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彼のはしがき

 サーヴァントは夢を見ることはない。そうわかっていてもガウェインは自身のからだをシーツに横たえて目を瞑るのが好きだった。仕えるマスターの寝静まるのと同じように、しんとしたカルデアで闇に包まれながらその日一日のすべてを塗りつぶされるのは、瞑想に似てガウェインのこころを穏やかにした。
 夢を見ないとはいえ、数多のサーヴァントを使役する主人の記憶に迷い込むことはなく、またその逆もなかった。一対一の関係であればまだしも、これだけ多くの群勢とあらば互いに迷う余地もない。それが主人の眠りを健やかにしているのだと知れば、ガウェインはカルデアに喚ばれたことを嬉しく思った。
 その夜も、ガウェインは寝台に寝転びながら、たくさんの戦利品を両手いっぱいに抱えた主人と他のサーヴァントとで、収穫のよろこびに足取り弾ませる少年が笑い声に包まれていた光景を思い出していた。今日とて、マスターが日課のようにレイシフトによって彼のサーヴァント達の力を引き出そうという努力の日には、変わりなかった。けれども、その日はガウェインにとって光り輝く日々の一幕というにはあまりに厳かで、時の止まったしじまのようだった。目を瞑れば脳裏には低く心地よい声音が浮かんだし、目を開けば暗闇にあの金の髪がきらきらと散るようだった。
 ガウェインは、今夜はあまりうまく寝付けそうにないと思った。仕方なく、重い目蓋を気の進まないままに閉じれば、その時の光景が一日の終わりにふさわしく、明瞭に浮かび上がってきた。
 斃したものの血を吸い込んだ石畳が生命と鉄のにおいを立ちのぼらせる中で、
「見て、ガウェイン。これでガウェインもまた強くなれる」
 と少年は手の器用に使えないままに腕に抱えた成果を揺らしてみせた。陰気な街ではあったが、それが少年の顔を曇らせることはなかった。
 少年の抱えているものをマシュ・キリエライトが麻袋に移し替え始めたのでガウェインも手助けしながら言った。
「ええ。こんなにも心を砕いていただけて、私は恵まれています」とガウェインは精霊の根を麻袋に突っ込んだ。「目に見えて迫る脅威がなくとも常日頃の準備を怠らぬ姿は、我々騎士の疎かにしない一点でもあります」
 そうしているうちに少年の両腕は自由を取り戻し、かわりにずっしりと重い袋がいくつも出来上がった。少年はラベルの貼られたそれらを検分しながら、何かに気がついたようにぱっと顔を上げてガウェインの後方に向けて声を投げた。
「アーサー王」
 と少年の声が響いた。ガウェインが思わず振り向くと、そこにはわずかな陽光を拾ってやわく仄めく銀の鎧があった。
 重い袋を引きずる気になれなかったのだろう少年はアーサーを呼びつけると一つの袋の口を開いて中身を見せた。それは誇らしげにたからものを自慢する子どものようでもあった。
「いいね。君の努力には頭が下がるな」
 と、アーサーはまったく大人が子どもを見る時のような目つきで少年に微笑みかけていた。ガウェインは慌てて立ち上がり、アーサーと少年の後ろに引いた。それは染みついた動作そのものであった。
 アーサーに戯れるように頬を紅潮させて成果を口にしている少年は、ガウェインのそんな行動に少しの気も払わなかったので、頭を垂れたガウェインを、アーサーがちらと見やったことに気づくことはなかった。
 ――カルデアに戻ると、廊下の壁にある無機質な数字を指す時計はすでに夜を示していた。少年に付き従っていた者たちはめいめい散って好きなように余暇に身を委ねていた。ある者は食堂にとっておきの楽しみがあるというように足を向けたし、ある者はチェスの約束を果たしに行った。
 けれどもガウェインは、少しからだを動かして頭の中を振り払いたい気持ちであったので、しばらく自室で歩き回り迷った末に、仮想訓練所へと足を向けた。
