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祝福は瑠璃の坏にて

※日狛プチオンリーアンソロに寄稿

 コテージのドアを開けると、いつも、ソファに深く腰掛けて本に目を落とす男の、長い睫毛に瞠目する。
 きっちりと、細く幅の揃った四本の指が、組まれた膝に乗せられた本のページを、羽が刷くように気怠げに動いて捲り、ちらり、とか、はらり、とかいいたげに、睫毛のまたたきとわずか滑るような瞳に追従して、ごく薄い紙のこすれる音がした。脆く頼りない首を、途中でぷっつりと切れた左腕に器用に預けていた。へや中の窓とブラインドは閉め切られて、ソファの傍らに置いた背の高いランプだけが、まあるい光を作っていた。
 狛枝、と声をかけるよりも早く、柔和な唇が動こうとして、日向はドアの前で立ち止まったが、血の気のない唇は開くのをやめて、か細いため息をもらしただけだった。それから、本から顔を上げて、ためらうように向けられた目には戸惑いが浮かんでいた。
「甘いにおい」
 と霞む声で狛枝が言った。
 日向はその声に、自分の右手に持っていたものを、――たった今まで忘れていた存在を――思い出して、へやの真ん中までやってくると、それを静かにテーブルに置いた。
「ケーキだ」
 と靴箱の半分ほどの大きさの白い箱が、オブジェのように鎮座した。
 狛枝が、分厚く軟らかい本を閉じて、右手でブラインドをたくし上げ始めた。ずっと前に贈った金属のしおりは、本棚に飾られたまま使われていないようだった。
 ブラインドが緞帳の上がるようにだんだんと折りたたまれていく。すると、青い光がさっと滝のように降り注いだ。太陽の色を模したようなランプの光とは違う鋭く冷たい光に、日向のまぶたはつい寄せられた。
 ちりのない、常夏の澄みわたる夜半、星々が濃紺の空の上で凍ったようにまたたいている。結晶のように落ちる光は、狛枝の頬を縁取って、産毛をあやしくきらきらとさせていた。
「今日はだれの誕生日?」
 と狛枝が尋ねた。
「だれも生まれてないさ」
「ふうん。……」
 そう言ったきり、狛枝はふたたび膝の上の本を開いて、逃したページを探していた。日向は、なだらかな丘陵のような白い首に、小さな骨が浮いているのを眺めた。文字を追って上下に規則正しく瞳は、手放しにあたえられる視線に、まったく気を払っていなかった。
 ページを捲るたび、わずかに動くうなじには、指の痕と、雪道についた足跡のようなあざが、月の反射を受けてまだらな銀色に染まる髪の先に、あざやかに透けていた。同じ石けんと洗剤を使っているのに、狛枝からは、どこか、植物のようなにおいが漂った。
 へやの中には、ふたり掛けのソファが一つと、木のテーブルが一つと、大きなベッドが一つある。それから、狛枝が要請して数ヶ月たってようやくあたえられた本棚と、故郷の文字がしたためられたたくさんの本、そして小さな冷蔵庫があった。
 日向は変わらず立ち尽くしていた。何度もこのへやに帰るたび、ここは墓所のようだと、思わずにはいられなかった。たったふたり残された島にあるコテージは、かつてと変わらぬ佇まいで、彼らを永劫に閉じ込めていた。囚人の檻というよりは、煮えたぎり、出口のなくなった繭のようだった。お互いの体温しか知らない、求めようもない、夜の波音と銀色の独裁者だけがいるへやで、やがて、日向の眉間は深く影になり、狛枝の目尻からは酷烈な誓いは消え去って、瞳は老い、おだやかなあきらめに満ちた甘ったるい真珠色に侵されていた。
 世界のためだとだれかが言った。もしかしたら、自分で言ったのかもしれない。狛枝は、いやがらなかった。横に並ぶこともなく、先導をきることもなく、世界の隅っこにある島に、日向についてやってきた。そうして、扉のすき間に滑り込むように、ふたりは、夜に過ごし、陽の光に肌を重ねて、太陽から隠れて深く眠った。いつからそうするようになったのか、とっくに時が過ぎ去って、だれも覚えていなかった。
「飢えてないってことは、まだ世界はあるってことだね」
 と、いつか彼は言ったが、じつは、もうずっと前から、定期船は無人だった。日向はそのことを告げなかったけれど、狛枝の頬笑みはいっそう柔和に、あでやかになるので、彼は本当は知っているのじゃないかと、思った。
