こちらの続き。
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 今度は尾形という男が家にやって来た。尾形もまた父に頼まれて……であった。
 とにかく私は尾形さんを家に上がらせ、温かい緑茶を出した。

「羊羹好きですか」
「甘いものは得意ではないです」
「そうですか……」

 それきり会話はなく、尾形さんは私の様子を見るとすぐに帰っていった。
 尾形さんは週に二、三回ほど家にやってきては猫のような真っ黒な目でじろりと私を観察する。内面まで探るようなあの目つきがどうも苦手で、私はよく彼の視線から逃げるため自分の手元や尾形さんの足元ばかり見つめていてた。

 尾形さんの顔も見慣れてきた、とある日。
 月のものがきていて機嫌が悪かったせいもあるだろう。私はあまり好ましくない彼の視線にはじめて嫌悪感を露わにした。
 これに関しては自分でも驚き、戸惑った。負の感情を他人の前で曝け出すなんてかなり久しぶりだったからだ。慣れぬことをしたせいで狼狽が隠せない。
 気怠げにため息をつく私を尾形さんは少し意外そうに見ていた。暫しの沈黙。それから尾形さんは顎を擦り「また来ます」とだけ言って帰って行った。
 もう来ないでほしい。私は見えなくなった背に向って毒を吐いた。

「はあ……? 私、鳥なんて捌けませんよ」
「でしょうね。知っています」
「はあ……」
「教えるので覚えてください」
「は」

 三日後の朝に、彼は突然やってきた。しかも右手に仕留めた鳥を持って。だらんと力なくぶら下がる鳥の姿を見て、思わず口元を袖で覆う。寸前まで息をしていたであろう動物の生々しい姿に耐えられず、ウッと吐き気がこみ上げる。

「や、やだ、やだやだ。離して」
「やだじゃない」
「いや、やめてください、いや、いやだ助けて……」

 顔を真っ青にする私を気遣うわけでもなく、尾形さんは私の手をぐいぐいと引っ張り、裏庭へと連れて行く。
すごい力だった。父以外に触れられる男の指が、私の手を握りしめる分厚い肉の感触がとてつもなく恐ろしかった。
 尾形さんはよろよろと足を縺れさせる私を地面に座らせて、鳥の血抜きから羽抜き、そして内臓の取り出し方まで全てを教え込んだ。

「人間の首を切るとね、もっと血が飛び出るんですよ」
「……しりません……」
「鶏も絞めたことがないんですから、そうでしょうね」
「うっ、うう……おとうさま……」
「父君は小樽にいるので来ませんよ。ほら、ちゃんと切って。下手くそだなあ」

 あまりのショックに泣きだす私だが、尾形さんは容赦なかった。私の背後から手を覆うように掴み、包丁を放すことも許してくれない。鬼畜と罵ろうと思ったが喉が引き攣って声が出なかった。
尾形さんは毎回、鳥を捌き終えると血がついた手で私の手を撫でてくる。まるでまじないを擦りこむような厭らしい撫で方に、私は身を震わせるばかりで振り払うこともできなかった。

 これを五回ほど繰り返すと、私もついに鳥を手早く捌けるようになった。
 こんなことをしてなにがしたいのですか。私は血と獣の匂いがついた手を広げながら問うた。しかし尾形さんは「手を洗って」と投げるだけで、余計なことは何ひとつ教えてはくれなかった。

 それからというもの、尾形さんは家に来るたび、鳥を土産にして持ってきた。慣れた手つきで調理をする私の背を、尾形さんは胡坐をかいた足に頬づえをつきながら眺めている。彼の根っこに潜む狂気は一体どこから芽を出し始めたのか。私は首筋に脂汗を滲ませながら、気付かぬふりを続けた。

 鳥まるごとは食べきれないから食べれるだけ食べていってくださいね。そう言うと、尾形さんは一日に二回、家に来る。彼はたぶん、ここを食事処と勘違いしている。黙々と食べる尾形を前に、私は思った。