 この時間になると訓練所といったものに足を運ぶのになじみ深い者達は少なくなる。それに、生前から一対一の模擬戦に親しんだ者は、このカルデアにはそう数が多くはなかった。だから、ガウェインが訓練所に向かったとき、たった一つ見えた影が何者であるかは、すぐに理解してしまったのだった。
「ガウェイン卿」
 それはガウェインにとってあまり良い頃合いとはいえなかった。こちらを振り返り、汗を浮かべたアーサーが模擬刀を下ろしてガウェインをみとめると、その表情がとたんにほの柔らかいものになって、ガウェインは居心地が悪くなってしまった。自分がまごついている間に、アーサーが汗を流すほど一心に剣を振るっていたのが想像されて肩身が狭くなったのだった。
「アーサー様、お邪魔をいたしまして……」とガウェインは慇懃に頭を下げて言った。
 するとアーサーは壁に立てかけてある模擬刀を一つ手に取るとガウェインに渡して、「私のことは気にせずに」と穏和に言った。「今はカルデアの同朋として」
 ガウェインにそれを断れようはずもなかった。アーサーの隣に立ち、ちらりと彼を盗み見れば、彼の象徴であろうかのような銀の鎧も重い礼服も脱ぎ去った、ごく簡単な軽装であることがわかった。その姿はガウェインに、キャメロットの中庭で音楽を奏でていたトリスタン卿の着ていた柔らかな布地が風に吹かれていたのを思い出させたが、アーサーの姿は彼の信仰のために質素なものだった。それで、ガウェインも彼の騎士装束を解いてごく簡素な風体になった。
「……では失礼します」
 とガウェインは重い口を開き、一礼をしてアーサーの隣に立った。
 仮想敵をなぎ払いながら、彼は無心の気持ちになりたがった。けれども、見知ったものとは違う切り上げられる剣先やまさしく叩き付けるような刀身が視界の端に掠めては、ガウェインの正直な剣はことごとく仮想敵の胴を両断するには至らなかった。
 彼らの腕を止めたのは、鐘を真似た時報が引っ込み思案に鳴り響く音だった。はっとしたガウェインが振り向くと、すでに時計は日付を回ろうと針を進めていた。同じく手を止めて時計を見上げていたアーサーは一息つくと、血の色を昇らせた白い顔を向けてガウェインを見た。
 ガウェインが気づかれないように顔を背けるよりも前にアーサーは、
「何か、案じている?」
 と言った。それはひどく明瞭な問いだったので、ガウェインは狼狽えた。
「い、いいえ。少なくとも、あなたの御手を煩わせるようなことは」
 するとアーサーはさっと模擬刀をかまえてみせて、「この剣にかけて」と再び問うた。「冗談だけれども」
「あまりお上手でない」
「だろうな」
 まったく生真面目な表情のままそんなことをいうので、ガウェインは手の甲で汗を拭いながらほんの少し頬を綻ばせた。あっさりと模擬刀を下ろしたアーサーの輪郭をしとどに伝う汗は生きている人間のように質量を持ち、雨の降るさまに似て、彼のシャツに吸いこまれていった。ガウェインは、きっと自分もそんな有り様なのだろうと思い、ふと、どうしてアーサーがそんなにも剣を振るっていたのか疑問がわいた。日課というわけではあるまいと、ガウェインは思った。この時間に訓練所を訪れて貸し切りだったことなど、何度だってあった。
「私と、卿の王はそんなに変わるだろうか」とアーサーは真っ直ぐにガウェインを見ることをやめて言った。「カルデアにはそなたの王はいない。それゆえか卿は私が不得意とみえる。けれども、そんなに差異があるものなのかと思ってね」
「……アーサー様」
 とガウェインはけして自分がアーサーのことを嫌ったり厭ったりなどしていないのだということを切々と訴えるような声音で言った。
「私が仕えた王とあなたはよく似ています。けれども歩まれた道が全くの同一であると私めが合点して、お話をすることを許されてはならないと思うのです」
「そうかな」
 とアーサーは軽い調子で首を傾いだ。その仕草でさえ、ガウェインの内心をひどくかき混ぜてならなかった。彼の脳裏にはその玲瓏とした表情を崩すことのなかった、ましてや騎士の前で鎧を脱ぎ去った軽装でいることすらなかった、小柄な姿が浮かんでいた。
