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第一章

※2016年6月19日発行
※本編後死ネタ・ダイレクトなCPの死注意


 けぶるようにどこか不透明な青空と、白い月を裂いて、雁の群れがさみしく飛んでいる。
 ソニアは空を見上げた。冷たい風が分厚く黒い服にぶつかっては遮られて散り、彼女のやわ肌の上でそよ風になった。
 小石と砂利を踏む音がいくつも通り過ぎて背中の向こう側に消えていった。ソニアはひとり残った者に顔を落とし、そっと歩み寄った。
「狛枝さん」
 控えめに声をかければ、彼は、また、遠くを見つめていた。何も持っていない手をだらりとさせて、奇妙に姿勢をよくして、もし彼を見る人が、こころのしろいときに見たならば、風のせせらぎに耳をすませているようにも見えたろう。
 ソニアは、今度はなにもいわずに、レースの手袋に包まれた手を彼の肩にのせた。黒い服がゆっくりと振り向いた。その眼はぽつんと澄んで、なんの色も映さずに、ただ思い出したようにまたたきを一つした。ソニアはそのようすが、天窓に映る闇空のようだと思った。
「行きましょう」
 白色の頭はふらりと揺れて、うなずいたのかよろめいたのかわからなかった。レースに守られたソニアのやわらかい手の平は少しためらってから、彼の背と、手とを取り、やがて二人は放浪者のようにその場を歩き去った。
 幻燈のようにゆれる大気の中に、細くたなびく煙が霞のように伸びていた。砂利がこすれる音が交互に入れかわり立ちかわり現れ出ては、やがてこだまになって彼方へ消えた。雁の群れは列になり、山の先の地平の向こう、空の境へ点になっていった。


   一 秋

 秋、涼しい風がかすめるようになったとき、まだ彼らは高揚し、高らかに足音を鳴らし、赤らむ空気に溺れ酔いながら日を過ごし、白く無機質な建物は若い熱気を含んで揺らいでいた。けれど、悲劇でも、まして運命でもなく、ただひとつの普遍的なできごととして、その時が訪れたのは、秋ぶかい風がひとときやんで、しんとした薄闇のようなおだやかさが、彼らの棲む建物中を包む頃だった。
紙の束がばさばさと乾いた音を立てて机から落ち、狛枝はため息をついた。金属の左手は動かないおもちゃのような見せかけだったので、よく、持ち主のいうことを聞かずにいろんなものを落とした。
マグカップを落とした。つぎに、新しく買った白いカップも落とした。真白の紙の束も、びっしりと文字の書き連ねてある書類も、安物の腕時計だっていくつも落とした。けれども、そのたびに別の手たちが、それを拾った。割れたカップの破片を拾い、コーヒーに濡れた床をぬぐった。ばらばらになった紙をあつめて、腕時計を狛枝の左手に巻いた。
 今もそうだった。白魚の上品な手が、太陽に焼かれて光る手が、狛枝の肩を叩いた手が、そして背を強く抱いた手が、いくつも伸びてきて、口をひらいて言葉を発することはなかったが、落としものを拾いあつめて元の位置に返した。その中には狛枝の右手もいる。
「ありがとう」
