頭が痛む。それどころか、全身の至る所が痛くて思わず「いたーーーい!!」と叫んでしまったほどだ。ちなみに、叫ぶとさらに傷んだ。

私が叫ぶとしばらくして外が騒々しくなった。誰かが部屋に来るまでの間になんとなく病室であることを理解したが脳内は疑問でいっぱいだ。死ねた、筈だ。なのになぜ…?そもそも刺したのは首のはず。なんで頭までならず全身が痛むの?……と。

そんなことを考えていると、コンコンとノック音が聞こえて来る。反射的に「はーい!」と応えると、「失礼します」と女性の声が聞こえてきた。

「名字さん、お目覚めになりましたか?お加減はいかがですか?」

若く美人な看護師さんは微笑を称えつつ聞いてくる。私が「元気です」と答えれば、彼女はさらに笑みを深めた。
それから問診というようなものが始まる。痛みますか? 体調はいかがですか?熱っぽくないですか?ご自身のことはお分かりですか? 思ったことをつらつらと答えるが、まだ夢見心地だった。だから思い切って、「私、なにがあったんですか?」と看護師さんに聞くと、彼女は眉を少し持ち上げて驚いたような反応をしてから、「事故の前後の記憶が曖昧なのね…」と呟く。事故…?
なんの話だ…と身構えていると、彼女は徐に口を開いた。「交通事故にあったのよ」と。

意味がわからなかった。だけれどそれは事実のようで、彼女は細かい説明を始める。私は1週間前の昼過ぎに信号無視の一般車に轢かれたらしい。全然覚えていない、と思ったことを口にすると「それもそうですよね」と言いたげに微笑まれた。さらにおかしなことに、私の身元が一切確認されないのだという。持ち物は名前の書かれたハンカチだけで、それ以外はなにもなく、着ていた制服は存在しない学校のもの。周囲の役所に確認を取っても私の戸籍は存在しない。

「無戸籍……?」

看護師さんがいうにはそういうことだった。確か、昔そんな映画があったような。まさしくフィクションのようなことだ。いや、事実なのか。
事実?
それは不思議な言葉だった。目の前に弟はおらず、殺人の罪も消え失せている。記憶のない交通事故、それに無戸籍。なにが事実なのか、本当に事実なのか…なにもわからない。ただ呆然と看護師さんを見つめるだけ。そのままどうしようもできないでいると、また控えめなノック音が聞こえてきた。看護師さんが「あら誰でしょう。先生かしら」と席を立つ。先生でも誰でもよかった。虚無感だけがそこにある。
自分の胸に手を当てる。心臓が鳴っている。生きている証拠だ。だが、生きている「感覚」はなかった。

「どうした?」
「っ!!」

いきなり目の前に人の顔が映り込む。看護師さんではないし、服装から「先生」でもなさそうだ。誰だ一体、と焦りつつ言葉を失っていると、その後ろに立っていた看護師さんが「彼はあなたの身元保証人よ」と言ってくださった。

「み、身元保証人……?」
「一応な。事故の時俺が一番そばにいたから、入院に際する手続きとかは俺が済ませたんだ。……その、戸籍がないみたいだったからな」

最後の部分だけは言いづらそうにしながら男は「悪かったな」と笑った。謝られても記憶がないし、なにを言えばいいかわからず「はぁ」とだけ返す。無戸籍のよく知らない女の身元保証人になんてなってよかったのだろうか? ……いや流石に、“一時的な”というものだろう。

「えっと、名字 名前さんだったっけ?」
「あ、はい。そうです」
「俺は諸伏 景光だ」

手を差し伸べて笑う彼に、ずきりと脳が痛む。外部じゃない、内部だ。脳の、深いところがジクジクと痛んでいる。なんでいきなり……? 視界が一瞬ぼやけ、何かが重なったように見えたが、それはすぐに消えて無くなる。一体なんだというんだ今のは。わからない。わからないが……。

「え……、名字さん!?」

“大切な何か”を忘れてしまっているような感覚に襲われて、涙が止まらなかった。



それからはなんだかあっという間だったような気がする。怪我自体はそんなに酷いものではなくて、療養は順調に進んだ(ほぼ打ち身だけだったのに意識が戻らないため、病院内ではちょっとした騒ぎになっていたらしい)。戸籍がないというのは本当のようで、面会に来るのは目覚めた日に会った諸伏さんだけだった。

諸伏さんはとても明るく人懐っこい人で、なにが楽しいのか毎日私に会いにきては世間話をしていく。通っている大学でこんなことがあっただとか、友人が馬鹿なことをしたんだとか…、そんな何気ない話だ。20歳だという彼は、17の(はずだ)私には大人に見えてしかたなかったし、何度も会ってるうちに私も彼には心を開いていたと思う。

ついにきた退院の日、それは私にとって途方もない世界に放たれる日だった。
戸籍がない私には家がない。薄々、転生したのだと言うことに気付いていた私には全く頼るべきものがなかった。本当にここが知っている日本なのかすらも怪しいのだ。もしかしたら“転生したら◯◯になっていた!”なんてありがちなタイトルみたいに、外に出てみたらファンタジーな世界が広がっているかもしれない(病室から見えた街は普通だったが)。そんな文字通り“お先真っ暗”な状況に「どうしよう」と黙り込んでいると、病室のドアがガラガラと開く。入ってきたのは諸伏さんだった。

