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二の舞

 微睡みの底から静かに浮かび上がり瞼を開くと、まず見覚えのある天井にあまねく広がる橙の光、唇の違和感、そして既視感のある角度でこちらを覗き込んでいる男を認めた。
「…………」
 状況の飲み込めない頭は、今に至るまでの行動を反芻し、海へ素材を採集しに行ったのち自室のベッドにて昏睡のほどの勢いで倒れ込んだことを思い出す。
 もう夕方だった。
 気怠い意識の靄を振り払うように肘をつき身を起こすと、寝台の傍らでじっと日向の顔を見つめていた男がふいに破顔した。
「やっぱり似合わないねえ」
 何が、と言いかけて、その男——狛枝凪斗の手にあるものが目に入り、唇の違和感に思い至る。
 咄嗟に手の甲でそれを拭おうとすれば、見慣れない色が更なる混乱を招いた。
「こんなもの……どこから持ってきたんだ」
「日用品から犯罪グッズまで、なんでもござれのマーケットだよ」
 悪戯そうな顔をして狛枝が懐から取り出したのは、男子高校生なら縁のないはずの口紅とマニキュア。洒落た流線の容器に透けるのはめざましい赤色であった。
 日向は顔を顰めて己の手を見る。作業に向いた短い爪に不似合いな彩りが奇妙だった。日に焼けたあらあらしい骨格に馴染むはずもなく、落ち着かない風にして赤色はそこにあった。甲の角ばった部分を利用して唇を拭えば、同じ色が皮膚に移った。だが唇の不快感は消えず、ラップに包まれたような感触に舌で舐めとろうとするも、人間が口にすべきではない味に即座に舌を引っ込めた。
 不快の元凶を見下ろすと、弁明といった体でまくし立てるがこれがとんと誠実でない。
「結局のところ、ただのいたずらってことだろ」
「そうとも言うね」
 そうとしか言わないだろうと口を引き結ぶ。
「だって日向クンが寝てるなんて珍しかったから」マニキュアと口紅を弄びながら狛枝が言う。「つい童心がね」
 小首を傾げる様子が子憎たらしい。
 修学旅行が終わりに近づき、課題の難度が高くなっていくと、日向たちの技術では採集から組み立て納品するまでに、設けられた期限を超過することがままあった。当然のことながら報酬はない。自分たち修学旅行生の間には、親密度という可視化した値があるらしいのだが、その値を上げるために使われるものが教師から与えられる報酬であるチケットだった。日向の今までの生活では、午後の空いた時間はその報酬を使って誰でも暇そうな人を誘い、時間を潰すのが定番だった。しかし律儀に毎日使っていたため、課題のこなせない今、残りのチケットはゼロであり、何よりも最優先であるらしい希望のカケラ収集も、最後のひと欠片を除き、総て集めている日向は自室に帰るとそのまま寝てしまうことが多くなったのだった。
 そのことを狛枝に打ち明けると、彼は大量のチケットをポケットから取り出し日向に譲ろうと言った。諌めて諭すのも今さらだったので、簡単に断り差し出された手を突き返す。自分を誘えばいいのになどと気の利いた気障たらしい言葉を吐く気分ではなかった。
 日向は宙に手をかざして異様を呈する指先をうち眺めた。
「あーあ。これどうやって落とすんだよ」
「専用の液ならマーケットにあったと思うよ」
「そういうのはぜひ持参してくれ」
 寝起きの物憂い空気が日向から普段の気勢を削ぎ落としていた。はきはきと、ともあれば切羽詰まったようにも聞こえる日向のいつもの語調は黄昏の中間延びしていて、狛枝はこの珍しい空気感を満喫するように日向のベッドの淵に肘を置いた。
 すると日向はさっと手を伸ばし狛枝の手から離れたマニキュアと口紅を奪うと、得意然とした顔で、呆気にとられる狛枝の細顎をつかんだ。打って変わった俊敏な動きに狛枝はなす術もない。
「何するの?」
「仕返しだ」日向は片手でキャップを外すのに苦労したが、それでもなんとかひねり出すと、つかまれた頬に押し上げられややユーモラスな様相になっている狛枝の唇にそれを当てた。「おれ、どんな風だった?」
 うーん、と狛枝は思い出すように宙に目をやり、
「場末のナイトクラブの人みたいだったかな」
 その言葉に問答無用で塗りたくる。うむむ、と唸る狛枝をよそに下手くそなりに彩りを施した。稜線に沿って淵を埋めはみ出た部分を指でぞんざいに取り去ると、案外器用じゃないかと、その出来栄えに満足した。
 ほら、と顎先を解放すると眉をひそめて唇の感触を確かめた狛枝が日向を仰ぎ見た。日向はその姿をしゃれのめすつもりで笑おうとした。しかし暫時赤と白のコントラストを見つめていると、何か別のものが浮かび上がってくるような気がした。
 死化粧——頬はぴくりとも動かない。
「不吉だな」日向は思わず言った。
 必要以上に華美で毒毒しい赤は、狛枝の肌にのせられた瞬間その幻妖を遺憾無く発揮した。白皙を裂く緋が、まったく微妙な表情を醸していた。
「……ドラキュラ伯爵みたいで」
 そんなことを口にして日向は無理やりに抱いた印象をごまかした。
 狛枝はとくに不機嫌そうにもなく肩をすくめただけだった。
「手も貸せよ」
「ええ? いいよもう」
「仕返しって言っただろ」
 その細面の顔にうんざりという思いをありありと見せる狛枝の左手を引っ張り上げ、溶液の染みた刷毛を滑らせんとする。
 他の男子ほど屋外に採集作業に出ることはないが、しかし任される部屋の掃除のためすっきりと削られた短い爪は、縦長でありながら紛うことなく男のものである。狛枝を間近の距離に感じるようになってから初めの頃よりも、割れてしまった二重の爪や何本も入った白い筋は少なくなった。日向は自身の肩と首に遺された小さな細い傷あとを思う。
「おまえみたいに上手く塗れないと思うけど」
 狛枝の不満のため息を無視して、温度の低い左手の、どの指から染めようかと、一本一本確かめるようになぞり思案する。

