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夢の谷間と記憶の底

 マーリンの目は穏やかに彼の主人である少年に向けられていた。少年の、真っ青になってうろたえるさまを痛ましいものであろうと思いながら、幻惑の魔術師は膝に抱えた柔らかな髪を撫でながら言った。
「気にすることはない。行ってきたまえ。この王さまには、私がいれば十分なんだから」
 少年のつよい心は眼差しを通してマーリンを貫いたが、やがて彼は芯のあるように頷くと、自分の盾を率いて森の奥へと駆けていった。
 その凛たる背中を見送って、マーリンはすぐ膝元で鳴り止まない荒い息を吐く者を見下ろした。マーリンの撫でていた髪の毛は黒い血とまだらになって、マーリンの指を真っ赤に汚した。血の先を辿れば、鎧を砕いて脇腹にあいた大きな穴が見える。そして、苦痛の赤い旅路が草むらを点々と這いマーリンの元へ続いていた。
「アーサー王」
 マーリンは呪まじないをつぶやいた。マーリンの細く繊細な指は剣を握るものとも見えず、右の手指はアーサーの無惨な脇腹に伸びて治癒の魔術を沁み出だし、また左の手指は呪いに対してなんの意味もないと知りながら、アーサーの苦悶に顰められる両目をそっと覆っていた。
 木陰と泉のせせらぎがマーリンとアーサーを守る中、指先から溢れる淡い光が雫のように傷に垂れ落ちて、かつえたように飲み込まれていった。
 アーサーの息が整うまでの間、マーリンは長い旅路を終えてなお、休息を許されなかった主人のことを考えていた。

 物語のタペストリーが織られ続けることをマーリンは喜んだが、そうして主人が身体や、あるいは心をだめにしてしまっては元も子もなかった。なので、マーリンは幽閉塔に帰ることもなくウルクの記録をもとにしてサーヴァントのように振る舞い、カルデアに留まった。
 自分のもとに数多従うサーヴァントらの熟達を惜しみなくやり遂げてしまおうとする主人の時間への遠征は、時折彼の実力を越えて困難なもとにあることもあった。今度の遠征はそれだった。主人がマーリンと、異世界より手を差し伸べた騎士王、それに数騎のサーヴァントを伴って探索にあたる途中、彼らの殲滅から逃れた魔物の熱線が少年を蒸発させんと草陰から放たれた。
 とっさに視界に飛び出た影を、マーリンは今この静かな木陰にいてもまざまざと思い出すことができた。
 アーサーが剣を存分に構えることすらできない、どのサーヴァントも反応できなかった中で、閃光の止んで後に漂う肉の爛れた臭いに、肝が冷えるということがあるならばこんな時だろうとマーリンは思った。草叢を焦がした煙がひくと、そこには地面に倒れ伏しぴくりとも動かないアーサーと、彼に強く抱きかかえられて甲冑の下敷きになる主人がアーサーからこぼれる鮮血で赤く染められゆく光景があった。
 主人の膜を張った青い眼は暫時おどろきに揺れ動いたが、すぐに声を上げて彼の盾とマーリンを呼んだ。キリキリと弓を引くように引き絞られるおぞましく大きな目玉は、他のサーヴァントに塵まで屠られた。
 マーリンは自分が何をすればいいかすぐにわかった。砕けた重い甲冑の下で今にも泣き出しそうにアーサーを案じて、けれども揺り動かすこともできずにマーリンを見上げる主人に微笑んでから、アーサーを抱き起こして喚び出した妖精馬にひょいと乗せてしまうと手綱を手繰って泉のある木陰へと歩いて行った。
 ほどよい樹の根元に座り込み、アーサーの身体を横たえて自身の膝を枕代わりにすると、
「オレが油断したばっかりに、こんな」と主人は唇をわななかせて、ほんの小さな癒しの魔術を差し出そうとした。
 けれどもマーリンはそれを指先で優しく拒んで、
「まだ探索の先は長い。それはとっておきなさい。なに、すぐに追いつくよ。私を誰だと思ってる? 天下のグランドキャスター、花の魔術師マーリンさんだよ?」
 すると少年は涙がちに、指は震えながらアーサーの傷に触れようか触れまいか悩みながらではあったが、それでもくすりと精一杯の笑いを漏らした。
「ごめん、マーリン。それと、王さまにもごめんなさいって」
「それはキミの口で言うといいな。できれば、半刻後くらいに」
と、マーリンは軽薄な調子を崩さずに言った。
「うん」と少年は今度ははっきりと頷いた。顔はまだ青かったがそれもすぐに赤みを取り戻すだろうとマーリンは思った。……

