諸伏さんとの日々は特に何事もなく過ぎて行った。
大学生の彼は講義と課題、それにバイトに追われているようで、家にいることの方が少なく、私は家事炊事全般を彼に任されていた。私は自分が17歳だと思って出生日を申請してあるが、通っている学校すらわからない状況でどうすることもできなかった。ただ漠然と与えられた日々を過ごすだけ。仕事を探そうにもこの年齢では……と足踏みしてしまっている。わかっている、このまま甘えてばかりではダメだってことは…。でもどうすれば……。
「高卒認定試験でも受けたらどうだ?」
夕食の席でなんとなく思っていたことを口にすると、諸伏さんはあっけらかんとそう言った。現役高校生だった私にその発想はなく、思わず「なるほど……」と呟いてしまう。
「でもそれには勉強しないとダメだぞ?家事任せっぱなしなのに大変じゃないか?」
「あぁ、いえ、慣れてるんで…」
元々家事炊事も弟の育児も学校の課題も身を切り詰めてやっていたのだ、それぐらいわけない。むしろ今の方がうんと楽。…弟の育児はもっとやりたかったのだけれど、でも前みたいに突然暴力を振るって来るバケモノだっていない。
「慣れてる?」
「まぁ、はい」
「そっか……」
家も学校もなかったはずの私の言葉に疑問を抱いたのだろう諸伏さんが、考える素振りを見せる。それもそうだ、この世界の私に今以上の過去は存在しない。あの日死んだ私はそのままこの世界に突然現れたのだから。記憶がない以上、そう考えるのが妥当だろう。
「んじゃ、今度参考書でも買いに行くか?」
「え……そんな、悪いです」
「でも参考書ないと勉強できないぞ?」
「そ、れはそうなんですが……」
「だろ?」
諸伏さんは「決まりな!」と言って満面の笑みを浮かべる。あまりにも曇りのないそれは弟に重なって見え、思わず手が伸びてしまう。あぁ、もっともっと、可愛がってあげたかった…抱きしめてあげたかったなぁ…。
「いいこいいこ」
「え……?」
「………え!?」
気がつくと私は子供にするように諸伏さんの頭を撫でていた。弟の柔らかい髪とは違って硬く短い男性の髪だ。「ごごごごめんなさい!!」瞬時に彼から飛び退くと、少し頬を赤らめた彼が「そんなに子供っぽいかなぁ」と苦笑するものだから慌てて訂正を挟む。
「ち、違うんです!!お、弟に笑顔が似ていて……っ思わず!!」
「弟?」
「は、はい!四歳の弟…!」
そこまで言ってハッとした。これはミスじゃないか?この世界の私に戸籍はない。家族はない。家はない。なのに、四歳の弟…。どうしようと視線を泳がせていると諸伏さんの真っ直ぐな瞳が突き刺さる。この人はこうだからタチが悪いのだ。
「い、いたんです…弟が…」
観念してそう言うと、彼はそうかと俯いてしまう。これ以上話すと全てを告白してしまいそうで口を紡ぐ。だが諸伏さんはそれ以上なにも聞いてこなかった。
そうよね、だって彼にも辛い過去があったんだもん、人の気持ちを汲み取れるのも頷ける。
そう一人で納得しようとして、はたと思考が止まった。
なぜ、知っている?
なぜ彼の過去を…私は知っているんだ?
それは初めて彼の名前を聞いたときの感覚に似ていた。彼に何かがかぶって見える。
何か…?
何かじゃない、彼だ…諸伏景光が二人に見える。他のものはいつも通りなのに、彼だけ…。彼だけ私の“何か”に存在する。
私は、彼を知っているんだ。
知っているのに、どうしてこれ以上なにも思い出せないの…。脳のどこかに存在するストッパーのようなものに阻まれて、それ以上は踏み込むことができない。思い出さなきゃいけないことがあるはずなのに。早く見つけなければいけないのに。
そうこうしているうちに私の中の彼は、もやに飲まれるように消えてしまった。
「おい!大丈夫か!?」
ハッと意識が浮上する。声のする方に顔をあげると諸伏さんが心配そうに揺れるその瞳に 私を捉えていた。その私は酷くやつれた顔をしており、滑稽だと自嘲の笑みが漏れる。
「大丈夫です…ちょっと目眩がして…」
と適当にはぐらかすが、突っ込んでこないのは彼の優しさだろう。それとも弟のことをこれ以上聞くのは良くないと判断されたのだろうか。それはとってもありがたいことだった。だってこれ以上その話をしたら、もう一度弟の死を理解してしまうようで、あの醜悪なバケモノのことを思い出してしまいそうで……。
瞬間、脳裏によぎる真紅。
ぐっと押し寄せるアルコールとタバコの混ざった匂い。
「うっ……!」
肉を抉った感覚が、まだ指先に残っている。
この手で、
この手であいつを……。
「名字さん!!」
「っ……!」
強く呼ぶ声が私を引き戻してくれる。先ほどよりもっと不安そうな彼の顔に「大丈夫です」と呟いて、私は手にしていた箸を茶碗に横たえる。食欲は当然のようになくなっていた。
そうか、これが犯した罪の末路なのか。
きっとこの世界で私の罪は残っていない。私に身寄りがない以上、父親殺しの罪は消えてなくなってしまっているだろう。
そう、あるのはこの記憶だけ。誰も裁くことができない、赦してもらうこともできない、記憶だけの罪。
私は、いいのだろうか?弟を一人ぼっちにし、裁かれることなくのうのうと生きてしまっても。きっと誰に聞いても答えはないのだろうとわかってはいるけれど。
→