「おや、もう七冊目ですか?」
昨夜まで読んでいた小説を棚に戻すと、沖矢さんの声が背中にかかる。晩酌を始めてからもうすぐ三週間。バーボンの刺激にも、ミステリーの刺激にも慣れた私は、次は何を読もうと視線を巡らせる。
「はい、結構面白くて。ついつい夜更かししてしまいます」
「それがミステリーの醍醐味ですからね。この前までは怯えていたのに、もう大丈夫そうですね」
「か、からかわないでください…」
「いいえ、少し残念だと思いまして」
沖矢さんはそう言って肩を竦めて見せる。なんだか含みのある言い方だ。なんだよーと唇を尖らせながらもう一度棚を見る。ずっとアガサ・クリスティばかり読んでいたし、次は違う作家もいいかもしれない。紳士的なエルキュール・ポアロも素敵だったけれどね。沖矢さんが好きだというシャーロック・ホームズにも興味があるが、…ここは新たな世界に行ってもいいかもしれない。
「よし!」
読む本を決めて私は定位置の椅子に座る。沖矢さんが「決まりましたか?」と首を傾げたので、「はい!」と表紙を見せた。
「そ、それは…」
「エドガー・アラン・ポーの「黒猫」……という小説みたいです!」
「あの、いや、それは…っ」
「あ!犯人言ったらダメですからね!考えながら読むのが楽しいんですから!」
何か言いたげな沖矢さんは私の言葉にため息を吐くと、少し難しい顔をしてから自分の読書に戻っていった。
「………」
「だから止めようとしたんですよ」
がたがたと震える私に呆れたような彼の声が降ってくる。小説を読んだ私は余りの恐怖に椅子を下りて膝を抱えてなす術もなく固まってしまった。
「こ、これミステリーじゃないじゃないですか…!」
「ええ、エドガー・アラン・ポーは高名な推理作家でもありますが、それと同時に詩人でもありホラー作家でもあるんですよ」
「なんで言ってくださらないんです!!」
「止めようとしましたが、ネタバレはしないで…と貴方がおっしゃったんです」
「確かにそうです……」
自己責任だというのに沖矢さんに当たってしまってかっこ悪い…。「ごめんなさい…」と小さく謝ると、私の目線までしゃがみ込んだ沖矢さんと視線が合う。彼は眉を八の字にして私の頭を撫でてくださった。優しくて、しっかりした手だ。
「怖いですか?」
「こ、怖いですよ…」
「あの時より怯えてますね」
「だってこれは純粋にホラー小説なんですもん!解決の糸口がないし……」
早口になりながらそういうと、彼はふっと小さく笑って「かなりミステリー小説に影響されてますね」と言った。確かに、解決の糸口を探す辺りそうかもしれない。でも私は本気で怯えてるのだ。笑うなよーと思いながら睨みつけると、彼はまたお構いなしに笑って「可愛らしいだけですよ」なんて余裕そうに言ってくるものだから勝ち目がない。
「それで、今日もお風呂場までご一緒しますか?」
「よ……ろしくおねがいします」
「はい、喜んで」
彼が差し伸べてくださる手につかまり立ち上がる。しかし、ずっとしゃがみ込んでいたため一瞬めまいのような感覚に襲われ体が傾く。「わっ」「おっと」一瞬で私の体を抱きとめてくださった沖矢さんの体は、想像以上に筋肉質だった。間近に感じる熱に鼓動が早まる。かすかに香るタバコの匂いが、彼を「男」だと認識するには十分すぎた。
「す、すいませんっ!」
「あ、危ない!」
咄嗟に距離を取ろうとすると背後にあった椅子にぶつかる。椅子についたキャスターが転がり出し、支えを失った私は尻餅をつく形で床に座り込んだ。
「いったー……っ!」
「だ、大丈夫ですか?」
座り込む私の目の前に差し出されるのは先ほどと同じ手だ。私を見下ろす彼は、笑っているような心配しているような、読めない表情をしている。情けないな…と彼の手につかまると、触れた部分から燃えるように熱くなる感覚にとらわれる。
ま、まさか…!
瞬時に手を引っ込めた私は自力で立ち上がり、ゆっくり彼から距離を取った。
「あの、名前さん?」
「っ!だ、大丈夫です!お気になさらず!!」
脱兎の如く書斎を飛び出る。ホラー小説の記憶なんてもうとっくの昔のようだった。それよりも怖いのは私の心情の変化。
彼に触れて、タバコの匂いを嗅いで、それだけで意識しちゃうなんてどういうこと!? 男性経験の乏しさが今は恨めしい!! 確かに、イケメンだなーとは思っていたけれど、それでもドキッとしたことなんて一度もなかったのに!!
「わ、私……!」
恋しちゃったらどうしよう!?
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