 と小さな声が言った。誰にも届かないままに、いつも「ありがとう」と言った。こわばって震える手が、その中に迎え入れられていることに、唇はそうひらかずにはいられなかった。
 ソニアは頬笑んで、終里は通りがけのちょっとした用事だったように去り、左右田は相づちをするようにうなずいた。それは、すべて彼ら全員の普段どおりの生活だった。
 そうして、差し伸べられた手がめいめい持ち主のもとへ帰ってから、紙が鳴る音がして、机の上の書類に落とした顔を上げた狛枝は、きらと電灯の光を反射する瞳にまばたきをした。
 紙の筒をいくつも持った男は、段ボール箱を小脇に抱えなおして狛枝を見下ろした。
「左手。不便があったら言えよ。俺か、左右田にでも」
「……へいきだよ、日向クン。今のはボクの不注意だから」
 狛枝はふたたび机の上に視線を戻した。頬はあいかわらず強ばっていたが、日向の声にほんの少しやわらいでいた。
広い部屋の中はキーボードを叩く音や、話し声、扉をあける軋んだ音が重なって、心地よくざわめいていて、黒い服を着て受話器を手に持ったりせわしく動いたりしている人間は、みんな知った顔だった。
狛枝の座る位置から反対側にある扉の方から、日向を呼ぶ声が飛び、日向はちらりとそちらを見た。赤い髪の頭と、金の髪が揺れていた。
 そうか、と日向は口の端を上げ、「小泉と西園寺が呼んでる」と言った。狛枝が手をふって、日向を追い払うような仕草をすると、日向は器用に肩をすくめて、足音が遠ざかっていった。
 白く大きな建物の名前は、未来機関といった。それはまったく、あたたかな監獄であった。東の窓からは、遠くに埠頭と海が見えた。北の窓からは、まっさらに広がる平地と、そこに連なるみすぼらしいバラックの群生が見えた。四階建ての壁は雨風と戦火とにさらされて、少し削れ、汚れていた。それはいかにも自分たちにふさわしいと、彼らは思っていた。管理棟をぐるりと城壁のように取り囲む建物の中で、ただ一つ、きよらかなものは、建物の蔭になって光に焦がれている、見捨てられた中庭のみだった。
 少し離れた遠くから、狛枝の背に、日向の声は浮かび上がって聞こえる。いつもそうだった。狛枝だけでなく、みんなの背に日向の声は浮かび上がった。
 そうして、そっと大切なものを抱えこむ人々に、日向の手の平は器のように差し出された。つよい節々のつくる器はひとつのかけらも零すことのないよう、彼らを死の穴底に潜む目から隠しおおせ、ぶどうの房を陽に当ててやるように、ひなたに導いた。
まだ足がうまく動かない人も、手指が思うようにものをつかまない人も、皆、日向の背を追い、取り囲み、氷河の奥底で結晶したこころと、熱持つからだとを、彼に溶かしなだめてほしがった。かつて亡者だった彼らが日向の手を求めると、日向の額にかがやく傷跡は、秋の木々と同じ色をした髪のあいだに隠れて姿を見せず、ときおり、日向はきまり悪そうに笑っていた。
若い青年の無頼な頬にはいびつな、おそろしいほどに見透かす老教師のような微笑が、日向の眼底から這い上がってくる。つばめが星に向かうように、あるいは流れ星がビロードに刻まれるように、狛枝の網膜は、その光を何度でも描いていた。

