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空腹

 夜と昼が分かつともわからない雪の中の要塞は、それでもたったひとつだけ、ただしいと思われる時刻を、人びとの活動していた証のように刻々と律儀に刻む時計によって、アポロンの手繰る馬車が見えずとも、きっと夜が来たのだと知ることができた。
 一人生き残ってしまった愛しきマスターが瞼を閉じるころ、忠実な僕たちもまた、眠り、あるいは姿を消し、寝静まるのがその法であった。けれども、法治が往々にして、小さな抜け穴を人びとに差しだしてしまうのは、人智の史の中で、葉が風にそよぐほどの自然なことだった。
「秘やかなる足音もまた」
 と少年は上機嫌に言った。「忠実ではありましょう」
 天草四郎はつま先を器用に引き寄せては、一本道を歩く猫のようにさし上げて、薄暗く無機質な廊下を、迷わず、目指すもの特有の確固たる足どりで歩いていた。それは、このところの彼の日課であり、またその足音にも似た密かな楽しみでもあった。
 しばらく、そうして歩いていると、はたして、彼を煌煌とした灯りの漏れる食堂の入り口が出迎えた。
 四郎は入り口からそっと顔を覗かせて、中にだれもいないのをみとめると、水音の聞こえるキッチンカウンターへと、我知らず跳ねるような足つきをおさえてたどりついた。
「エミヤ」
 と四郎はカウンターの中に向けておそるおそるといったように言った。
 今し方まで、キッチンカウンターの中でまさに水音を鳴らしていた男は、振り向いて四郎をみとめると、頬を崩して「こんばんは」と言った。弓兵の、繊細な弦を張る仕草、矢を引く剛の手が、今は食材を切り刻み、ゆでては、手入れ油のにおいとも違う芳香をたちのぼらせて、四郎の目を釘付けにしていた。
「こんばんは、エミヤ」と四郎は呟くように言った。「それで、今日は、その……」
「ああ、できている。今日も、料理が余って困っていたところなんだ」
「それは、それは……」
 言いながら、エミヤはカウンターの上に、次々と、料理ののった皿を差しだした。四郎は思わず身を乗り出した。
 パルメザンチーズののった簡単なサラダに、ふかしたじゃがいも、深い器に盛られた白米の山に、塩のきいたスープ、一口ほどの小さなパンと、キノコといっしょに蒸した魚、それから手作りのソースのかかった薄切りの肉が、ていねいに一つ一つの皿にのせられて四郎の眼前に並んでいった。
 四郎は椅子に腰掛けると、おだやかな表情の中にあるふたつの眼を、こっそりときらきらさせて、彼にとっては山のように積もってすら見える料理を、主の許可が出るのを楽しみに待っている子犬のように、今か今かと眺めていた。
 それを見ていたエミヤは、後ろ手に隠したとっておきを取りだすとでもいったように、ほんの少し悪戯の込められた声音で言った。
「実は、今日はまだあるんだ」
「まだ?」
「はは、君には縁深いものかもしれないな」
 そうして、エミヤはキルトの鍋敷きを四郎の前に広げ、オーブンミトンで掴んだグラタン皿を、まだ湯気の冷めやらぬまま、ぐつぐつと煮立つ芳しさにまかせて彼の晩餐の真ん中に据えた。
「グラタンですか」
 とホワイトソースの沸騰するさまを見て、四郎はさっとフォークを手に取りながら言った。
 エミヤはほほ笑んで、
「ヤンソンさんの誘惑、だ」
 と言った。
「あ、……あはは!」
 四郎が高い声をあげて、してやられたというように笑うと、エミヤは仕上げも終わったとミトンを取り外して小さなグラスにワインをあけて、それを四郎に手渡した。
「幸運にも北欧のアンチョビ缶だ。きっと、かの天草四郎といえども、この誘惑に抗えたものかは、知れたものでもないな」
「ええ、いや、他ならぬ貴方の料理です。それはもう、ヤンソン氏がすべてなげうって平らげてしまったっておかしくはありません」と四郎はグラスを手すさびに振りながらさもおかしいといったように言った。「もちろん私だって」