「鳥、飽きない?」
「別に」

 お互い、敬語も使わなくなっていた。そしてそろそろ尾形さんの態度にも慣れてきた頃。

「ねえ、私、鳥飽きたわ。たまには違うものが……ああ、ほら魚とか。確か今の時季は……」

 また鳥を片手に訪ねてきた尾形さんに辟易して、なるべく機嫌を損ねないように明るい声を出して背を向ける。
すると、べしゃりと重たい肉が落ちる音がした。
 振り向けば鳥が玄関の床に力なく寝転んでいた。次に尾形さんに視線をやる。その目を見た瞬間、私はぞっと身を竦ませた。こう、なんと言ったらいいのか。尾形さんは底なしの沼のような、いえ、光の筋すらなくしたような目で床を見ていて、それがわかると心臓が早鐘を打って、ざわざわと恐ろしい気持ちが体の奥からせり上がってきて、視界がぶれて、瞬きをしているうちに尾形さんの姿がどんどん近くなってきて、それで……。

「気が付いたか」
「…………」
「貧血だとよ。月のものが重いんじゃないかって医者が」
「……いえ、別に……そんなには……」

 目が覚めると、私は布団の上に横になっていた。横には尾形さんが胡坐をかいて座っていて、いつもと変わらない様子だった。時計を見てみれば……あれから二時間ほど経っている……どうやら私は気を失っていたらしい。いきなり目の前で倒れられたから死んだかと思ったと、尾形さんは珍しく笑っていた。

「熱はないみたいだが」

 尾形さんが私の額に触れようと手を伸ばす。迫る掌に、ひゅっと喉が鳴る。脳裏に浮かぶのは絶望と失望を包括したような、人と呼べるには程多い顔をした尾形さんの目。私は反射的に身構えてしまい、小さく悲鳴を上げた。

 すると尾形さんの目から熱が消えた。屍のように冷たい目。嗅いだことのない鼻を突く匂いに、一瞬だけ父の顔がちらついた。
 獲物の具合を見るような目が私の肌を突き刺す。ブルブルと震えている私の姿はさながら絞殺される前の家畜だ。そんな家畜を見て、尾形さんは滑稽だというように、くつくつと喉の奥で笑った。そしてゆっくりと私の喉元に手をかけてくる。その光景に見覚えがある。
 分厚い手に掴まれ、だらりと首が伸びた鳥。尾形さんが殺し、私に捌かれた哀れな鳥達の死に顏が脳裏に明滅して、それがいつの間にか己の首にすり替わる。まるで自分の末路を示唆しているようだった。

「いやっ……」
「怖がらせて悪かったよ。お前が楽しそうに首を掻っ切るからつい俺も嬉しくなって鳥を撃ってきちまうんだ……なあ、明日はあんこうを買ってきてやるから、それで何か作ってくれよ。ああ、鍋にしようぜ、鍋。あれなら簡単だろ。な?」

 体のうぶ毛をなぞるように尾形は優しく囁いた。頬にかかる生温かい息に私は目尻を湿らせ、視界を閉ざす。

「魚が捌けないならまた俺が教えてやる。だから明日はあんこう鍋だ。わかったな?」

 何色も映さない黒々とした瞳が瞼を通して私を射抜く。私は呼吸を乱しながら、こくこくと頷いた。

「よしよし。いいこだ」

 あやすような口調とは裏腹に、尾形は首を絞める手を強めてきた。殺される。息苦しさのあまり、ウウ……と呻けば、尾形さんはようやく首から手を離してくれた。

 荒く息を吐き、ホッとしたのも束の間、今度は着物の襟もとを乱された。やめてと悲鳴を上げようにも出てくるのは老婆のような枯れた声ばかり。これから起きるおぞましい行為が想像出来ぬほど、私は子供でもないし愚かでもない。それでも、私は血抜きをされる鳥のように固く目を瞑り、静かに事が終わるのを待ち続ける方を選んだ馬鹿な女だった。
 