 裂くに時があり、縫うに時があり、
 黙るに時があり、語るに時があり、

真っ白な紙の束の上にて、文字がおどっている。文字の上に陽が差して、狛枝の白い顔が持ち上がった。赤や黄の葉が、窓枠に切りとられて、まぶたを閉じたようにじっと、垂れ下がっている。
こきあけの色も透かしてしまった光をうけて、空ににじむ長いまつげが数度、上下したが、光の路にきらめくほこりを浮かせるだけで西風は吹きそうもなかった。なめらかで、しかしどこかくすんだ頬に、葉の透き間をすり抜けてきた西日が、波打ちぎわにたゆたうような影を落としていた。右手の人差し指と親指のあいだに携えられた細いペンのインクが、微生物のような紙の毛羽に触れようか触れまいかとしていた。
 壁掛け時計の秒針がひどくゆっくりとして見えて、時間が止まっているのだと脳みそが間違えてしまうより前に、無音の世界から狛枝を取り戻すのは、ずっと、日向の役目だった。

 みな一つ所に行く。
 皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
 
 気がつけばインクが紙の上で黒い円になった。おしゃべりはやんで、狛枝はわれに返った。赤色と金色の頭が寄りそい合ってそばを横切り、空調にうずを巻いて、微風が狛枝の肌に触れた。
 西園寺は小泉の腕を組んでいた。彼女の足は気丈に、灰色のタイルカーペットの上を踏み、それが石庭の紋様を紡ぐようにと努力した。しかし、その紋様はたびたびほころんでいた。なにもかもが上手くいかない不安定なレースの編み物のようになって、彼女の歩くあとに這うようについていった。
 西園寺はまっすぐ前を見ていた。小泉の腕は、西園寺のうむ細く空に浮いた編み物の上を、おぼつかない視線を泳がせながら、けれども西園寺の手を頼りにして、まるい爪先がそっとひとつずつ、編み物の交差点を見つけては、そこに乗って、たった一個の門を目指すようにして彼女をみちびいていた。
 軋む左手のように、舞踊家の足のように、写真家の目のように、滅びた国のように、兵器の残骸のように、兄弟の墓のように、すべての人に代償があり、もういちど生まれなおしたことで、皆はさもそれが生まれついてよりの自然に持ち得たものであるかのように振る舞った。
(ならば、彼の代償は?)
 とたんに狛枝の思考は全部を投げすてて、ふだんだって霧がかかったように寒く、寂寥のカーテンに閉ざされているのに、そのときばかりは、ぽうとした熱が産毛をざわめかせて首筋をなで上げて、よりいっそう、おもんみることをやめてしまって、ただひとつきり、自分でもわからないほど大切にしている背の感触が――日向の手の平のあたたかさが――よみがえってくるのだった。つねに、背骨を梯子のようにして浮かび上がってくる日向の声が、いっとき白昼夢に消え去った。
 狛枝が、ふたたび歩けるようになったのだって、そんなに昔のことではなかった。濁り澱み、崩壊する硝子の聖典と共に、足の指先からぽろぽろと崩れ落ちていくのを抱きとめたのは、他のだれでもなく、彼の後生だいじに抱えた聖典を打ち砕いた日向その人だった。
 病棟の、等間隔に並んだダウンライトが点在する暗い色の廊下で、スポットライトの光を浴びることもなく、日向はつよく狛枝を胸に抱いていた。
 背骨の尾根は瘠せて尖り、夜の病棟を慟哭したせいで、はだかの足も、手の平も、頬も汚れた狛枝の、胸をかきむしるような嘆きを、じっと胸に抱いていた。
 床にうずくまったふたりは、はじめからそんな生きものだったかのように、腕も足も、まつげすら、重なりあって、どこか異形めいていた。口を開き、枯れ木の枝の北風に互いにこすれるような音をたてて喘ぐ狛枝の瞳から、今までに見たことのないような影が覗いていた。
 皮膚よりも薄い病衣が、だんだんと冬の廊下の冷たさをなくして、どちらとも知れない体温に境界を失う頃、
「いつかおまえがほんとうに笑うのなら、どんなにかいいだろう」
 おとなびて、小さく小さく肩口に埋め込まれた言葉は、動脈を巡り心臓をひっかいて、砂糖が溶けるようにじんわりと狛枝を傷つけた。声のない悲しみは死んでしまって、かわりに途方もないさみしさがやってきた。涙が日向の肩に返事を書いた。
 長い眠りのせいで、狛枝は少し幼かった。
それは他の人々も同じで、ひとたび死よりも深い眠りについたものたちは、少年少女のような無知の不安と、ハーデスの神殿に招かれたおびえを、絶えず覚えていた。それぞれが、暖炉の前のぬくもりや、髪の毛をなでてくれる手、思い出の隠れている品物を、探して見つけては生きていた。
その中にはかならず、差し伸べられる日向の手があった。日向の手、それは仲間だけではない、世界中のだれも彼もが、慰みにするために、あるいは頼りにするために、ときには憎しみに粉々にするために、欲しがった。
