「ヤッホー!調子はどう?」

アメリカから一時帰国した有希子さんが顔を出したのは日曜日の午前中だった。それを出迎えたのは俺で、同居人の女は近くのスーパーまで買いものに行っているらしい。

「あれ?名前ちゃんは?」
「買い物に出かけていますよ」
「あらら、残念」

彼女の言い方からしてそこまで長居はできないらしい。いつもだいたいとんぼ返りではあるが。

「んじゃ、今回の変装チェックね!」
「はい」

軽い足取りで洗面所に向かう彼女の後を追いかける。彼女の変装の腕は天下一品と言っても差し支えない。しかも指導の腕も確かで、今では毎朝の変装の時間もかなり短くなってきた。同居人の女が違和感を感じていないのが何よりの証拠だろう。

「うーん、上達してきたわね」
「恐縮です」

彼女は“沖矢昴”としての顔をいろんな角度から見ては満足げに頷く。“沖矢昴”になりきるというのは自分でもうまく行っているとは思っていた。変装ももちろんだが、話し方や所作など。それもこれも全て有希子さんのおかげではあるのだが。

「ところで、名前ちゃんとはうまくいってる?」
「はい。ばれた様子はありません」
「違うわよ。仲良くやってるかってこと」
「仲良く……?」

彼女が言っていることがいまいちわからなかったが、ありのままに毎晩書斎で本を読みながらお酒を飲んでいると伝えると「あら!」と嬉しそうに笑われた。その笑顔に昨夜の同居人の女を思い出す。泣いているのを、泣きたいのを必死に抑えてつけて無理に笑ったあの女を。

「なにか、あった?」

少し視線を下げただけなのにそう聞かれる。顔をあげれば心配そうな有希子さんが目に入った。

「流石大女優だ」
「違うわよ、女の勘ってやつ」

彼女はそうウインクして洗面所を出て行く。ついてこいと言いたげなその背中を追いかけるとリビングに着いた。「ピッカピカね」と、掃除が行き届いていることを嬉しそうに笑って、有希子さんはソファに腰掛ける。俺が向かいに座ると、また心配そうに笑っている彼女と目が合う。

「なにか心境の変化があったのかしら」
「いえ……。ただ、不思議な女だと思いまして」
「名前ちゃんのこと?」
「ええ」

あの女がこの工藤邸に来た時、最初は敵のスパイかと疑って接していた。そのため少し対応が“本当の俺”寄りになっていたのだが、次第にそれは杞憂だったことに気付く。あんなに隙だらけの女にスパイは務まらないし、それに家事炊事に手ぬかりがないのは真っ当に育ってきた証拠だと思ったのだ。人の死に目にもあったことがなさそうな無害な女。だからすぐに態度を“沖矢昴”のものに切り替え、あの女を晩酌に誘った。“沖矢昴”としては同居人と親睦を深めるべきだという利己的な判断だ。
ミステリーの「ミの字」も知らなそうな女だったが、俺につられて本を読むとすぐその魅力にハマったらしい。バーボンも飲んだことがないと言っていたが、チェイサーを交えながらゆっくり飲むと酔った調子も見せなかったからそんなに弱いわけではなく、慣れていない時に一気にアルコールを摂取したから倒れたのだろう。
いつのまにか晩酌をしながらの読書会は日課となっていた。流石にポーの「黒猫」を手にした時は焦ったが。「そして誰もいなくなった」でビクビクしていた女だ、ゴシックホラーなんて耐えられたものじゃないだろうと思ったのだが、一度怯えて「お風呂場についてきてくれ」と言ったくせにすぐに慌てた様子で書斎を飛び出してしまい、差し出した左手が所在なさげに宙を漂っていた。
あの様子、少しだけ思い当たる節がある。そうじゃないようにと願っているのはなぜだ?あの女の感情は、そいつのものであるはずなのに。

「不思議ね……。でもわかるわ。なんだかフワッとしていて、楽天家よね」
「楽天家……というより、そう思っていなければならないという強迫観念に囚われているように思えますが?」
「なるほど?無理して笑っているってことかしら」

昨日の女は確かに泣いていた。しかしそれを堪えて、「泣いてしまったら恨んでしまうから」と。「恨みたくないから」と感情を抑えつけてしまったのだ。上手く、いえなかった。目の前の女をしっかりと泣かせてやらないといつか抱えていた感情で自滅してしまうと分かっていたはずなのに。俺はいつも泣かせてやれない。“沖矢昴”としてならできたかもしれない。なのに真っ先に出た感情は確かに俺自身のものだった。

「強がりが下手なくせに無理をするんです。そんなこと意味はないというのに」
「…………」

有希子さんは驚いたように目を見開いてしばらく黙ってから、「へぇ」と楽しそうに笑う。机に頬杖をついた彼女は無邪気にこう言った。

「好きなのね」

その言葉がやけにしっくりとくる。
あぁ、そうか。俺はあの女のことを好きになっていたのか。確かにそばにいることに安心を感じていた。ミステリーを読み耽る横顔を眺めていたこともある。怯える女に安心させてやりたいという思いを抱いたし、泣かない女に「アイツ」を重ねた。だから、今度は、今度こそは涙を見せて欲しいと思ったのか。

「みたいですね」

有希子さんはその返答に満足いったのか立ち上がる。この歳になって恋か……となんとなくため息が出た。しかも「あの日」の「あの反応」……。

「敵が自分自身とは……な」

呟いた俺の言葉に興味を惹かれた有希子さんに問いただされるのはすぐのことだった。