「いこう」

彼はそれだけ言って私が立ち上がるのを待ってくださる。そうだ、彼は身元保証人らしいから退院手続きをしにきたのだろう。大変な役割を買って出てくださったのだなぁ、と思いながらベットから立ち上がり、その背中を追う。迷いない足取りが少し羨ましかった。

退院手続きを済ませた後、私は彼に連れられるまま役所に来た。戸籍を作る手続きをするらしい。現在所とかどうすればいいんだろう、と思っていると彼は別の紙に何かを書いて差し出して来る。それは住所のようだ。「ここが私の家なのか?」と少々疑問に思いながらそれを書き写し、書類を提出する。ハンコは諸伏さんが用意してくださっていた。なんだか色々書類があるなあと思いながら、頭を空っぽにして書き進める。なにもなかった自分を文字で埋めているようで、心が楽になった。

全ての書類を書き終わり提出すると、住民票が発行された。これが私である証拠か、と大切に封筒にしまい「よかったな」とにこやかに言う諸伏さんに頷いて見せる。

役所を出て、この後どうするんだろう…と考えながら諸伏さんの背中を追いかける。彼に迷いはないように感じた。しばらく歩いていると一つのアパートにたどり着いた。大きくも、古くも新しくもないそんな素朴なアパートだ。彼はジャケットのポケットから鍵を取り出すと、その一室に入っていく。最初は連れられたものの、今は半ばついて行っているようなものだ、どうすればいいのかと玄関先で立ち往生していると、「入ってこいよ」と声をかけられた。
「お邪魔します……」そんなことを小声で呟きながら、恐る恐る敷居をまたぐ。すると諸伏さんはカラカラと笑った。

中は男性の一人暮らし…と言ったような部屋だった。1DK…だろうか。物はそんなに多くなく、整理整頓や掃除は行き届いているように見える。壁に立てかけられた楽器はギターだろうか……。いやよく見ると四弦、ベースか。弾けるのかな、ちょっとかっこいいな…と思いながらきょろきょろと辺りを見渡す。諸伏さんはキッチンで何かをしているようで、私はどうすることもできずにぼぅっと突っ立ったままだった。
しばらくすると、マグカップを二つ手にした諸伏さんがやってきて、「座っていいよ」と苦笑される。それならそうと言って欲しいな……と思いながら床に座ると、小さな四角いテーブルの上にマグカップを置いた彼に円形の座布団を差し出された。無言でそこに座り直すと、彼は別の座布団に座る。どう言う状況だろう…。そんなことを思いながら「いただきます」と呟きマグカップを手にする。中身はホットココアのようだ。

「それにしても、退院おめでとう!」
「ありがとうございます…」
「……やっぱ浮かない顔してるよな?」
「えっ」

彼は初めて出会ったときのように、顔を覗き込んでくる。私の心は読みやすいのだろうか。それともそんなに表情に出ていただろうか。

「まぁ…浮かなくもなりますよ。家とかないですし…。学校ないのも意味わかんないし…」

思ったことをそのまま言うと、「家はあるだろ?」と当たり前のように言われた。なにを言っているのだこの人は。私はついさっきまで戸籍すらなかったんだぞ、と諸伏さんを見つめると「さっき住所書いたろ」と笑われる。

「あ!そうですよ!あの住所一体どこのなんですか!!」

虚偽はいけないぞ!と思いつつ食いつくと、彼があっけらかんと「ここ」といった。それがあまりにも突拍子がなくてつい素っ頓狂な声が出てしまう。一体、何事だ…?

「なぁにいってるんです?」
「いや、だから住所はここだって」
「虚偽ってことじゃないですか……!!」
「なんでだよ。名字さんここに住まないのか?」
「私ここに住むんです!?」

もう訳が分からなくてつい詰め寄ると、相変わらず諸伏さんは楽しそうに笑う。笑顔は似合うがそんなこと言ってる場合ではない。私がここに住む?ここが私の家?冗談じゃない。これ以上彼に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。

「わ、私でていきます!」
「え?なんでだよ。ここにいた方が都合がいいだろ?」
「そりゃ私にとってはいいかもしれませんが…!諸伏さんの迷惑になるわけにはいかないので…!!」
「え?迷惑じゃないけど?」
「ええーーー!!??」



ーー抗議も虚しく彼の笑顔に流され、あれよあれよと言う間に私の家は「ここ」に決まってしまった。そのあとはまた軽く自己紹介をしたり、夕食をデリバリーして食べたり(初めての体験だった)、お風呂に入ったり何事もなく過ぎて行った。
今日はいろいろあって大変だったな…と思いながらリビングにひかれた布団で横になっていると、次第に意識は落ちたのだが、しばらくするとなんだかとても怖い夢を見て飛び起きてしまう。

「ハァ…ハァ……」

頬に伝う涙に首を傾げる。怖い夢だった…と思う。もうよく覚えていない。あの音はなんの音だったっけ…そんなことを思いながら私はもう一度布団に横になった。