 それでも、なにより、狛枝の背を抱いたのは日向だけだった。おぼろげな白い月のようにぽっかりと浮かぶ幼い思い出に、日向の体温が加わった。
 二度目の冬に、日向に手を取られて狛枝の両足が地面を踏んだとき、彼のこころの明けわたされたのは日向だけだと、だれもが知った。百千もの金色の翼のような光が、無味乾燥な論理に満ちた病室に降り落ちて、居あわせた仲間たちは、みなそれがもっとも美しいものだと思った。狛枝の自尊に満ちた言葉は、目が覚めた奇跡の時からとっくに途絶えていて、ただひとりの青年の、デカルトの瞳が眠たげに上下しただけだった。
 狛枝の代償は、左手と、聖典と、自身のこころだった。日向の頬が触れるとき、言葉を交わすとき、彼が手を握るときの何もかもが、狛枝のからだとこころを削って、パテを塗るようにすき間を埋めた。それは星の墜落のような衝撃をともなって、狛枝に熱と、幸福とを授けた。
 幸福による熱は心臓からやってくる。狛枝は、しばしば自分の幸運をおそれて、その熱が、自分を焼き尽くしてしまうことを祈ったが、そんなときは決まって、あたたかいはずの日向の手が心地よくひんやりとして、狛枝の頬を包んだ。
「笑ってくれよ」と日向は言った。
 中庭にて、ぎこちなく口の端が持ち上がる。こんなことは、昔はもっと簡単で、それどころか、幽霊の白いお面を貼り付けるのは大の得意だったはずなのに、開ききったまぶたが、空気に震えて滲んでいた。
 わがままの幼子のように泣き出してしまいそうなのを懸命にこらえて、唇を緩める。日向の眉間がほんの少しやわらいで、アイリスがきらきらとする。
「笑ってる」とおずおずとして狛枝がたずねた。
「ああ」
 日向はうなずいた。
 だんだんと頬がぬるくなって、反対に日向の指先がほのかに温度を帯びていった。狛枝は彼の両手をそっと外して、
「キミのほうが上手だ」
と目を細めた。
建物の中庭にひっそりとあるベンチに、新しい葉がいくつも影をつくり、ふたりを守っていた。
穏やかな日差しが春を呼び、小鳥が羽ばたくようなそよ風に、狛枝の髪と日向の黒いネクタイが揺れた。孤独はすっかりと姿を消して、寄りそって眠るふたりの友人の、おごそかな死に顔のような寝顔がその場に残されていた。
 まばゆい光の世界が、とつぜん空調の風に吹き消された。
 中庭の思い出はその春を最後に、休息に入っていた。庭の木々も、もう、老成して色づいている頃だろうと、伏せたまつげが白昼夢の波に息継ぎをすると、そのとき、彼方の砂浜に追いやった日向の声が、帰ってきて、狛枝ははっとして肩を揺らがせた。思考が線香花火のようにぽっとりと落ちた。
「狛枝」
 とやってきた日向はさっきよりもたくさんの段ボール箱や紙を抱えて、長身が見えないほどだった。
「段ボールじゃないぞ、日向だ」と日向は言って、ほら、と柱から顔をのぞかせるようにして狛枝を見下ろした。
「さぼるなよ」
「これは……」と狛枝は言いよどんだ。
 インクの染みはブラックホールのように大きくふくらんで、文字の羅列はまったく取り返しのつかないことになってしまったけれども、見下ろす目はあの優しすぎる星の微笑であって、友人を責め立てるものではなかった。
「日向クンこそ」
 と、色の薄い唇がつとめてほほえみを作った。
 秋色の、優しい目を見られないで、うつむいてしまいそうになるのを、ぎゅっとこらえて、狛枝のまぶたは眩しげに、花びらのように閉じて、また開いた。それに返事をするように、日向の深いまぶたが灯りのようにまたたいた。
 その抱擁ったらなかった。段ボール箱でふさがっているはずの大きな手の平が、慣れたふうに髪をなぜたのだとさえ、感じた。若き頃、悲しみのために狛枝を打ちたたきたそうにしていた幼い手は、いまや、透明な泉にひたしたような、峻厳な器を狛枝に差しだしている。湧き出る幸福が、幾度も狛枝の喉をうるおして、まつげをぬらした。熱い血のほてりが、またも、心臓にふつふつと生まれ出た。
 そのとき、かたくしっかりと閉ざされたはずの髪の合間から、彗星のひっかいていったような傷が、ちらりと狛枝の瞳に映った。へやの中に秋風が吹くはずもなく、それは弱々しいただの空調のせいだったのかもしれないが、狛枝の息は細くなった。
「じゃ、元気で」
 と日向がつよくうなずいて、腕に抱えたバベルの塔が踵を返したとき、すでにその傷はいつものように姿をひそめていた。狛枝がいつかに触れたその傷の鋭利さを思い出すことはなかった。
 扉を閉じる音がするまで、狛枝は日向を見送らなかった。会話と、来し方の追想とに惚けて、か細いままの息が、黒く深々と地中に空いた穴のようなインク溜まりが、窓から差す永い陽光によってはり付けられているのを、じっと、眺めていた。

