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不完全と鋏

 粛粛と、ていねいに果実の皮をはがしてこすれあう金属のような音が、風のひとつもなく背すじの引きしまるほどの冷気のなかに伝わってきて、ディミトリは訓練場へ向けていた足をしばらくの間止めて聞き入っていたが、白みはじめた空の桃色とうすい鶯色の境界がにじむのをじっと見上げると、はたしてかれは浴室への階段をのぼった。
 ディミトリがまだ低い日によって紫色の冷えた影になっている階段に足をかけると、上から黒い髪のわずかな残骸が葉のように落ちてきた。かれは階段の半ばほどから上を見上げた。そこには、石塀に足を組んで座りこみ、熱心に斬髪をしている、見なれた後ろ姿があった。
「先生」
 と、ディミトリは階段を上がり、石塀に手をかけて顔をのぞかせた。かれがおどろいて手元を狂わせてしまうことのないよう小さな声で。
「ディミトリか」
 と、その青年はディミトリのほうを見ずに言った。「すまないな、もう少しで終える」
「いや、悪かった。かまわないでくれ」
 ディミトリは階段をのぼりきると、かれの教師である青年をまじまじと見た。青年は石塀に腰をかけて、すこし湿らせた髪を指でつまみ、少し物色するようなそぶりをしたあと、数分ずつといったように鋏で髪を落としていた。黒鎧の身ごしらえをしていない、学生のような白い櫬衣にうすい外衣を身につけただけの風体が、はしなくもおもしろく思えて、ディミトリは気づかれないほどの関心をもってささやかにからだをかがめた。
「火急の用でも?」と青年──ベレトは髪を落とす手をとめずに、ごく悠々とした調子で言った。かれにはめずらしく、その声音には早朝におおかたの人がそうであるような鈍重な鷹揚さがあった。
「いいや。とくに用はなかった。その……朝の散歩をしていただけで」
「ならよかった」とベレトは顔を上げた。「それなら、そんなところに立っていないでここにすわったらどうだ。ああ、髪がとぶから少しはなれて」
 ベレトの手がかれのとなりをさし示していた。
 ディミトリは、いまだ玉座を得ずとも、なにごとに相対しても目当てのものにまっすぐにさし向かうきらいがあった。それで、他人の横にならんですわるというのは、かれに少々のいたたまれなさと面映さをあたえた。ディミトリはベレトのとなりによどみなく腰をおろしてみながら、はじめて教鞭の卓にすわった子どものように行儀よく姿勢を伸ばし、ひざの上に両手をつかえた。
 朝つゆをめいっぱいに吸いこんでかげっていた石塀の冷たさが和んでくるのを感じながら、ディミトリは、背を丸めてひざに片足をのせたまま数束つまんだ前髪を一心ににらんでいる教師の横顔をひと目見て、またすぐに正面を向いた。浴室の扉窓にはめこんである色硝子の窓が、朝日をふくんだ白紫色の光芒に手を差し伸べ、はちみつ色をした敷石やその隙間から青い葉を広げている宿根草のちいさな花にとりどりの色をこぼしていた。それを見ながら、ディミトリは自身がいちばんのほころびだと思ったことについて、ベレトに提案した。
「鏡なら更衣室にあったはずだが」
「ん……そうだな。これはくせのようなものだ」
 ベレトは髪から指をはなしてディミトリにちらとふりむいて、やさしい語り口で言った。
「くせ?」
 ディミトリがぎこちなく聞きかえすと、かれは片手に持った鋏の鋭利な先端を宙で重ねあわせて、示すように何度か鳴らした。金属のこすれあう平たい音がディミトリの鼓膜にここちよくただよった。
「傭兵だったころ、といってもたった半年も前のことだが、鏡なんて領主の邸にあるかないかだったから。領主の家で俺が散髪できるなら話は別だが、残念なことに俺は一介の傭兵だった」
「ああ」
「こうするのに慣れているんだ。だから、くせのようなものだと」
 そう、ぽつぽつと言い終わると、かれはふたたび鋏を通しはじめた。刃物の扱いかたは言うに及ばず、ベレトは存外に精緻な手つきが得意であるのか、とディミトリは観察したが、実際のところ鋏はざっくばらんといった調子で、ためらいもなく髪を縦に裂き、そうして出来あがるのがいつものベレトの髪型らしかった。
「傭兵連中の中には、こういうのを煩わしがって髪を伸ばすものもいる」
「先生の父君も、そういった理由で?」
「たぶん」とベレトは目でうなずいてから、なにかがかれを閃かしたというように、ほんのわずか顔を上げた。「俺も髪を伸ばして編みこんでしまえば幾分か楽になるかもしれないな」
 そのつぶやきを聞いて、ディミトリは思わずその姿を想像したが、たいして尤なる絵を思い描くことはできなかった。ディミトリはしかたなく、視界のはしで黒いふさが地面に落ちるのを目で追った。
 フェリクスなど根気がある、とベレトが感心したようにちいさく言うので、ディミトリは苦笑して首を横にふった。
「あれはただ面倒がった末のことだと思うがな」
「そうなのか。てっきり願をかけているのかと」
