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遭難者

銀雪ルートペアエンド妄想。

 真っ暗い闇の底にいた。ベレトがようやく目をあけたころ、すでに空は白み、にごった窓からは薄い青色と明けの光芒がぼんやりとさしこんでいた。彼の腹の上をのっそりと通りすぎた早春の明かりが寝台をはい落ちて、広くはない宿場のへやを横切っていった。眠りからからだをはがして、かたわらにある水差しに手を伸ばしてそれがつややかな陶器でないことを知ると、彼はやっと、ここには天蓋も、石造りの壁も、魔除の香料の褪せたかおりもないのを思い出した。
「起きたか」
 へやの片側から彼に呼びかける声が、夕暮れに燈る燭の静けさのようにそっとひびいた。ベレトは顔を上げた。白麻の夜着を着ただけのユーリスが、薄暗がりのある向かいの寝台にこしかけてひざに頬づえをつき、長いまつ毛をふせて、じっとベレトを観察していた。ひだを寄せたやわらかな袖にかくれた口もとが、にこりともせずに見下ろしている。
「もしかしてずっと起きていた?」
「んなわけあるかよ」
「血のにおいがする」
 ベレトがそう言うと、ユーリスはなにかへんな生きものを見たように首をすくめた。
「それはあんたが昨日……追いはぎを殺したからだろう」とユーリスは言い淀んだ。「外套は洗っておいた。あと半刻もすれば乾くだろ」
「ありがとう」
 と、ベレトは言った。うなずいたかはさだかではなく、ユーリスがすこしからだを傾けると、夜明けにひたって浮かぶようなへやの中で深い瑠璃色の陰に浮かびあがる彼の、陽光におぼめいてほとんど白菫の色になった髪が肩から滑り落ちていった。宿場の角にあるせまいへやはどこもかしこもうっすらと淡く、塵のわたる光の線が壁も床も色あせた街路のような色に掃いていた。
「大変だったんだぜ?」とユーリスは平坦な声音で言った。「あんた、宿場についてすぐに寝ちまうから、外套を剥いで、籠手をはずして、寝台に放りこんで。怪我でもしてるのかと思ったら、そうじゃねえみたいだし」
 よく見れば、ユーリスの髪は乱れてほうぼうに毛束がはねていて、目はほんの少しぬれてうるんでいた。身なりをいたわる彼にしては脹ら脛までのびる裾を惜しげなく、まったくの夜着のままでぼうっとしていたのも、じっさい、彼がそんなに眠っていないことに他ならなかった。
 すまない、とベレトはうつむいた。ベレトには心あたりがあった。きっと、剣戟のさなかに、木の幹に頭をつよく打ちつけたのだった。ベレトのからだが不随意に眠りをもとめるとき、きまって気を失う寸前の痛みが彼をおそっていることに、ベレトは気がつきはじめていた。が、それをユーリスに伝えたことはなかった。彼はユーリスが彼を心配し、眉をひそめているのを見ると胸が痛んだ。
 ベレトは立ち上がって、水差しから桶に水をうつし、ことさら粗野な調子で顔をつっこんだ。冷たい水がすっかり息を覆ってしまえば、とぎれた夢の回想が水泡につつまれてかえってくる。
 ゆるやかな夜明け、小さな葉の冠が訪う堅牢な大修道院を往ってより、節をひとめぐりして、修道僧の祈りも子どもたちの学び舎も、すべてを置いてベレトはただのベレトにもどり、旅をつづけるそのなかで、かつての白い僧衣やだれもいない玉座たちをまのあたりにする夢は、やわらかな春の風のうちにぎゅうと小さくこごって結晶になりはじめていたはずだったのに、こうして、ふいのあらがえぬ眠りが彼の手を名残惜しく引くたびに、木漏れ日の夢は静寂の鼓動のうちに白波のひびくようにしてベレトを呼んだ。彼は青春にひらめきわたるあざやかな子どもたちを忘れたことはなかった。
 顔を上げて息をつき、冷たい水が襟に伝わるままにしていると、大仰といったほどでもないが深いため息をついたユーリスが布を投げてよこした。木綿の布は朝に冷えてどこかそっけなく、かたかった。
「一応聞いてやる。どしたよ」
「夢、を見ていて」とベレトはひびかぬ声で言った。
「どんな?」
「冠をのせていたころの夢を」