 日向はそっとケーキを冷蔵庫にしまった。
「食べないの?」
「いや……」
 だってお前はその分厚いなんだか俺には読めそうもない本に首ったけじゃないか、と唇を尖らせると、
「ボクのぶんもあるの」
 と狛枝はびっくりした様子で顔を上げた。
「あたりまえだろ……」
 日向は力の入らない声で苦笑した。
 本を閉じて狛枝が見上げるので、しまったケーキを冷蔵庫から取りだすと、なりをひそめていた甘いにおいが、ふたたび、じわりと漂った。狛枝の目が細くなった。
「なんのケーキ?」
「コーヒーと、チョコ」と日向は答えて、ふたつあるケーキのうち一つを手にとって突きつけた。
「どうせコーヒーだろ。甘いの好きじゃないって、言ってたもんな」
「ボクは日向クンがくれるものならなんでもいいのに」
 灰色の目がどんどんと細長くなって、三日月のように笑う。嘘つきめ、と日向は心の中で毒づいた。腐ったリンゴをやったところで、こいつはかたくなに拒んで、食べないのだ。したたかなやつ。むしろ懐に隠し持った猛毒の小瓶で、こちらを殺すのだ。
 手にかけてやりたいという理性と、この墓所を荒らしたくはないという本能とが、ない交ぜになって、日向はいつも苦しかった。小さな唇が、いやにぬれたようなのも、長い時間を共に屠ったのに、そのかがやきはつねに日向を苛んだ。
「そのケーキどこからきたの」
「さあ。あったから、取ってきた」
「なあんだ。キミが作ったんならいいなと思ったんだ」
「そんな器用じゃないって、知ってるだろう」
「まあね」
 ふっふ、とこらえたように声を漏らす狛枝は、とても楽しそうに見える。あるいは、その、年相応でないどこか幼い吹き出し方は、柔らかでいっそ調和的で、それをたとえるには、おそろしい言葉を使わなければいけないんじゃないかと、思った。
 節の小さな手が、差しだしたコーヒーのケーキをわしづかみにした。
 日向は狛枝の隣に腰掛けて、余ったチョコのケーキを、焼き菓子のように手でつまんで口にした。甘いにおいをないがしろにして、知恵のないいきもののように貪食する行為は、ふたりに奇妙な陶酔をあたえた。
「これを食べたら」と狛枝が口を開いた。「久しぶりに、散歩をしない?」
 彼には珍しく、たどたどしい調子だった。
 日向は驚いて隣の狛枝を見たが、頬はいたって静かにほころんでいた。少年のように目を見開いて、不意に跳ねた拍動をなだめた。
「じゃあ食べて、散歩して」
「散歩したら……」
 その後は?
「その後……」
 狛枝はぼんやりとはだしのつま先に目を落とした。ぱさぱさと音のしそうなまつげが迷うように上下した。
 もしかしたら、と日向は早くなる心臓に眉をしかめながら、彼に見入った。
 ――もしかしたら、今日はきっと人になれる。
 ひとりになろうと思ったのに、ふたりになってしまったせいで、途切れぬ不安と苛立ちを隠すように、尊厳をかなぐりすてて唇に噛み付き合うのを、今夜はきっとやめられる。そう思った。
 やってくる予感に、ふたりの心の奥深いところから水が湧くように感情がこみ上げた。
 日向は隣にいる男に目を向けた。彼は、唇についた小麦色のクリームを、小さな舌でぺろりと舐めて、それから、考え事のさなかのように、ゆっくりと日向の方に振り向いた。
「このケーキ、すごく甘い」
 と、ぽつり言う下唇は、その甘いクリームのせいでひどくじめついて見えた。

 コテージの外は、真っ暗で、唯一の灯りといえば、月と、その月を映して光の帯のたゆたうプールに満たされた水だけだった。
 どちらも、なにも口にすることはなく、ふたりのあいだを飾る言葉を持ち合わせていないといったように、ただ無言だった。それは、心地よい沈黙というようなものではなかった。ともすれば、日向はぴりぴりと神経をいからせて、周りの景色なんて見ることもなく、黙々と、大足で歩いていたが、それにも関わらず、平然とした様子で、狛枝はなんでもない散歩そのものだといったふうに、遅れることもなく日向の隣に歩いていた。
 ふたりは並んで、あてもなく、島を歩き回り、生きているもののない牧場の荒れ果てた跡地を通り過ぎたり、遺跡のまわりをぐるりと一周したりした。とくの昔に、記憶の中に沈没した定期船などは、この島にはすでになく、ひとりぶんの幅でやっと渡ることのできる簡易につくられた橋を、キイキイいわせながらつくねんと歩いた。
