ぺらりとページをめくる音だけが書斎に響く。ちらりと視線を上げると、沖矢さんはいつも通りバーボンを飲みながら本を読んでいた。いつもと変わらない…。私だけが焦ってる。なんだかちょっと悔しいな……。
いやいや、別に好きって決まったわけじゃないし…かっこいいのは最初から知っていたし…いまさらいまさら…。

「今日は読まないんですか?」
「ひぇっ!」

突然かけられた声に思わず肩が跳ねる。手にしていた本も落としてしまい、開いていたページは閉じてしまった。訝しげな沖矢さんの視線を感じ、私はゆっくり目線を逸らして本を拾い上げた。見られてないようでしっかり見られてる。

「え、えっと、まぁ、はい」
「気分が乗らない日もありますよね」
「そんな感じです…」

都合よく解釈してくれた彼に適当に頷き、どこまで読んだかを確認しながら小説をめくったのだが、全然記憶にない。ダメだ…どうやら頭に入っていなかったらしい。はぁ、と私が浅くため息を吐くと沖矢さんはめくっていたページにブックマーカーを挟み本を閉じてしまう。せっかくの晩酌の時間を邪魔してしまっただろうか。

「ごめんなさい、私」
「いえ、集中できない日もありますよ。今日は私とお話しでもどうですか?」
「え……」

机に頬杖をつきながらそう聞いてくる彼に胸がギュッと苦しくなる。恋?いやいや、顔がいいだけ顔がいいだけ。

「ダメでしたか?」
「ダメなんて!!ぜ、是非!」

私は手にしていた小説を机に置き、背筋を正して彼と向かい合う。なんだか面接を思い出してしまった。

「そういえば……名前さんは以前どんな仕事をされてたんです?」

思い出したかのように質問をしてくる彼に、そういえば直接彼に事情を説明していなかったということに気づく。お酒関係でいじられたからそこら辺のことは有希子さんが話したのだろうと思うけれど…。

「普通のOLですよ。生薬会社の事務です」
「ほう?生薬会社ですか」
「といっても、面白い話なんて何もないんです。まぁ、高校卒業してからずっとだったので勤続年数自体はそこそこありましたけど、下っ端も下っ端ですし、目立った業績でもありませんでした。そんな会社にも…闇金からの取立てを理由に解雇されましたしね……」

いまさらながらついていなさすぎる、と引きつった笑いが溢れる。沖矢さんは驚いた顔をされて「闇金…」と呟いた。

「あ、で、でも!有希子さんがどうにかするっておっしゃってたのでどうにかしてくれたんだと思います!事実ここにも来てないですし…!」
「なにかお金に困ることが…?」
「あー……私じゃないんです。両親が少し。でも、恨んではないです。親も子も選べるわけじゃないですし、そういう星のもとに生まれたんだなぁみたいな…。その程度です」

私が笑って見せると、彼はとても悲しそうな目でこちらを見るものだからじわりと目頭が熱くなる。恨んでないのは本当だ。それに、今まで育ててもらった恩もある。時期が悪かった。運が悪かった。親も私もそれだけなんだ。

「あれ……おかしいですね…嘘じゃないんですけど……」

視界がぐにゃりを歪み出して、目の前の彼がよく見えなくなってしまう。泣くつもりなんてなかったし、ここで泣いたらただのめんどくさい女だ。人前で泣くなんて情けない。堪えないと。

「それは、当然の感情だ」

冷たくて暖かい声が聞こえた。
沖矢さんの声だ。
私は涙がこぼれないように必死に目元を押さえる。
当然なんかじゃない。そもそも悲しいことじゃないし辛いことでもない。
ただ、仕方のないことだったんだ。

「泣いても、いいんですよ」

目元を押さえる手に、沖矢さんの手が重なった。冷たい指先に私の涙がこぼれてしまう。

「な、ないていいわけ、ないです」
「なぜそうも頑ななんだ、君は」
「ないてしまったら、わたし……うらんでしまいそうで……」
「君は優しすぎる」
「そんなんじゃ、ありません。ただ、育ててくれた人を恨むような人間になりたくないんです…」

だから、私はグッと涙を堪えた。重なった彼の手も優しく解いて。上を向いて何度も瞬きをすると次第に涙も引っ込んでいく。よし、大丈夫だ。

「へへ、ごめんなさい。せっかく誘ってくださったんですけど、私お風呂入って寝ますね!」

机の上に置いた小説を手に取り立ち上がる。沖矢さんが何か言いたげに口を開いたが、それよりも早く踵を返した。

「お話し、聞いてくれてありがとうございます!沖矢さんってお優しいんですね」
「そんな、ことありませんよ…」
「いえ、そんなことありますよ。……おやすみなさい、また明日」

彼の返事が聞こえる前に書斎を飛び出る。
あーあ、相当不細工な泣き顔を晒してしまった。これは望み薄だなぁ、とそんなことを考える時点で彼のことを好いているなんて当然のことをいまさら気付いたって。

「もう遅い!」