「そうです」と、ガウェインは口調が強くなるのを抑えきれなかった。
 すると不意にアーサーは、灰色の町で少年を見守っていたような落ちついた様子で肩を落とし、「貴公は変わらないな」と言った。
「え?」
 とガウェインは思わずそう聞き返した。もう激しい訓練後の荒い息もおさまり、からだは汗のために冷えてきているはずなのに、心臓の壁がふたたび叩かれるのを感じた。
 アーサーが備品のタオルを投げてよこした。それをかろうじて受け止めたっきり、ガウェインはアーサーのむき出しの首元に糸を引く汗を見ていた。
「風邪をひいてしまうよ」とアーサーは広げたタオルに頬を埋めながら言った。
 湿った髪の毛が乱暴に拭われたせいで方方に幼く跳ねていた。霊体化をして初期化をしないのは、それが彼の余暇に含まれている動作の一つだからであろうとガウェインは思った。彼はアーサーが自分と同じように世界とのつながりを少しでも欲していることがわかって、なんとなくほっとするような気がした。
 ほんの少しの沈黙が訪れた。そして、アーサーが背を向けて自室へと去ってしまおうとすると、ガウェインの心はいいようのない寂寥に青ざめた。その後ろ姿は彼が何度か生前見たことのある小さく細いものと同じように思えたのだった。かつてガウェインはそれが何をあらわしているのか知ることはついぞなかったが、カルデアにて隻腕の騎士と言葉を交わす間に彼の憤りを通して、自身のあやまちに気づきつつあった。
「アーサー様!」
 とガウェインはその背を引き留めた。
「あなたのガウェインは、役割を果たしたのでしょうか」とガウェインは声を上げないではいられなかったが、すぐに恥じるように耳を赤くして言いにくそうに声を落とした。「……あなたのガウェインは、私と似ているのでしょうか」
 もしガウェインが今目の前にしているのが忘れ得ぬ彼の仕えた騎士王であったならば、ガウェインはこのようなことを口にすることを考えもしなかったろう。
 ただ、彼の騎士たちを折り重なる世界のどこかに置き去りにして一人カルデアに行き着いたアーサーの心をおもんばかるのには、ガウェインのふさふさした金色の頭は怯え項垂れすぎていた。
 振り返ってやってきたアーサーが息を吸うかすかな音が聞こえて、次にガウェインが面を上げた時には、アーサーの思いは丁寧に折り畳まれて瞳の奥に沈み、水晶のように澄みわたった眼差しを浮かべていた。
「サー・ガウェイン」
 手の甲をゆっくりとさしあぐアーサーの、薄い少年のような唇が形作る音音が、ガウェインの回想の目の前に姿を現そうとした。
 けれども、その声はたった今ガウェインのもとへ届くのをやめてしまって、彼はただ薄氷の唇だけがなめらかに言葉の形を紡ぐのを見ていた。
 ガウェインは知らず迫り来る思いに苦しくなった。そうして、ばつりと、乙女の髪の落ちるような痛ましい音を立てて、ガウェインの意識は眠りの手のひらに遮られてしまった。

■■■

 ガウェインの耳に、膨大な金属のこすれる慣れた音が響いてきた。それはガウェインの周りからだけでなく、彼自身、そして彼のまたがる愛馬からも聞こえてくるかん高い音だった。
 明日に控えた大陸出征の船出のためにキャメロットを去るは、絢爛なアーサー王の軍だった。竜の意匠をたたえた旗が大通りをひらめき、見物の民衆がひしめき合う中をとびきりの馬と一等の騎士の装いが列をなして下っていた。その中にはこの世の色とも思えぬ魔術師の姿も、王のもとに付き従ってあった。
 ブリテン中すべての騎士たちが、この行列に参集しているようですらあった。ガウェインが自分の顔のようによく見知った顔もあれば、初めて見る顔も多くあった。しかし、いずれも――今だけは――アーサーに忠誠を誓っているのだろうと思われた。
 ガウェインが愛馬の上からさっと民衆を見渡すと、紅潮した子どもの背伸びと、肩を強ばらせた母親、怒号のような歓声を上げて興奮した男たちが見えた。それから、前方に顔を戻し、少し先を進んでいる王の後ろ姿を見た。彼の頭は微動だにせず、かたくなに遠くを見据えているようだった。