「嬉しいものだな。君はまったく、獣のように、優雅に、全部を腹の中におさめてしまうのだから。料理をつくるものからしたらこれほど嬉しいことはないだろうね。では、冷めないうちに召し上がれ」
「いただきます」
 四郎は祈りを呟くと、ワインを含み、それから、口を大きく開けて深夜の食事にとりかかった。それはほとんど密会のような、逢瀬のような気分だった。
 四郎が食事をしている最中は、エミヤはそっと席を立って、隣のラウンジにて、コーヒーを飲むために姿を消していた。エミヤにとって、料理への賛辞といったものは、天草四郎に限っては、その餓えた食道を通って臓腑に落ちた食材の名残である、空の皿が積み上がっていれば、それでよかった。それに、四郎が、彼自身の貪るとでもいうほどの食事の時間をだれにも邪魔されることを許してはいないことを、エミヤはよく知っていた。

 初めて、四郎が夜更けに食堂にやってきたとき、エミヤは、あれほどまでに幽鬼じみた男の顔を見たことがなかった。彼は、食堂にエミヤが一人しかいないことを確かめるどころか、そこにいるのがだれかもわからないように、胡乱な気配をまとわせたまま、ただ小さく「腹が減った」と言ったのだった。
「腹が、鳴るのです。あらゆるところから、腹の鳴る音がするのです」
 そのていねいな言葉に、エミヤは彼が自分に話しかけているのかと思ったが、そうではなかった。四郎は宙に向かって、ぽつぽつと、泡をはき出しでもするように、澱んだ瞳を彷徨わせていた。
 エミヤは四郎の彼ならぬ様子をじっと見ていた。すると、四郎は、毒餌につられる生きもののように、まっすぐキッチンの中の厨房に向かうやいなや、貯蔵庫を開けて、むしゃり、むしゃりと白いバターをそのままに掴んで、口に運び始めていた。
 瞠目し、焦燥とともに駆け寄ったのは言うまでもなく、エミヤがその小さなかたい手を引き剥がして声を荒らげるまで、四郎はいつまでも、ずっと、その白いかたまりを咀嚼し続けていたが、エミヤの声に、四郎の目に光が灯ると、彼は自身の汚れた手とあさましい味覚と、吐き気とにおののいたようだった。
 四郎は自身の手を見つめて、エミヤに掴まれていない方の袖口で唇を拭った。そのときにはもう、四郎の目には正気が戻り、いつもの、おそろしいほどに平坦な、澱みのこごりを沈めた瞳が、静かにエミヤを見上げてほほ笑んでいた。
 しかし、エミヤはその手を放すことはなかった。そして、
「バターはそうやって食べるものじゃあない」
 とだけ言った。
「知っています」
「じゃあ、正しい食べ方は知っているか」
「知りません」
 エミヤはため息をついた。
「全霊をもってお教えしよう」
 それから、四郎は彼に纏う夢を見なくなった。

 半分の皿を空にした四郎は、小さく息をもらして、われを忘れていたのを恥じるように、キッチンの中に水を求めて立ち上がった。
 そのとき、四郎の視界の端に、くろぐろした影が入り込むのが見えて、四郎はとっさに皿を隠すようにして立ち竦んだ。その影が、たった今の彼にとって、もっとも忌避すべき存在だと、四郎は総毛立つからだによって知った。
「深更に……騒がしいな? 天草四郎」
 四郎はその深色のケープと外套を翻す姿をいやというほど知っていた。
「生憎と、貴方を起こした覚えはありませんよ、巌窟王。その在り方に不誠実に、夜をしっかり偲んでいる、忠実な僕たる貴方を」
「それこそうぬぼれというやつだ」と巌窟王は吐き捨てるように言った。「起こされたのはオレでなく、あの童女であり、オレを起こしたのもまた、あの童女というわけだ」
 巌窟王が顎で指ししめしたのはエミヤのいる隣室の方角だった。
「……ナーサリー・ライム?」
「そうだ。オレでは手に負えん。ましてオレの手はナーサリー・ライムとてあのような童女を導くためのものではないのだ。だからあの弓兵に預けた」
 なるほど、耳をそばだてれば、はしゃぐ高い子どもの声が聞こえた。
 四郎はしばし、彼の晩餐を忘れた。そのために、隠しおおせることは叶わず、まだ半分も残っている皿のなかみが悪戯な目にさらされるのをさえぎることはできなかった。