 ふいに、マーリンの手のひらに羽のような感触があった。マーリンが左手を引っ込めると、いまだ昏い中にほのかに灯る星のきらめきを宿した瞳がうすらとマーリンを見上げていた。
 その澄んだビリジアンにマーリンは思わずびくりとした。マーリンの知る少女とまったく同じ色をした目がなんの疑いもなく彼を見つめているとなれば、マーリンとて少しでも体を強張らせずにはいられなかった。
 実のところ、マーリンは彼方より来たるこのペンドラゴンに拙い思いと少しの気後れを感じていた。アルトリアのないカルデアに獣を追ってただ一人やってきた青年に、気さくに話しかけてはみても、その実自分の咎が思い出されてならなかったのだった。彼はアルトリアと同じ運命を辿ったのか、そして彼のマーリンはきっと自分と同じように幽閉塔にて歓声を上げただろうかとそんなことが気になって仕方がなかった。
 なのでこのときも、
「起きた?」
 と、ごく簡素なつまらない問いかけをしてしまったとマーリンは少し後悔をした。
 アーサーはわずかの間定まらないように視線を動かしていたが、主人の姿が見えないことがわかると跳ね起きようとした。
「つ……ぅ」
「ちょっと、まだ君は万全じゃない。そのまま向かっても足手まといになるだけだよ」とマーリンは意志に反して動かない体に戸惑いを浮かべているアーサーに言った。「というか、痛くはないの」
 荒い呼気はいつのまにか小さくなって、顔色は紙のように白かったが、傷口からはマーリンの魔力がほとほととわずかに溢れはじめていた。しかし、外郭は修復したところで、まだ内部の壊れかけている体に走る痛みは、普通の人間なら想像するにもおそろしいほどのものだった。アーサーは己の脇腹を癒やす手が誰のものかをようやく見てとったようで、しかし自分のおかれている状況を理解しているのかいないのか、「痛いけれど」とほとんど掠れて音になっていない声で言った。
「聖剣があれば、これくらい」
「無茶言わないでくれ。今、君の魔力は誰が補填していると思ってるんだ。カルデア、私、そしてマスターだ。これ以上無理に魔力を使って負担をかけない方がいい。マスターのことなら心配ないさ。危険地帯はとうに過ぎ去ったのだから」
 マーリンは少し目を細めてアーサーを睨んでみせた。すると、彼はふうと細いため息を漏らして、もとのようにマーリンの膝におさまった。マーリンはわれ知らず笑い出しそうになった。アーサーであろうと、"マーリン"というものには温和しいものだと知ってマーリンの懸念が晴らされたように思われたのだった。
 マーリンは手持ちぶさたになった左の手のひらに泉を湧き上がらせると体をかがめてアーサーの頭を腕に囲い、口元に流し込んだ。アーサーはそれを拒まなかった。泉の清流を飲み下し、何度かくり返すうちにアーサーの疲労に焼けた喉は声を取り戻したようだった。
 木陰が揺れて、マーリンの虹色が金の髪の毛に遊んだ。マーリンはアーサーの頬について乾いた血を指で擦り落としながら、薄くまどろみかけているアーサーをのぞきこんだ。
 しばらくそうしていると、アーサーの瞳がゆっくりと閉じられて、感じ入るようなささやきがきこえた。
「このかいなを憶えている。このにおい、その瞳……。僕は生涯、貴方の腕の中に眠った時のことを忘れたことはなかった」
 それが、マーリンが生まれたばかりの赤ん坊を抱いてエクターのもとへ向かったときのことだと気づいても、まさかという思いが渦巻いてならなかった。
「貴方は道中、僕が泣き出しやしまいかと、慣れない手つきで産毛みたいな髪の毛を何度も撫でていた。僕はウーサー王がくれたという金糸の布よりも、あたたかな毛皮よりも、そのことだけをずっと憶えている……」
「……えっと」
 マーリンはアーサーの貝殻のような目蓋に触れた。アーサーの生真面目な眉は和らいでいて、マーリンの記憶の底を叩いた。竜と人の血を掛け合わせ人形遊びじみた夢魔の手の中にて、すべてを信じきって眠っていた赤子を思い出していた。
「これは、これは。……なんだかちょっと照れくさいね。それが私でないにしても」
「そうだな。僕の憶えているそれはもう少しやわらかかった気がする」
 アーサーの口の端に微笑みが滲んでいた。
「でも、エクターの家を訪れたあの兵士、詩人、旅の鍛冶屋……みな愛おしげに僕の頬を撫でていった」とアーサーはマーリンの手をつつしみ深く退けて、細い指を汚している赤い血を丁寧にぬぐい去って言った。「"マーリン"。君が去った時、僕はどんなにか悲しかったろう」
 マーリンは息が詰まって、それ以上冗談を言うことができなかった。
 もうアーサーの傷はすでに塞がって頬は紅くかがやいていた。けれども、アーサーの意識の輪郭は、風の鳴らす木の葉の影と、荒廃する前の豊かなブリテンの土地を思い起こさせる泉の木霊と、そしてなにより夢に棲むマーリンとによって、微睡みとともに過去に溶け出ているようだった。
「もう、お休みよ」とマーリンは絞り出すような小さな声で言った。それは信じられないほどなだらかで優しい声音だった。「まだ時間はある。私が、起こすから」
「マーリン」
 それまでおやすみ。と言うと、アーサーはふつり糸が切れたように深い息をついて眠りに落ちた。それはマーリンのこっそりした魔術のせいでもあったが、やはり回復には半刻でも必要であることをアーサーの霊基が訴えていたからに他ならなかった。
 マーリンの指に手をかけたまま眠りについたアーサーを払いのけようとは、マーリンは露にも思わなかった。けして他に見せることはなかったであろうあどけない寝顔は、彼の義兄ケイと口げんかをしたり、エクターの寝物語をせがんでいたときの、まだ幼いアーサーを想像させた。マーリンは久しく、重い王冠に苛まれるアーサーの顔をひととき忘れた。
「してやられてしまったなあ」
 とマーリンは大きなため息をついた。しかしその頬にはこれが最適と思しき笑いがほんのり浮かんでいた。
 妖精馬が傍らで草を食んでいる。それを見て、マーリンはつと背を丸めるとアーサーの額に自身の額をそっと当てた。口から落ちるのは呪いではなく、アーサーの信じた祈りの言葉だった。マーリンは彼に穏やかな在りしブリテンの夢を見せようなどとは少しも考えなかった。彼の夢は無であった。それはかつてマーリンが幽閉塔で見たよりも普遍的な、ごく人らしい眠りの姿だった。
 マーリンの見せかけの心ともいえる思考に、今は嘘偽りは少しもなかった。あてどない夢の人は、そうして、主人が草をかき分ける心地よい音が響くまで、アーサーに誰に捧げるともつかぬ祈りと加護をもたらし続けていた。