 行列が港へつづく大通りへの角を抜けようとすると、突然隊列のような民衆を崩して一人の女がちょうどアーサーの真横に飛び出した。
 女は貧しい身なりをして、一目で城門の外からやってきたのだとわかった。まだ若い相貌は、干した鮭とチーズのかけらでさえ少しは彼女の頬を赤くさせることができるだろうと思われるほど、やせて土の色をしていた。
「王」
 と、焦ったガウェインは密かに叫んだ。アーサーは黙ったままだった。
 女を制する騎士の槍を諫めて、アーサーは行進を止めると馬上から女を見下ろした。ガウェインはすぐさま横に馬をつけて二人の会話に耳をそばだてていた。
「王さま、栄光のログレスの国に、あなたの国に、生まれた新しい命でございます。どうか祝福を。祝福を……」
 みすぼらしい女の袖口からまるで捧げられるように赤ん坊がアーサーへと差し出された。女はアーサーを直視することもできぬまま、ただ神に対するような祝福だけを求めてその震える足を立たせていた。
 ガウェインは隣でアーサーの空気が和らいだのを感じた。ガウェインが止める間もなくアーサーはひらりと、まるで貴婦人の前に膝をつく時の騎士のように馬から下りると女のもとへ歩み寄った。
 女は自身の手から赤ん坊の重みがなくなったことにはっとして顔を上げた。そしてアーサー王が、白く清いレースでもない、襤褸のような布に包まれた赤ん坊を腕にとったと知るや、やつれた目は驚きと畏れとに見開かれ唇は喜びに戦慄いた。
「王さま、王さま……女の子でございます」
「名はなんという?」
 とアーサーは腕に抱いた子をのぞき込みながら言った。
 ガウェインはアーサーの馬の手綱を彼の従者に預けて、騎士たちが必要以上にアーサーに近づくのを許さなかった。きっとそうすれば、アーサーはあまりいい顔をしないだろうと思ったからであった。
 女はアーサーの顔が逸れたので、ようやくおそるおそる面を上げて言った。
「アルトリアと……王さまのお名前を頂きました」
「それはいい」
 とアーサーは言ったが、ガウェインからはアーサーの夕焼けに光る金の髪しか見えなかったので彼がどんな表情をしているのかわからなかったし、その低い声からはアーサーが何を考えているのかガウェインには推し量ることはできなかった。
「この子に祝福を。ブリテンの黄金の輝きがいつまでもこの子の上にありますよう」
 アーサーの手が慈しみ深く赤子の胸の上に置かれると、女はいよいよどっと地面に倒れ込みそうになったが、赤ん坊を王に預けているとあってなんとか踏みとどまった。その様子にガウェインは母親のしたたかさを感じずにはいられなかった。
 傾く陽に、その場にあるあらゆるものの遍く境界が互いに溶け合って曖昧模糊となる時間がやってきていた。ガウェインは、いつかアーサーが、ログレスの国は黄金の光に包まれていると言ったことを思い出していた。そして、それは紛れもない真実なのだと思った。夕陽に照らされてすみれ色に光るこの軍勢の中に、今となってはアーサーに真の忠誠を誓っている者がどれほどいるかはわからない。けれども、たった今この瞬間だけは、アーサー王が選定の剣を抜きし日よりその頭上に高らかに響く祝福の光を、誰もが目にしていると確信したのだった。

 その夜は、兵は皆、波のさざめきを聞きながら港に眠った。アーサーとガウェイン、そしてベディヴィエールは領主の使う港町の宿にて、それぞれの諸侯と軍議を終えて、めいめい与えられた寝室に戻ろうとしていた。
 宿はすべての兵を収容することはできないまでも、おおかた円卓の騎士とその従者たちが一夜を過ごすには十分な大きさがあった。与えられた部屋は広く、明日のために彼らが寝室に引っ込むと、廊下はすっかりしんとして誰もいないような静けさに包まれた。
 ガウェインはアーサーに並びながら、点点と橙色の蝋燭がともされた廊下を歩いていた。そのうちに、先の戦いで割られた頭の傷がひどく熱くなるのを感じた。痛みは神の気まぐれのようにいつも突然やってきた。