 それはまったく突然だった。日向はふいに空虚の気持ちに襲われた。胃の辺りがずんと重くなり、狛枝の手をとり嬉々と意趣返しを仕向ける腕も、何倍にも重さが増したようだった。狭霧のかかったような感覚を寝起きの特徴だとするには日向の意識は覚醒しすぎていた。
(なんだ……)
 と日向は眉間に皺を寄せて考え込む。考えるべきことの髄は分からないというのに、どこにも繋がっていない糸の先を探して延々と手繰り寄せるようだった。狛枝の左手だけがぼうと浮かんで見えた……。
「……やめた」
 不審そうに見上げる狛枝を促し、やたら自らを貶める言葉を吐くのを嗜めるでもなく漫然と聞き流して、寝台へ上らせる。
「どうしたの」
「落とすやつ持ってないだろ」
「除光液?」
「だから足な」
 は、と素っ頓狂な声を上げた狛枝の、一体どこで売っているのか、複雑な構造の靴を脱がせ、少し湿った厚めの靴下までさっさと取り去った。
「ちょ……ちょっと待ってよ」
「こんなのめったにできないし」
「ううん、それはそうなんだけど、日向クンにしては悪ノリが過ぎるというか、キャラが違うというか」
 それはあながち間違ってもいなかった。らしくないことをしていると自分でも思っていた。あの虚脱感を振り払えるなら振り払いたいと、体面を気にしがちな日向にしては稀なことだが、そう形振り構ってもいられなかったのだ。
「寝てていいから」
 と肩を押すと存外簡単に倒れ仰向けになった狛枝は、観念したのかお手上げという風に息を一つついてたわむ布に身を任せた。
 狛枝は自室と同じはずのベッドに、慣れた他人を感じた。親戚の家であるとか公共バスの椅子であるとか、そういった独特の匂いがする、とやり場がなくなったのだろう座りの悪い両手を腹の上で組み、天井をぼんやり見つめて言った。
 怠惰にうってつけの心地よい温さと光の量に、下手をすればうたた寝を始めそうな狛枝を足先をくすぐることで引き戻す。白い首から頬に連なる尾根が無防備にさらされ、窓から差す入り日を薄く受け止めていた。