 そんなふうに答えてもユーリスは彼をいやがらなかった。
「そろそろ慣れろよな。あんたは妙に時間の感覚がゆっくりだから……」と、頬づえをついたままのユーリスの声がくぐもって、まどろみのように聞こえた。
 へやの隅の太い角柱のかげが濃くなった。朝日ののぼりきろうとする空気がやってきて、ユーリスが身動ぎをするかすかな衣のこすれる音がした。ベレトは、今日は宿場で休もうと思った。宿場をおりれば、酒場にはきっと蕪だとか甜菜だとか、焼き林檎や強い酒で煮た梨もあるだろう、それから干した鹿肉を差し出せば小麦粉でできた包み焼きだって料理してもらえるかもしれなかった。名案のように思われた。ユーリスは眠れていないようだったし、外套は乾いていなかった。それに、ベレト自身がどうにも足を進める気にはなれなかった。黒森をこえ、山脈をわたり、ときに街道をはずれながら孤児院を歩きわたるという旅の名目そのものはかがやかしく、ユーリスの望みであらばと思えば、彼がそのとなりで剣を振るうのはある種の連れ合いのような安寧があったが、それは同時にとほうもなくあてのないさすらいをつづけることにほかならず、砂の落ちるように時をこぼしながら放蕩のように歩いていくには、すでにベレトもユーリスも青年期からはほど遠いのだった。
「ユーリス……」
 ベレトはその思いつきを口にしようとして、ユーリスに向いた。彼はのろのろとした手つきで夜着をはずして白い襯衣に袖を通し、寝台に腰を下ろしたまま脚絆を巻いているところだった。
「なに」と彼は答えた。けれども、朝支度のために屈んであきらかになっているその首に、見慣れぬ銀色がぶらさがっているのを見て、ベレトは舌にのせていたことばをすっかり忘れてしまった。
 それはなんだと問えば、ユーリスは隠すこともなく、首からさげている銀色の鎖を襟のうちから引きだしてみせた。銀の指輪と彼の首とをつないでいる細い紐のような鎖がすらりとした指のあいだにたわんで揺れた。
「あんたにもらった指輪だよ。めずらしくもないだろ。指輪を頸飾にしてるやつなんてごまんといる」
「そうではなく」
「なんだよ」
「君の指に合うとは思っていなかったが、身につけるのならすぐに鍛冶屋にでも持っていった」
「ああ、寸法の話」とユーリスは気の抜けたように顔を上げ、ベレトをいたわるように言った。「いや、別にかまわねえよ。そうしたかったら、とっくに手前でそうしてる」
「気がきかなくてごめん」
「形見だって言って女性ものの指輪を正直にわたすくらいにはな」
 ユーリスは軽口をささやいて笑った。彼の手からはなれた指輪が上襟をすべり落ちて胸元に跳ね、ベレトの背からあふれて白くもえる朝の光にひらめいた。
 ベレトは自身の指に寄りそっている翠玉の指環をこっそりと指の腹でさすって、あいまいにうなずいた。ユーリスはそれきりこともなげに、ふたたび腰を折ってもう一方の足の脚絆をたしかめはじめた。ベレトは彼をひそかに見た。ユーリスの胸にかがやいているその細い砂粒のような鎖環は、彼に似つかわしいものではあったが、ベレトが血のけぶるにおいを思い出し、ことさらに華奢なものへのあまりにもたよりげない懸念をいだかせるにはじゅうぶんだった。
 朝支度の音だけがへやの沈黙を行ったり来たりしている中、上衣をかぶり、ひざ当ての鎧をつけたのち、ベレトはすこし考えてから、床にていねいに積まれていた荷を引き寄せた。彼は荷の中身をいくつか取り出して床にならべた。水の入った革袋に、乾酪や胡桃の保存食、大司教補佐の書き付けと教会の証明書のほかにはほとんどなにもなかったが、ベレトは身軽になった荷の中をのぞきこんで、じっとなにかを思案した。
 気づいたユーリスがいぶかしげに言った。「あのさ、何してんだ」
「……もっと丈夫な革紐のほうがいいだろうと」と、ベレトは荷を見つめたまま言った。「それなら荷の端切れで今すぐに作れる」