 父はまだ、家には帰ってこない。

 次の日、私はあんこうを買ってきた尾形さんのために鍋を作った。彼は相変わらず無表情で黙々と食べている。いつもと変わらない態度を取る尾形さんを見ていると、あれは私が見た悪夢なのではと微かな希望を抱いたが、己の足の付け根だけは正直で、下手な嘘はつかなかった。
 昨日の今日で食欲が湧かない私はあんこうと豆腐を少し食べ、箸を置いた。尾形は鍋を綺麗に完食した。いつもは残す癖に。それとも余程あんこうが好きなのだろうか。

 普段は食事をしてすぐに出ていく尾形さんが、今日は珍しく居間で寛いでいた。私も後片付けを終えて、彼の隣に座る。女の奇妙な行動に、尾形さんは未知の生物でも目撃したような顔をした。そりゃあそうだ。昨日体を暴かれた女が、同意もなく致した男の隣に座るなんて正気の沙汰ではない。とうとう気が違ったかと言わんばかりの眼差しが横顔に注がれる。

 けど、その日は肌寒かった。心寂しかったのだ。だから私は人の温もりを求め、尾形さんの肩に頭を預け、そのまま寄り掛かったのだろう。そんな私を尾形さんは振り払うこともなく、嫌がる素振りも見せず、じっと地蔵のように黙っていた。
 振り払われると思っていた大きな手が私の肩に回る。驚いて顔を上げようとしたが、それを抑え込むようにしてそのまま尾形さんの胸に抱き寄せられた。彼はどんな心境で、いまどんな顔をして私を抱き寄せているのか。どうしても尾形さんの顔が見たくて、そっとのぞきこんでみようと試みたが、肩を包む手の強さに抗えず断念せざるを得なかった。

 私はふと、尾形さんの熱に愛おしさを抱いていることに気付いた。彼が着ている軍服に懐かしさがこみあげきて、不思議と心が安らいだ。なんでだろうか。ああ、そうだ。思い出した。父だ。

 若き日の父の姿が頭の片隅に蘇る。幼い頃、よくこうして父に寄り掛かって遊んでいた。あのころはまだ母も健在で、父も毎日家に帰ってきてくれていた。尾形さんの肩と匂いに父の面影を重ね、幸福だった日を偲ぶ。
 気付けば目尻からは涙が溢れ、私はそのまま力なく崩れ落ち、尾形さんの膝に顔を埋めて、うあああと声を上げて泣いていた。
 そのとき尾形さんは何を思ったのか、彼は急に泣き出した私の頭をぎこちなく撫でてくれた。頭を撫でられるのはいつ以来だろうか。もうそれすら忘れてしまった。
 不器用で優しい男の手つきに懐柔された私は、自然と彼に体を許すようになった。

 年を越してしばらく経つと、尾形さんは長期任務で旭川から離れることになった。

「しばらくはここに来れない。もしかしたら鶴見中尉は他の奴にお前の様子を見てくるよう頼むかもしれんが、うまくやれよ」
「……うん」

 力なく返事をする私を見て尾形さんが靴を履く手を止めて振り返る。
「なんだ寂しいのか」とニヤニヤ笑いながら揶揄してくるその背中に縋りつきたいのを我慢して「ええ」と素直に頷く。すると尾形さんはゆるりと笑みを消して、顔を横に背けた。その態度にどことなく胸騒ぎを覚えた私は「怒ってるの」と訊ねた。

「は? いや……怒ってない」
「本当?」
「嘘言ってどうするんだよ……」
 どことなく煩わしさを感じるのは気のせいだろうか。不安でたまらない。
「うん……」

 尾形さんは家を出る前に私の顎を掴むと唇を吸った。そしてしばらく考え事をしているような眼差しを向けたかと思えば、私の喉元を掴み、ぐっと力を込めてきた。息の根を止めるようになんの躊躇もない手に、蓋をしていた記憶が呼び起こされる。 手を引き剥がそうと指に爪を立てるが、締める力は緩まない。
呼吸を止められ、頭に血が上る。それでも尾形さんは私の唇を貪ったまま。舌を引っ張り出され、乱暴に舐られ、唾液が出口を求め、口の端からだらりと溢れる。

 ああ、ついに絞殺される。死を覚悟したとき、尾形さんが急に唇を放した。首からも手を放され、ぐったりと床に尻もちを付き、肩で息をしながら尾形さんを仰ぐ。玄関の引き戸から差し込む逆光で、尾形さんの顔がきちんと確認できない。けれど、口元には微笑みが添えられている。それだけははっきりと見えた。