 すべてが終わり、また、すべてが始まった場所とそっくりな遺跡には枯れたような蔦が食い込んで、今にもその重い石造りの建物は崩壊しそうだった。狛枝は歩くさなかに、それを見上げて、遠くのものを見るように目を細めた。狛枝がこの遺跡の中に足を踏み入れたことはついぞないのだ。何年も前に訪れたときから、同じ島にある図書館は、朽ちた本が散乱して、ほこりが積もって真っ白になっていたので、狛枝は、この島に足を運んだときには、きまってこの遺跡に立ち止まった。
「そんなにそれが好きか」
 と、日向は遺跡を見上げる狛枝を見ずに言った。
「まあね」
 狛枝はほほ笑んで、うつむいた。さみしげにしている両手を、ポケットに入れようとして、上着なんてもうないのだと気がついた手が、からだの横で揺れた。
 ふん、と日向はため息のように鼻を鳴らした。ふたりとも、もう若くはない。情動にまみれた少年の時期は緩慢な時の中に過ぎ去って、泥の底に沈殿するような日々を繰るうちに、やわい頬の赤さは失われた。
 しかし、日向は逡巡してから、狛枝の、からだの横で月の光に凍えている右手をとって、握った。常夏の夜は蒸して、むんとして熱かったけれども、左手の中に握りこんだ長い指は小さくなって、ひやりとしていた。
 月の明かりでもわかるほど日に焼けていない、剥き出しになっている二の腕が、触れた。ほてるでもなく、震えるでもなく、それはしっとりとして、ごく自然に日向に寄り添った。
「帰ろう」
 と、日向は言った。狛枝は、やはり、なにも言うことはなく、うたたねでもしそうな物静かさで、うなずき、そっと引かれるがままの手のみちびきに、からだをゆだねていた。

 一日一度、きっかりと決まった時間に、機械仕掛けで入れ替えられるプールの水は、とうめいに、その狭い水槽の中でゆらゆらと揺れていた。輪郭の古ぼけた月が水面に映っていた。夜明けが近い。
 群青色の快い世界で、断崖に立つように、ふたりはプールの淵に佇んでいた。なんとなく、たったひとつの寝床があるだけのコテージには帰れないでいた。
 右手と、左手とが、しっかりと、互いのおうとつを埋めて握られていた。二対のつま先が、波の立たない水面ににょっきりとはみ出している。もし、見る者がいたならば、彼らは、もしかしたら、どうしようもないはげしい気持ちの果てに、抒情的に終わりを迎えようとしているのかもしれないと、思うだろうと、日向は自嘲的な気持ちになって考えていた。
 水面は頼りなく揺れるふたつの影をひたした。日向は狛枝に目を向けた。前髪にかくれた長く量の多い睫毛が、またも、穏やかに伏してまたたいた。日向も彼と同じように、じっと水面を見つめた。その打ち据えたように静かな水底に、化石のようになった白々とした自分たちの骨が生気なく沈んでいる幻想が、ふいに頭を横切った。
 日向は狛枝の手をさらに強く、ぎゅっと握りしめた。
「どうして、ついてきたんだ」と日向はつぶやいた。
 狛枝が首をかしいでこちらをうかがう気配がした。
「どうして?」
「この島に、だ」
 狛枝は顔を上げて、さもおかしそうに、ころころ笑った。
「今更、そんなことをきくの」
 瑠璃色の月光に濡れてつやめいている唇がけざやかに動き、それはしばらく続いたが、やがて幼い笑い声は止んで、白い頭を垂れて黙り込んだ。
 髪の隙間からのぞく首筋がほとんど青い白色になっていた。日向は握っている手を唐突に引いて、彼の顔をあらわにすると、そこには心細げな表情が現れ出て、まったく幽かな陰翳が美しい顔にかかり、深い目元に怯えたような血の色が浮かぶのが見えた。
 日向は闇色の洞窟が開くのを今か今かと待ったが、
「日向クンが好きだから」
 真実が途絶えて仮面が笑った。
 ――やっぱり、人になるなんて無理だったんだ。
 日向を、絶望に似た感情が襲った。諦めかもしれなかった。からだ中の血が全部心臓に集まってきたみたいに胸が詰まった。短い爪が、白く色のない肌に、幾本ものくさびになって、じくじくと、泥にうずもれるように食い込んだ。狛枝の眉間に皺が寄った。痛みから逃れたい本能からか、唇が震えていた。
「うそをつくな」と日向はつかみかかるように大声を上げた。「お前、だいじなことはいつも言わないくせ、こういうときばっかり俺がだまされるとでも思ってるのか。何年、経っちまったと思ってるんだよ」