 ああ、とユーリスは得心したようにつぶやいて、それからベレトが顔を上げるのを待った。彼が何度か名前を呼び、やがて観念したベレトがしぶしぶ荷をもとに戻し寝台にこしかけるのを見届けると、彼は肌に傷のつかぬよう鎖を襟のうしろにぐるりとさせて、ベレトによく見えるようにと鎖環に親指を引っかけて、それをあっけなくちぎってしまった。たえきれずひしいで潰えていく鎖のかけらが、夜に光る砂原の一粒のようにまたたきながら、彼のひざの上や床に落ちていった。
「ユーリス」
 ベレトは思わずユーリスの名をとがめて呼んだが、ユーリスはほとんどかろやかに、重いよそよそしさもないようすで柔和に首をふった。
「丈夫な革紐はいらねえんだ。ほら、切れやすいのがいいんだよ」と、彼は手のひらにのせた指輪と流れ落ちる銀の鎖をながめて言い、ふしぎなうつろと甘くぎこちない声音でつぶやいた。「だから、だいじにしまっとかなきゃあな」
「それは本当のこと?」
「俺があんたに嘘をついたことがあったかね……。まあ、いいか」
 とユーリスは息をついて、大仰ぶった教師みたいに話しはじめようと足を組んだ。今はそのことをからかう幼い子どもたちもいなかった。ベレトは静かに聞いていた。彼はたよりなくはかない鼓動をひそむ夜の語らいのときのように、背を支えたほうの手で寝台の布をかすかにこすりながら口をひらいた。それは、彼の学生時代の、いじらしい強情を押し隠すときの落ちつきはらった仕草を思い起こさせた。
「指輪なんかつけていたら、殺されたときにまっさきに指ごと持っていかれちまう。まず、そのことはわかるよな」
「わかるけど」
「俺のちょっとした欲のためには、それはなんとしても避けたいんだ。だから、この指輪を鍛冶屋にあずける必要はないんだよ」
 流れるようにそう言うユーリスに、「略奪はしたことがない」とベレトは答えたが、彼はただ軽快に「そうかい。俺もだよ、気が合うな」と冗談ともつかぬことを言った。
 そのあっけらかんとした調子が、ふしぎにベレトのこころに悲しく突き立った。彼のやわらいだふだんのなりはひっそりと息をひそめて、かわりにこらえがたい幼げな不満と非難の思いとが小指の傷のようにちくりとした痛みをともなって浮かび上がってくるのを感じた。
「また死んだあとの話か」
 と、ベレトはつい低く吐き捨てた。賛嘆の救いを一縷に求めたような、癇癪じみた小さな絶望にも似ていた。そのことが、強がりや偉ぶりなんかではなく、彼の深いところの友情であることを理解していたユーリスはまるで修道僧のするようにおだやかな笑い声をたて、向かいあって座る男を子どもをなだめるときのように見守った。
「そんな顔をするなよ。あんた、自分は死なねえっていうていで、よくその手の話をいやがるな」と、ユーリスはゆっくりと言った。「まあ、あんたはいちばんの前線に立ってたんだ。仕方ねえことかもしれないが……それにしたって、誰もがいずれ女神様の御許へ行く。それはほんとうのことだろ」
「そうだろうか」
「おい、あいにく地獄に行く気はねえぞ、俺は」
 と、ユーリスは眉をしかめた。そうしていると、今がまったくふだんどおりの、たった二人の傭兵とさすらい人の閑話のように思われた。
 しかし、そうではないことをベレトは理解していた。今のユーリスはベレトのためにちょっとした大切な箱の鍵をあけて、明け方と宵の色をした宝石の指輪をその冷たく白い手のひらににぎりしめながら、彼を木陰に呼び寄せて生まれたばかりの小鳥の雛をこっそり見せてくれるような――彼の内面的な顔には、そういった、決意と、彼岸に横たわる冷徹な献身があるような気がした。
 沈黙にこらえようのないあわれな不服を宿して口を閉ざしてしまったベレトに、しばらくして、ユーリスは目を閉じて微笑みの混じるような音のない嘆息をした。
「俺に言わせるのが好きだよなあ」と、彼はうちとけて小さな声で言った。
 ユーリスは立ちあがり、指輪を閉じこめた手で、花摘みの子どもが門扉をそっとたたくような調子でベレトの胸を二、三と打った。澄んで光る端麗の顔がじっとベレトをうかがっていた。
「……俺はな、死んだとき、たったひとつの息だけは残しておくって決めてある」