「じゃあな。鍋、美味かったよ」

 尾形さんはそう言い残し、玄関の戸を潜った。
 この日を最後に、尾形さんは私の前に姿を現していない。彼はもうここには戻らないのではないか。不思議とそんな確信めいた思いが胸にあった。あれほど恐ろしい目にあったくせに私はまだ彼と相まみえることを望んでいる。一体なにをしているのだろうと自嘲したが、それでも私はなんらかの強い想いによって突き動かされていた。
 外出先では周辺に目を配り尾形さんの影を追い求めたが、結局彼を見つけることは出来なかった。

 もう彼はこの家に来ないのだ。これを機に全て忘れよう。そう諦めていた矢先、私は偶然尾形さんの噂話を耳にした。私にとって、それは心臓が止まりそうなほどの驚くべき内容だった。

 酷な現実を知ったのは、あてもなくさ迷い歩いていた黄昏時のこと。そろそろ家に帰ろうかと思い、道の端に佇んでいる二人の兵隊さんの横を通り過ぎようとしたとき、私は彼らがぼそぼそと話していた内容をたまたま聞いてしまい、その瞬間足は根が生えたように動かなくなった。

 なんと尾形百之助は第七師団から造反し、行方をくらませているというのだ。しかも、あの二階堂兄弟の片割れ、洋平さんも敵に斬りつけられあっけなく死んだというではないか。
 その話を聞いたとき、すとんと何かが落ちた。心がぽっかりと穴が空いたような虚しさに襲われ、なにもかもがどうでもよくなった。

 ふらふらと覚束ない足取りで家に帰り、なんとなくお気に入りのつづらを開けてみれば、浩平さんから貰った双眼鏡が無くなっていた。代わりになぜか見覚えのない折り畳みナイフが中に入れられていた。
 手毬、手鏡、母から貰った鮫小紋柄の風呂敷や髪留め。平穏なつづらの中に潜むナイフは異様な存在感を放ち、不気味であった。震える指でなんとかそれを手に取り、ゆっくりと刃を広げる。刃体の長さは六センチくらいだろうか。鈍く光るナイフは誰かに似ていて、猛烈に興味をそそられた。私は気が触れた人間のようにナイフをなぞり、皮膚に刃をくい込ませた。
切れた部分からぶっくりと血が出て、それと同時に頭に思い浮かんだのは…………尾形さんだった。

 サッと全身から血の気が引くのがわかった。なにかを考える前に足が先に動いていた。ナイフが足元に転がり、部屋を出ていくときに蹴り飛ばしてしまったが、気に留める余裕もない。
 慌てて貴重品が入っている棚を開け、中を確認する。どうやらなにも盗まれていないみたいだ……。心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。それから家中の箪笥や棚の中身を全て見て回ったが、持って行かれたものはなにひとつ無く、すべて調べ終えた頃には一気に体の力が抜け、私は廊下の真ん中にへたり込んでしまった。

 そして、私はようやく気付いたのだ。尾形さんは父の弱みか何かを探るため、私が寝ている間に家の中を少しずつ調べて回っていたのだと。しかしめぼしいものは見つからず、なぜか双眼鏡だけを取っていった。
 私の事を殺そうとしたのもその腹いせに違いない。首を絞められたときの圧迫感を思い出し、ウッと嘔吐く。こみ上げてくる吐き気を我慢できず、私はとうとうその場で吐いた。
 実に彼らしい、なんとも悪辣なやり方である。
 ……まただ。またやってしまった。私はいつも無くしてから気づく。

 愚かな雌鶴は山猫にまんまと騙され、肉を貪られただけだった。私は寒い廊下で乾いた笑いを漏らし、笑うことに飽きると狂ったように泣いた。 

 窓から入り込む闇は次第に明るくなり、新しい朝を告げる。
 玄関先から「ごめんください」と男の声が耳に届いたけれど、いまの私には立ち上がる気力さえなかった。

2018*0608