「ガウェイン卿?」
 ガウェインの足取りが鈍ったことに気づいたアーサーは振り返ってガウェインを回廊の隅にある窓の近くへと導いた。窓は冷たく、ガウェインの気は少しだけ紛れた。それに、彼の慕うアーサーが隣にいるということが、共に歩んだ青き日の色彩となってガウェインを慰めたのだった。
「申し訳ありません」
「まだ痛むのか」
「いいえ、いいえ。これは発作なのです。ただの、放埒な気まぐれなのです……」
 と、ガウェインは掠れる声で言った。鎧を脱いだ軽装であるはずなのに、からだはそれを忘れてはいけないと戒めるように重かった。
 隣を見れば、アーサーは立ち去ることもなく、大きな窓にもたれるガウェインの横で外の景色をじっと見ていた。日も沈んだ港町では酒場の灯りが方々から漏れ出ていて、遠くに見える三段櫂船のおもむきを残すガレー船の巨大な影と相まって一つの都市のようであった。彼らの騎士たちは今が頃とばかりに酒場や娼館で興じている者も少なくはないはずだった。
 それらの喧噪が二人のもとまで届くことはなく、アーサーの瞳はあいかわらず凪いで闇夜に薄く光る星々を写していた。
 それを見たガウェインは思わず「王」と言葉が口をついて出るのを止められなかった。
「何だ」
 とアーサーがガウェインを見た。
 ガウェインはなんとか彼の眼に自分が映ってくださいと祈るような気持ちで、まっすぐな面差しをアーサーに向けた。頭の痛みはやってきたときと同じように突然にしてかき消え、そのことによってもたらされた時間をガウェインは惜しいと思ったのだった。
「あの母子を憶えていますか。私はあのとき、王が馬を下りたとき、あなたが以前に仰った黄金の輝きが見えたのです」とガウェインは明日の船出に怯えたためにこのようなことを言いだしたのではないことが伝わるようにと切々と語った。「あのとき、騎士の誰もがそれを感じていました。ベディヴィエールや私だけでない、ブリテンに住まう生けるものの全てが、確かにそれを感じていました。マーリンでさえ」
 ガウェインの視界の端で僅かに灯っていた蝋燭の灯が一つ姿を消した。揺らめく煙は二人の間にゆるやかな川の流れのように漂った。
 その言葉を聞いたアーサーはからだの向きを変えて大窓に背をもたれると、じっと宙を見て考えごとをしている様子で沈黙した。しばらく彼は口を開こうか開くまいか悩んでいたが、はたとここにはガウェインしかいないことにようやく気がついたようで、開いた口から零れるのは普段ガウェインが耳にしているような朗々と響く声でなく、夜の回廊にふさわしいそっとした声音だった。
「私には子が」
 ない、と言おうとしてほんの少しアーサーは逡巡したようだった。それをガウェインは子を成さなかったアーサーのむき出しの苦悩のように思ったが、同時にあの荒々しい深紅の兜がガウェインの脳裏を過っていた。
 アーサーは言い澱み、悪い考えを払うようにうつむいた。ガウェインは黙って聞いていた。
「だから、ブリテンに住まう子らが我が子のように愛おしい。この厳しい土地で、神の御名のもとに殖える子らが愛おしい」
 ささやくようにそう言って、アーサーは昼間出会った貧しい母親から手渡された赤ん坊がまるでその場にいるかのように腕を上げ、子どもを抱く仕草をした。ただ一つ違うのは鎧をつけていないことだけだった。聖剣に癒やされ続けた指は剣を握る者にしては白くなめらかで、そこには本当に赤ん坊がいるようにさえ、ガウェインは思った。けれども一方で、その姿がガウェインのまぶたの裏にバトニクスの決戦を浮かび上がらせた。目の前のアーサーが踏み荒らされた集落の隅で死んだ赤ん坊を抱き上げていた姿と重なり、ガウェインは途端に息苦しくなって頭を振った。ほんとうであれば、ガウェインら騎士は彼らの王がそうやって黄金の祝福を帯びた赤子を抱えた王妃にミンネの口づけを施す、かがやかしい様を目にしなければならないはずだった。けれども、王の手に残されたのは無辜の血で汚れる鉄の鎧と、踏み潰された赤子の死体であった。