「……まさか」とディミトリはうつむいた。それでかなう願いなど、信じる風習はファーガスにはない、とかれの胸中をそんな思いがひた走った。が、ディミトリとちがい信仰のともがらとも言いがたい幼なじみを思えば、傭兵のあいだに伝わる俗信といったものがかれの信条のひとつになっていてもあやしくはないと思われた。
 一晩のしずけさを経て流浪のように訓練場に足を向けていたことは、ディミトリの頭からすっかり抜け落ちていた。ディミトリは、ふしぎな人ではある、とベレトを横目に見た。学校じゅうのどこにでも往き交いあらわれるこのひとが、黎明をあかりにたよって沐浴のように人知れず散髪をしているというのが、かれの剣の総毛立つ稲妻のような白さを思えば思うほど、ディミトリにとってはどうにもしまりのないとぼけたようすに見えて、知らず知らずのうちに屈託のないちいさな笑い声がもれた。
「どうした?」
「なんでも」
「ならいいけど」
 ベレトはすでに後ろ髪に取りかかっていた。だんだんと乾いてきた髪が銀の鋏を通るたびにベレトからはなれてどこへともなく消えていくさなか、切られた短い髪のいくつかはディミトリのひざに舞い落ちて、かれは、はなれてすわるようにと忠告されていたのをすっかり失念していたことに気がついた。けれども、そうするごとに、ベレトが自身のひざを感慨なく払うときのように、彫刻師が聖人の毛髪から木屑をそっと払い落とすみたいにしてディミトリのひざに落ちたささやかな毛髪をのけるので、かれはとりとめもなく安んじてそのままにさせていた。
 器用に髪をつまみ取っているのをながめるのは奇妙に興味深かった。ディミトリはしばらくそうしていたが、背をいくらかうしろに倒してかれの後ろ頭をのぞきこもうとして、階下から見上げるひとつの視線に気がついた。
「アネット」
「先生、殿下!」
 早朝の橙色をした低い陽光と同じ色をした髪の少女が、ディミトリに顔を向けられたことに頬をほころばせ、ふたりを仰ぎ見て、口に手を当てて声をはり上げた。
 ディミトリが片手を上げると、少女のはきはきした足音が軽やかに階段を上がってきた。
「おはようございます」とアネットは胸に手を当ててぴょこりと頭を下げた。朝の身じまいをすっかり終えて、彼女のためにしつらえられた黒い制服姿でいた。
「おはよう、アネット」
「おはよう」
「ふたりとも、朝のお散歩ですか?」
「俺はそうだが、先生は……散髪だな」
「えっ、こんなところでですか?」
「そう」と、ベレトは髪を切る手を止めぬままうなずいた。
「そう、って……。先生、もしかしていつも自分で髪を? あっ、だからここがはねちゃってるんですね!」と、アネットはベレトの後ろ頭をのぞきこんで、つづけて困ったように言った。「あたし、いい理髪師知ってますよ、先生。大修道院を出た町の南に、腕利きのおじさんがいるんです!」
 それを聞いたベレトは顔を上げてアネットの髪をながめ、すこし思案するようにだまっていたが、「たしかにうでがよさそうだ。かわいらしい」と目元をやわらげた。
 アネットはちょっとの時間おどろいたように目を見ひらいたあと、えへへ、とはにかんで両手でおさげにふれるそぶりをして言った。
「先生、あたしうれしいです! そういってもらえたことも、ここで殿下と先生に会えたことも。今日はいい日になりそう」
「自分もだ」
 と、ベレトはこたえた。「ディミトリは?」
「もちろん」と、ディミトリはうなずいた。
 アネットのおどる足つきが、淡い果実酒が流れ出たような朝日のなかにうれしげに跳ね、晴れわたるつぼみの深い色をした瞳が波のようにきらきらとゆれていた。ベレトはすでに鋏をおろしてアネットを見上げ、頭に指をさしいれて髪にのこったくずを落としながら彼女のことばにしたしんでいた。
 ディミトリは目を細めてそれを見守っていた。髪にくしをあて、身なりをきちんとしたドミニクの少女の美しい目と、名も知らぬ、ひとりの民であったかさえさだかではない青年のまっすぐとした背が、おとろえることのない朝の光によって輪郭を蝶々の薄い羽のうぶ毛のような金色にとろかして、ディミトリのこころの中に深くひっそりと沈みこんだ。
 やがて、ベレトはややに乱れた髪をととのえるために立ち上がって井戸へ向かった。アネットはひなのようにその足あとを追いかけた。かれらは立ち止まり、振り向くとディミトリを見て微笑んだ。
「ディミトリ」
 と、おちついた低い声がかれを呼んだ。
 そのいろいろのことによってディミトリの星行はうるわしくみたされた。振り返った先にある黒く凍った王城の門はあるがままにして、けれどもこのときばかりは、市場にならぶ銀鉱石の狩猟刀だとか、子どものよそ行きの靴であるとか、あるいはだれかのスケッチの切れはしであるとか、そういったものがふいにディミトリの胸のうちに去来した。夜あかしをしたような青ざめた顔は、いまは消え失せていた。
「ああ」
 ディミトリはひざにのこるかすかな手ざわりにこころを染み入らせて、そうして立ち上がり、ゆっくりとかれらのあとを追って歩きだした。