「…………」
 夜の空気を吸った。踊りのように手を引いて、唇に近づいた。ほんの少し、どこかが綻びれば、崖から水の底に落ちてしまいそうな距離だった。日向の瞳に、弱くなっていく月の光が、星々のようにいくつも反射した。
「本当のことを言え」
「言えるわけないよ」
「言えよ」
「……ゆるして」
 狛枝の左腕が、先についている手の平がないのを忘れてしまったように、自身を隠すために翳された。噛み痕のように傷の残る腕の先は、いつも微睡んで甘くにおっていた。
 日向は、その、白いからだを持つ彼の、体躯の中で唯一色を持つ指先や足先のような赤色をした腕の先をも、空いた手でつないでしまった。
 遠く波の音がやってきて、プールの水面に揺れる光に輪郭を照らされて、ふたりは、自分たちがまるで海の中にいるように錯覚をした。
「どうせ、もう俺とお前しかいない」
 低くがさがさとした声が、日向の喉の奥で唸った。
 狛枝は首を横に振った。けれども、どうしようもなく、狛枝自身も人になりたかった。日向がなりたいというのだから、自分もなりたいと思った。茶化し、誤魔化すために肌と唇を捧げるには、あんまりに冷たく、風の吹き付ける崖の切っ先に、ふたりは立っていたのだった。
 緑の蔦に全身をつらぬかれて、月の影をそこかしこに落としていた遺跡の姿が、ふと狛枝の脳裡に映った。日向の手の内でちぢこまっている頼りない枯れた木の枝のような手を見た。それは小刻みに震えおののいているようだったが、よく見れば、身を抱くようなその震えは、日向の、心臓からやってきていた。
 日向と狛枝は、互いの瞳に閉じこもっている夜の光に視線を縫い付け、じっと、途方に暮れたように立ち尽くした。
 決して放すまいという覚悟と、救済を願う残酷とが、めまぐるしく、入れ替わり立ち替わり日向の心を押し潰した。
 日向は、狛枝の手をつかみ捕らえた万力のような手から、だんだんと、力がなくなっていくのがわかった。狛枝の瞳の色が薄くなる。
「……言ってくれ、頼む……」
 小さい小さい声が、狛枝の頬に縋り付いた。
 日向の手から、狛枝の手は逃がされようとしていた。束ねられていた指が自由になった。
 狛枝は白く痕のついた自分の右手を食い入るように見て、肺が、ほ、と息をつくのを感じた。それから日向のしていたのとは違ったように、日向の、日に焼けた手の甲をつつみ、指先を通した。
「しあわせになりたくて」
 その音は砂の砕ける波とともにやってきて、日向の耳に滑り込んだ。
 日向ははっと顔を上げた。
 しあわせになりたくて、ともう一度、その声は日向の全身を巡った。そして、思わず「ごめんな」と言葉の溢れ零れるのを止められなかった。
 匂い立つ唇が近づいて、まぶたに触れた。冷たくも熱くもなく、ただ人のからだの温度をしていた。
「キミと」と消え入るような声で狛枝が言った。
 それきり、凶暴な衝動たちは波が引くように遠のいていった。ずっと待っていたのだと、ようやくにして、からだに置いて行かれた淋しいこころが追いついたようだった。
 ずっと死なないでね、と囁いた狛枝の目尻は、うつむいて、あるいはそれは憐憫のように、濡れて、くしゅりと笑んでいた。

 へやの隅のくずかごから、今は食い尽くされてふたりの臓腑に落ちていった、チョコとコーヒーの薫りが、ゆらゆらと手を伸ばしていた。
 屍のようにベッドに横たわり、真っ白いふとももに足を絡ませた日向の頭の上で、明るくなってきたよ、眠らなきゃ、と起きたての時のように掠れた吐息で、狛枝が言った。日向は疲れ果てて、眠く、生返事をすることさえできなかったので、平らな胸に額をわずかに擦りつけて応えた。
「起きたら、二十日だね」
 うすい腰に回した手の平で、植物のにおいのするシャツをよわく握った。
「いい日だったね」
 ああ、と日向はうなずいたつもりだったが、それはすでに、赤ん坊の身じろぎのように、かすかなぬくもりを移動させただけだった。
 狛枝の心臓に日向の頬は寄り添って、片方の手がない腕は絡め包むように日向の肩を抱いて、一続きの人魚のようになって、群青が朝日から逃れて空の端に姿を隠す頃には、もう、ひそやかな湿り気に満ちた洞窟の中にふたりは横たわっていた。ごく細く存在の分からないほどの息が、交互に、ふたりの胸に沁みていった。たったこの一瞬、ふたりは永劫の人になった。