「ああ、貴様、食事中だったか。失敬したな」
 と口の端を歪ませて巌窟王が言った。
 四郎は大きく肩を上げて、下ろし、「なにか悪いですか」と冷ややかな眼差しで男を見上げた。
「悪いどころか!」と巌窟王は大仰に両手を広げ、プロパガンダでも始めるように、ずいと四郎に詰め寄った。
「なあ、おまえのことをアヴァリスと評したオレは、どうやら訂正せねばならんようだな、グルマンディーズ!」
「あげませんよ」
「結構! それはすべておまえのものだ。おまえの内の怨嗟と後悔とを埋めるための」
「……怨嗟だって?」
 四郎が目を見はったのを、巌窟王は見咎めて、その金の眼はいっそう弧を描いた。
「おまえの首をだれもがほしがった、あの日、あの時、ほんの少しでもヘロディアの娘が躊躇えば、おまえは自身の肉を食い尽くして死んでいただろうよ、天草四郎」
 四郎は巌窟王から目をそむけて、すでに冷めて凍えている皿の上の料理をちらり見て、
「なるほど。巌窟王、貴方が狙うのはそれか」
 巨大な影のようにして四郎を覆っている男を、鼻の先も触れんばかりに睨めつけた。
 死のにおいが充満する城にマナが降ることはなかった。祈りは届かず、天からパンを降らせることのできるものもいなかった。幾人もが、空の内蔵が詰まった腹だけを突き出して、やせ衰え、召されていった。
 ――のろいではない。
 と四郎はこころの内でくり返し言い聞かせた。のろいではなく、悔恨でもない。ならば欲でいい。決して肯きはしないけれども、彼の言う、大罪の枠に押し込めてしまえれば、それはそれでよかった。四郎は自身が潔白などと思ってはいなかった。アヴァリスと呼べ、と知れず咆哮した。
「よろしい、では、私はこれを喰らったのち、それをすべて吐き出しましょう。何もかも、噛み千切り、咀嚼し、飲み込んだあとで、吐き出しましょう」
「なんだと」
「どうです、満足でしょう」
 四郎は愛刀の切っ先に言の葉をのせたように、鋭く、冷徹に勝ち誇り、巌窟王の返答を待った。
「……興醒めだ」
「でしょうね」
「やはりおまえには強欲の名が相応しかった。……弓兵の料理はそんなに美味いか」
「はい、この上ないほどに」
 はあ、とため息が聞こえて、外套がひらめいたかと思えば、カウンターにからだを預けるようにしてどっかりと椅子に腰掛けた巌窟王が、片手で頬杖をついて四郎を見上げた。
「吐き出すんなら、手伝ってやらんこともない。腹を叩くか、咽頭に指を突っ込んでやるかは、してやろう」
「趣味の悪い……。遠慮します」
 そのとき、入り口の扉が開いてエミヤが足を踏み入れた。その隣にも、まして背にもナーサリー・ライムの姿はなく、巌窟王の放り出した仕事が、無事に遂行されたのだと知れた。
「おや」とカウンターの上にいまだのせられている冷めた料理を見て、片眉を上げて、エミヤが唸った。「珍しいな。今日の味付けはお気に召さなかったか、それとも量が多かったか……」
「待ってください、エミヤ! 違うんです、少し長話が過ぎただけで、私はまだいけます!」
「長話だと」
「そもそも、出された食事を残すほど、私が礼儀知らずに見えますか」
 と四郎は巌窟王の隣に腰を下ろすと、いっぺんに、スープと、肉とを平らげてしまった。
「いや、いつ見ても驚くほどの健啖家だな」
「そうさせているのはエミヤの料理ですよ」
 眼前の料理が次々と、自分よりもずっと小さいからだに吸い込まれていくのを見て、巌窟王は帽子を深くかぶり直した。
「巌窟王も、どうだ。余り物になるが、酒のつまみにはなるだろう」
 とエミヤがふたたび、兜の緒を締めるように前掛けを付け直しながら言ったが、掲げられた手の平がそれを制した。
「いいや。こんな夜更けにものを食べるほどオレは悪食じゃあない」
「どうとでも言ってください」
 エミヤはいつになく頬をほころばせて小さく笑った。

 夜もすがら、玩具の騎兵の行進する夢を見るカルデアの、眩く灯る光のもとにニュクスの馬車が届くことはなかった。