 ようやくすべての爪に色をのせた時には、狛枝はすでに夢うつつに片足を突っ込んでおり、日向は成果を見せるのに幾ばくか時間をかけなければいけなかった。
 とろりとした気分で起き上がった狛枝は己の足先を見て声を立てて笑い出した。
 顔よりもさらに陽にあたることのない足は青い血管を浮き彫りにして、赤い爪先に嫌な連想をさせた。
「気分の悪い色だ」と狛枝は膝に顎をのせ、日向の遊びを見下ろしながら穏やかに言った。
「なんでこんな悪趣味な色」
「キミの眼の色に合うかと思って」
 それからゆっくり、正面の日向に視線を向け、自身の言葉を怪しむように目弾きした。「アンバーに赤? 合わないなあ」
 日向の頬には拭った赤の切れ端が付いていた。
 夕日を深くまで取り込んで光る日向の瞳が怪訝そうに、強張る狛枝を黙って見ていた。
「キミ、そんな眼の色だったっけ」
「そういうおまえは、爪、そんなに短かったっけ」
 思わず、狛枝は日向に近づいた。乾ききらない塗料がシーツに付くのも構わず膝をすり、日向の頬を包むと、水の底のコインを探す子どものように、双眸を熱心に覗いた。日向は狛枝をそのままにしておいた。
「ウルフマンと、ヴァンパイア?」
 と狛枝はアンバーを見つめて呟いた。お互い、胸に抱いた何かを誤魔化す必要があった。
 日向の赤いマニキュアの手に指をからめ、体重をのせて押し倒す狛枝のなすままに、日向は頭に軽い衝撃を受ける。弧を描く唇に汗ばむ首筋を吸われ、不本意な声が上がった。
「ハロウィンはきっとまだ先だろ」
 子供染みた成り切りに、白い髪を梳くことで応えた。

 夜が近くなった。日向の腹は飢餓を訴えていたが、疲労と淫情とで、もう何も食べる気にならなかった。彼が夕飯を抜くと言えば、当然のように狛枝も飯を要らないという。狛枝の貧弱な肌色を見て一度は口を開くが、言っても無駄なのはわかっていた。だからぱくりと口を閉じた。
 日向は開かれた体の柔らかいところに跡を残しつ、馴れた軌道に指を滑らせ、組み敷いた狛枝の陶酔を煽る。彼を前にすると、自分の常識がまったくおかしくなってしまうと肯うことしかできなかった。
 狛枝は、日向に抱かれ体をいじられるのが好きだった。最後の欠片を渡していないのにも関わらず——愛を囁いたわけでないのにも関わらず、日向に触れ、触れられると気分が火照り高揚するのがわかった。未だ明かされない日向の才能へも期待を寄せて、狛枝は背筋をしならせた。
「日向クンの才能は……いったいどんなだろう。キミの憧れ……希望に生きて死ねたら……どんなに素晴らしいだろう」
 頬を紅潮させ、あらぬ方を見つめ悶える狛枝は、絡んだままの日向の手をぎゅっと握った。
 掠れた声がだんだんと上ずり、快楽の上り詰めるのと共に、狛枝の思考が、日向の理解の彼方へと馳せられるのは今回が初めてではなかった。その思考を日向に向けさせるには一つの方法があったが、日向はそれをしなかった。
 蝶のように動く唇はいつもと違う色をしている。赤い唇はキスをねだることもなく、空しい交わりが終わるまで、熱にうかされた譫言のように彼自身の哲学の総まとめを語るのだ。日向が塞がないかぎり。
「なあ……幸運と幸福って、おなじなのか」
 狛枝は答えなかった。
 日向の汗が白い体に散り、混ざって流れ、狛枝は日向の手を一層強く握りしめた。弁舌が途絶えた。
 腹を埋め満たす欲とユーフォリアに汗ばんで眼をつむり、荒々しい呼吸に胸を上下させて狛枝は言った。
「ボクは……幸運なんだよ、日向クン」
 日向が、見下ろした体を視界にちらつく赤い指爪で引っ掻くと、狛枝が彼を見上げた。疑心にも、不安にも、また無関心にもみえる面持ちで、じっと日向の眼を見ていた。
狛枝は両手を伸ばし、
「日向クンだよね」
「狛枝だよな」
「たぶん……ボクまだ日向クンの最後の欠片もらってないよね」
 頬に滑る狛枝の抱擁を受け、日向はその手に掌を重ねて頷いた。「いつか……」
 いつか、と狛枝は日向の言葉を口の中で反復した。限られた日数の奇妙な修学旅行のなか、幾度とこの言葉を、共に口にした。しかし今、狛枝はそれだけでない懐かしさが胸に起こってくるのを感じた。過去だったか、今だったか、それとも未来だったか。この言葉の続きを日向は言わないし、狛枝もそれ以上追わなかった。

 日も落ちて、南国にも夜がくる。
 ついに唇が重なることはなかった。