 ソニア、ソニア。と呼びかける声に、かつての、世界中のだれもかれもが自分の味方で、そして敵であるように感じている、少年の悲痛な、鋭い願いはもうこもっていなかった。その声はソニアのまだ見ぬ孫、子ども、あるいは祖国の兄や父、祖父が、ない交ぜになったような不思議な存在として、彼女の鼓膜を震わせた。
たった今ソニアの元を去って、狛枝と言葉を交わし、人のひしめくへやを出て行った日向の背中を、彼女は見送っていた。
彼の向かったのは印刷機のあるへやだと知っていた。北に向いた窓のあるへやは、今頃秋の空気のために、暖炉に残った灰の残り滓のように冷え始めているだろうと、ソニアは思った。
 いくつも書類を抱えた日向は、どんな作業もいやがらずにやった。そう言うよりは、皆それぞれがひとつのことを補い合いながらやっていたのだ。足が動かないものの代わりに別のものが歩くのは当たり前だったし、目が光をとらえないなら、かわりの目になるくらいのことは当然だった。ただ、そのすべての指標は日向が向いている方角で、だれも、だれがなにをやるかなんて、そんなことに気をはらってはいなかった。
 しばらくして、ソニアは伸びをすると椅子から立ち上がり、窓を開けた。風が吹いていればよいと思ったが、今日は朝からずっと少しの風も吹いていない。髪にたわむれる秋風が恋しく、ソニアの細く開いた唇から小さな息がもれた。
 しいんとしていた。
 ソニアはしばらく空を見上げていたが、ふいに弾かれたように振り返って、彼女の、ワルツを踏みたい身ごなしに似合わない小走りで、へやを横切った。
「日向さんのお手伝いに行ってきますね」と、扉を開ける前に、ソニアはだれに向けるでなく早口で言い残していった。いってらっしゃい、と間延びした声がどこからか聞こえて、ソニアは自分の行動が承諾されたことを知り、笑んでみせた。けれども、どうやら、頬は彼女の意志を去って、固まってしまっていたようだった。
 閉じていく扉のすき間になびいた金の髪を追って、左右田がコンピュータにデータを打ち込む手をとめて、立ち上がったが、そんなに人手があってもしかたがないのよ、と小泉の髪が揺れて、ゆっくりとした瞳がのぞき込み、彼はあきらめた。ひとりを案じる瞳は、さらに、別の案じる瞳に見守られていた。
 資料はまだか、と別の声が空中をとんで、狛枝の頭上を通り抜けて、ソニアの開けた窓の外に身を投げた。狛枝は、ソニアの出て行った扉が、支えるもののないまま音も立てず、ぴったりと、重苦しく閉じたのを見ていた。

