諸伏さんに参考書を買ってもらった日から私は時間があれば勉強をするようになった。もともと何もすることがなくて暇を持て余していた時間が多かったし、なによりも早く高卒認定資格をもらって社会に出たかった。自分でお金を稼いで諸伏さんに迷惑をかけている現状から脱却したくて仕方ないのだ。それにはこれが一番手っ取り早い道だから、多少無理はしても頑張らなくては。
「根 詰めすぎだぞ」
「っ、えっ」
そんなことを考えながらノートに公式を書いていると、いつの間にか帰ってきていた諸伏さんが向かい側に座っていらっしゃる。ちらりと時計を確認するともう夜の9時半。諸伏さんがバイトを終わらせて帰ってくる時間だった。
「ご、ごめんなさい!今からご飯作ります!先にお風呂入っててください!」
「待った!」
ノートと参考書を閉じて立ち上がる。すると諸伏さんに腕を掴まれた。振り向くとむすっとした表情の彼と目が合う。いつもにこやかな彼だから、こういう表情は珍しい。
「も、諸伏さん…?」
「ただいま!」
「へ、え、……?」
「ただいま!」
「え!?お、お帰りなさい!」
「ん!」
私の返事に満足したのか、諸伏さんは寄せていた眉を緩めてふにゃっと笑う。本当に曇りのない笑顔だ。それから彼は着ていた薄手のカーディガンを脱いで、「焦んなくていいからな」とお風呂場に入っていった。
きっとそれはご飯のことだろうとはわかっているし、諸伏さんがそういう人だということはわかっている。それでも…。
「それじゃ…ダメなんですよ」
ぼそりと吐き出した言霊は、どこに届くことなくフローリングに溶けていってしまった。静かになったアパートの一室に、どこからか聞こえたセミの声だけが薄らと響いている。夏の到来はもうすぐそこだ。
「最近あっついなぁ…」
「じめじめしますね」
6月中旬。3日ほど続いた雨がやっと上がり、空は久々の晴れ間を見せていた。それにしても雨により上がった湿度と相まって6月なのにもう夏のような気温だ。たまらず額の汗を拭うと、諸伏さんは「アイス買いに行くかぁ」とのそり立ち上がる。それには両手を挙げて大賛成なので私も彼に続く。「何アイスが好きなんだ?」と聞いてくる彼と他愛もない会話をしながら部屋を出ると、扉を開けたすぐそこに降谷さんが立っており驚いた。
「あれ、ゼロ?」
「はぁ……生きてたか」
「どういうことだ?」
「あのな……今日行くって何度も連絡してるのに返信をよこさないから様子を見にきたんだろうが」
降谷さんは少し早口でそう言ってから、深い深いため息をつく。そういえば今日は何度か諸伏さんの携帯がなっていたような気がするし、全然携帯を見る様子がなかった。あの連絡は全部降谷さんからのものだったのか。
「悪いなぁ」
「悪いなじゃない。この前空いてる日でいいから勉強みてくれって言ったのはヒロの方だろ」
「確かに頼んだな」
諸伏さんはそう言ってまた笑う。降谷さんはそんな彼に慣れているのだろう、頭を抱えはすれど声を荒げることはなかった。
……それにしても「勉強を見る」っていうのは多分主語に私がくるんだろうな…。無理して勉強しているのがバレたのだろうか…。いや、無理って言うほど無理じゃないのだ。現状倒れてないわけだし…。
「で?どこに行くんだ?」
「あぁ、暑いなぁと思ってアイスでも買いに行こうかと」
「それなら僕も賛成だ。こう暑いと集中もできない。なんならエアコンも入れてしまおう。無理して暑いのを我慢する必要なんてないんだからな」
降谷さんはそう言って部屋に入っていくと慣れた様子で戸締りをしてエアコンをつける。つまり帰って来たらこの部屋は涼しいと言うことだ。それはちょっぴり楽しみ。
「さぁ、いくか」
いつの間にかリーダーになっていた降谷さんは先頭を切って歩き出す。誰かに付き従っているのとか似合わなさそうだなぁと思いながら歩幅の広い二人を慌てて追いかける。諸伏さんが買ってくださったサンダルじゃ、ちょっと歩き辛かった。
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