「なんのため」と、ベレトはたずねた。
「この指輪を飲みこんじまうためさ」
 薄い氷が冬の風にすべるようなささやき声がしんとしたへやにぽっかりと穴をあけた。
 伏したまつ毛の向こう側にある冬の雪ふる断崖にそびえる狼の眼の、まっすぐとした峻厳のまなざしにうかがい知る純粋な不抜のこころが、やわらかな物言いにのって、ベレトの胸にひどくやさしげにひびいてくる。下界から見上げる塔に婦人の織る綾のようなかげが刺繍されて明けの星々のまどろみにかがやいているように、ユーリスの瞳がきらきらととうめいに細波立った。
「あんたは俺の名を持っていく。俺はあんたの指輪を、愛を持っていく。どうだ、悪い話じゃねえだろ」
「愛?」
 ベレトはユーリスを見上げたまま、面食らって聞きかえした。
「それ以外になんて言う必要があるんだよ」と、ユーリスは呆れたように首をかしいで、それから弱々しげに微笑した。「名も、指輪も、どちらも母さんがくれたものだろう……」
 彼がそうしてゆっくりと思慮深くまばたきをすると、化粧のないあざやかなまぶたに太陽が白い光の帯をのせた。そのしなやかな手のひらを巣穴にして淡い肌に眠っている指輪から、細かな雨のように枝垂れている銀の連環が、彼の心臓の揺らぎを伝えてかすかに波打つように見えた。
 彼は、やっぱり、いつか潰える形見の話をしているのだ。ベレトは理解し、うなだれ、そして、それは違うんだ、と思わず大声で訴えたいようなきもちになった。けれども、そうしなかった。ただ、「お前は死なないよ」と懇願するような、諦めたようなため息が、くちびるからぽつりと落ちただけだった。
 母さんが守ってくれる。魔法のかけられた母の指輪とベレトの剣がユーリスを殺させはしないだろう。ベレトが怖がっているとしたら、もはやたったいっときの戦場の死ではなかった。それらは、すでに今はなく、色あざやかにぬりわけられた石造りの教室の回顧といっしょに永遠に終わっていた。彼がおそれているのは、もっと恒久で、あらがえず、安らかな、すべての冷たい土の上に、天のしたに、およそ思慕だけが、洞窟に湧いた水が豊かにたまるようなその場所に、ひとり永遠にくずおれてしまいやしないかという絶望だけだった。その深い淵をのぞき見、思うたびに、動かぬはずの心臓がぶきみに跳ねるようなここちすらして、彼にとって、すべての選択がなにもかも間違いで、あるいはこの使命と結末のすべてが正しかったのかどうか、親しい一類のように心優しい裁定をささやいてそのうちにいだいてくれる明けの美しい少女の声は、聞こえなくなってずいぶんと久しいのだった。
 真っ暗い闇の底にいた。彼はどうしたらいいのか、ずっとわからないでいた。が、手にあふれる命がいくつも彼の横を通りすぎていくさなかに、そのとき「ベレト」と呼ぶたったひとつの声がやってきて、それは父の愛着でも、娘のまぼろしでもなく、彼を案じ、憂慮と、ときに虚勢を押しつつみ隠してほころびる微笑みを与えるともがらの重みとともに、彼のとなりに静かにここちよくおりた。
「なあ、あんたはたまに幼子みたいな顔をするよな。ベレト。路地裏のガキみてえな顔をさ……」
 ベレトは顔を上げて、親和をこめてとなりに座るユーリスを見つめた。
 そうかもしれない、と彼は思った。それでベレトは「歌ってくれる?」とユーリスに問うたが、彼は呵呵とばかり笑って「やなこった」と言った。それから彼は「今はな」とつけ加えた。ユーリスの手のひらがわずかにゆるんで、指のすきまに顔を出した指輪とそこから伸びる植物の蔦のような連環が森林の色に光をひらめかしている左指の瞳にしなだれて、無邪気にかこみのぞきこんでいた。ベレトは女神の名を胸のなかにつぶやいたが返事はかえってこなかった。
 まもなく外套は乾いたが、はじめの思いつきどおり、ベレトは旅を続けようとする彼をひきとめて、しばらく穴蔵のようなへやの窓から春の陽を見ていた。やがて、ユーリスがふたたび朝寝に入ったころには、上空で暖風がうねり、雲がやってくる気配がベレトのもとにひっそりと聞こえはじめていた。