 がたんごとんと、あてどない列車のような音がへや中に響いていた。北を向いた印刷室は、西日から隔絶されて、ほのりとした灰色に満たされていた。杭の打たれたように並んだ印刷機のひとつだけが、規則正しい音を立てて、紙を吐き出しつづけていた。
 機械の森の中に、日向のからだは埋もれていた。床の上にうつ伏せて、疲れ切った日にベッドに飛び込んだというように、手の甲を顔に寄せて、革靴に覆われた足は先まで力を失っていた。はき出される紙はいきおいを増して、やがて崩れて、彼を隠してしまうように降り積もった。
 指先はぴくりとも動かず、風は吹かず、どこか蒸し暑い夏のアスファルトのにおいがして、まぶたは深きに赴くようにぴったりと閉じて、固いまつげは、枯れたひまわりのうなだれるような影をつくった。
 列車はいっさいの前触れもなく止まった。文字に浸食された最後の一枚が落ちたとき、呼吸のような小ささで静かに空気が揺れて、灰色におおわれて老いた樹木のようになった髪がふうとため息した。
 額の傷は墜落する星のようになって、暗いへやのなかでぽつりと事切れていた。

 暖炉の燃え残りの薄暗がりに、だんだんと、ライラックのにおいが漂い始めた。それは死のにおいだった。
 そのとき、印刷室の外に、むきになったような、心急ぐ足音が響いた。
 印刷室の扉が開いて、ほつれた金色の髪があたりを照らし、時間のとまったへやに、停滞していた風が吹き込んだ。
 印刷室の中にひとつの音もないのを不思議に思いながら、ソニアは日向を探した。彼女特有の、いやな感じが心臓と肺のあいだをぐるぐると行き来していた。
 巨大な印刷機の立ち並ぶ森が、いつになく彼女の足を阻んだ。前を見て歩くことに長けたソニアは、足もとを気にしない性格だった。その毅然としたつま先が、脅え、恐怖にひるんだのは、カサと耳に囁くようにまとわりついた、紙の海が彼女の足を撫でたときだった。
 とつぜん叫びがいくつも転がり出た。
「日向さん!」
 とソニアは大声で泣き叫んだ。紙のすき間に見えた穏やかな表情が、気絶や失神、あるいは居眠りや、うたたねをしているのだとは、少しも彼女の頭にはよぎらなかった。まったく、忽然と現れるように、ソニアは理解した。膝をついて、紙の雪山をのけて、肩をゆすぶり、仰向けにして、頬を触ると、あたたかい体温が、しかしどうしようもできない早さで消えゆく体温が、彼女の落ち着きを奪って、大きな青い目からは、とめどなく涙が落ちていった。
「みなさん、みなさん、だれか、だれか」
 ソニアは印刷室の外に向かって金切り声を上げた。時間を空けずに走ってくる足音がいくつも聞こえて、ソニアはぎゅっと日向の手を握った。

 裂くに時があり、縫うに時があり、
 黙るに時があり、語るに時があり、

 いくつも落ちる花露の涙が、次々と、跡形もなく文字を滲ませた。
 まだ汗ばんだ温度の残る手を握りながら、ソニアの頭に、日向がずっと気にかけていた男の顔がぽっと灯った。彼はどうするのだろう、どうして彼を置いていったのだろう、なぜだろう、どうしてだろう。
 光に充ち満ちて、彼が地面を踏んだときのことを覚えている。重すぎて、靴を履くことはできなかったはだかの足が、そっと、震えながらリノリウム張りの床の上につま先をのせた日、ふたりの瞳は向かい合って、羽箒のようなまつげがゆっくり上下した。しっかりと握り合った手と手は、そのまま溶けてしまうのではないかと、心配したほどだった。
 ソニアは懸命に日向の手をさすった。きっと熱いほどだったろうと、あのときに握り合っていた手が、そうすることでもとに戻ると信じているようだった。
「ソニア!」
 と雷の落ちるような音を立てて扉が開き、蒼白な顔たちがなだれ込んだ。
 暗い森林で、ソニアの明るい髪は道しるべになって彼らを悲しみへ導いた。美しい頬をぬらしたソニアを見た終里の顔が、その涙の弔う先に向いた。ソニアのとっている手とは反対の手首を取った罪木は、ふと表情をなくして、許しを請うように、額を彼の手の甲に擦りつけた。
 小泉も、左右田も、西園寺も、ひとり残らず皆日向を取り囲んで嗚咽した。何度心臓をつよく押しても、日向の陰は深く黒くなるばかりだった。
 いよいよ日は暮れて、へやの中は白い紙をのこして夜の闇がやってきていた。その、背の高い木々に囲まれたような湿っぽく暗いへやは、すでに墓標であり墓地であった。何人もの人影が、途方に暮れたように、ぬらりと、地面から生えているように立っていた。
 混乱と絶望と悲しみが満ちる中、ソニアは顔を上げて狛枝を探した。
 彼は輪のいちばん外で、ぴしりと立っていた。廊下から差す電灯の光が、彼の輪郭をふしぎにくっきりと、あざやかに照らしあげていた。暗闇の中に透明な瞳がきらりと光った。それはどこか呆然としているようにも、堂々としているようにも見えた。
 ソニアは戸惑ったが、それよりも、どんどんと冷たくなってゆく手の平がさみしくて、どうすることもできなかった。

 みな一つ所に行く。
 皆ちりから出て、皆ちりに帰る。

 狛枝が、混乱する慟哭の垣根から偶然垣間見たのは、瞳を閉じた日向の顔だけだった。それもたった一瞬のできごとだった。