 ガウェインはまったく言葉を失ってしまって、何も言うことができないままアーサーが目に見えぬ子どもをあやしている仕草を見ていた。ガウェインにはそれがとてつもなく長い時間に思えたが、実際には、二人の間に漂っていた煙の香ばしいにおいが消えただけのほんの少しの時間だった。
 居もしない赤子に向けられたアーサーの瞳が、また黒々とした夜空のさまを現しはじめた。するとガウェインはがっしりした精悍なからだつきを震わせて、「叔父様、おゆるしください」と戦場にでもいるかのような声を上げて、わずかに目を見開いたアーサーの肩をしっかりと両腕で包み込んだ。幸いにして領主の取り仕切る上等な宿の扉は分厚く、誰かが訝しげに廊下を覗くこともなかった。アグラヴェインがここにいたならばきっと彼は剣でも抜いたかもしれないと、ガウェインは思いながら、しかし忠誠だけでない昔から変わらぬ敬愛をアーサーに示したいと、そのきもちでいっぱいだった。
「……おまえ、大きくなったなあ。親愛なる甥っ子よ」
 叔父と呼ばれたとあっては、とアーサーは悪ふざけをする子どものように笑ったが、その瞳の奥には疲労が色濃く悪夢のように忍び寄っていた。
「そんなに変わらないでしょう」と言ってガウェインは息がつまるのをこらえられなかった。「叔父様、貴なる叔父様。あなたはあの日より変わらず、麗しく……」
 彼らの戯れの合言葉は昔と変わらずにあったが、もう無邪気にざれ合うことはできまいと、ガウェインは悲しみが湧き出るのを感じないではいられなかった。
 アーサーが甥を迎え入れようと両手を広げた。そうして、ガウェインは強くつよく抱擁をした。少年と青年の間を描く頬のまろさがガウェインの髪の先をくすぐった。
 アーサーのからだは戴冠式の時のまま、ガウェインが初めて彼を目の当たりにしたときから少しも変わっていなかった。ガウェインのようにたくましく骨節が肥大し成長することもなく、皮膚はいくら泥と埃にまみれても瑞々しいままだった。けれどもそんな青年の相貌に据えられた二つの丸い森色の眼は、どの騎士よりも深い淵の色をしていた。ブリテンの何もかもを見たような瞳に、ガウェインは時折マーリンの紫水晶の不思議なかがやきを思い出すのだった。
 ガウェインの朽葉色の髪とは違う豊穣の小麦のような髪が、今は星々に照らされてほのかに褪せて見えたが、二人は夏の川辺にある少年たちのようにしっかりと互いを抱きしめ合った。
「私にこの上なく忠実なそなたが、私の愛する甥でよかった」
「王さま……アーサー様」
 とガウェインはたまらず言った。
「私はこれからも、あなたのもとに太陽としてありましょう。あなた様の影となりそのかがやきを永劫に支え続けましょう。あなたのかがやきはログレスのかがやきです。それは、神の国にも似て、永久にあるものです……」
 ガウェインは、背に回されたアーサーの腕にかすかな力がこもったように思った。それは気のせいで、そう望んだガウェインの錯覚かもしれなかったが、今はそれが敬愛する青年の返事と願おうとガウェインは切に感じて深く目を閉じた。
 隔つ冷たい鎧はなく、星は唯一彼らの髪の一本一本をきらめかせ、しじまの回廊は人の心臓のあたたかく波打つさまをそっと振り子のように響かせていた。
 ……

■■■

 暗闇のなかにじっと濡れたように佇む黒い影があった。寝台の上に、深く苦悩する人のように座り込んで、ガウェインは顔を両手で覆って俯いた。夢ではない、とガウェインは思った。しかし、今しがたガウェインに流る懐古は紛れもなく、ガウェインその人のものであった。ガウェインが手を取ることのできなかった彼の騎士のものであった。
(よく似ているよ。親愛なる私の甥。最高の騎士。)
 とてもしずかな、こころを慰撫するような声がガウェインの心臓を何度も巡っていた。
 ガウェインは顔を上げ、あつく火照るような青い瞳をまたたかせた。そして、太陽が昇ったら、きっと一番にあの人の手の甲に唇を捧げようと思ったのだった。