top

第二章


   二 葬式

 葬式は、簡素な神殿のような建物の内部でおこなわれた。日向に遺族はいなかったので、仲間が、いちばんの列に並んで座った。ほかには、ごく親しいものだけが集まった。質素な式だった。
 みんな泣いていた。ある者は声を上げて、下を向いて、ある者は前を見つめて、嗚咽をもらしながら、すすり上げ、涙にむせんでいた。
 その中で、狛枝だけが夢を見ているように、ただぼんやりとしていた。茫茫とした目は、うっとりと、がらんどうを見つめているようだった。
 賛美歌は、唇の端にかすめるだけでだれに届くこともなく、つぶやいたように、海底の水泡のようにはじけてしまった。甘すぎる花のような煙のにおいが、四角い箱を取り囲んでいた。狛枝は、それを覗き込む仲間たちを、ひとりだれよりも外側にたたずんで、ぼうと眺めていた。狛枝の意識の外で、右手が軽く握るような動きをしたが、すぐにわれに帰って、持ち主のためにだらりと垂れた。
 だれかの手が、花を一輪、狛枝にわたした。ふらふらと夢遊の足取りをたぐり、狛枝はその四角い箱に近づき、それを添えた。箱の中には黒々した影が横たわっていた。白い花がぽとりと、狛枝の手から転がり落ちた。狛枝は目をぱちくりさせた。そうして、すぐに、四角い箱のふたは閉ざされて、だれかがどこかに運び去ってしまった。
 追いすがる人々に、漫然と顔を向けて、義務めいたように追いかけて歩き出した狛枝の背後に、くたびれた真っ黒の服と白い百合を持つ少年の像が、ぬかるみから生えるように立ち現れて、後を追った。そんな想像が空っぽの頭に波打った。あの箱を追わなければ、と少年の声が背後に響いた。不穏の像に急かされて、早くなる足音を、毛の長いカーペットがつぎつぎに吸いとっていった。
 狛枝が追いつくのを待つこともなく、箱をのせた車は遠くに走り去った。
 彼と仲間は小さな車に押し込められて、波に打ち棄てられるよりもぞんざいに、整備のされていない路を揺られ、ようやく辿り着いたのは、小さな大理石の城だった。石の壁と床は、奇妙に暗く、足音を洞窟のように響かせて、まるで、たったひとりの旅路を歩いているみたいだった。
 四角い箱がかまどにくべられるとき、狛枝は小さなへやの隅っこにいた。電気をつけてもどこか薄暗いへやは、今し方のように思い出せる、あの、燃え落ちたような印刷室の暗がりによく似ていた。
 胸をしめつける、へんに清潔めいたにおいが、なんともいえず漂っている。よく磨かれた、はき慣れない靴の先を眺めながら立っている狛枝の耳には、凍ったようにただしいんとしている空気だけが聞こえていた。それからへやを出て、からくりのように時間を過ごして、もどったときには、もう、そこにはなにもいなかった。
 全部灰になっていた。からころからころと、笑うような音で、白い骨が、小さく小さくかけらになっていった。
 引き裂かれるような悲鳴が上がり、小泉が泣き崩れた。左右田がすぐにそれを支えた。西園寺は思わず彼女の頭を抱きしめた。小泉の目に、その白いものはとてつもなく大きく、滲んで見えたにちがいなかった。力をなくしてしまって、苦しげに胸をおさえている小泉の、赤い髪が振り乱されて、ついに彼女は叫んだ。
「こんないきなり、どうしてなの。どうして日向なの、いつから決まってたの」
「おねえ、落ち着いてよ、おねえ」
「日向がいないのに、アタシどうしたらいいの」
 子どもみたいにわあわあと、産声のように小泉は泣いた。黒い袖に小泉の頭を抱きかかえた西園寺の鼻と目は真っ赤に染まっていた。
 じわりとシミが広がるように、小泉の叫びに何もかもが決壊してしまった。今まで、こらえていた者も、押しとどめていた不安と絶望をはき出し始めた。白日にさらされた苦悩と悲しみが大波になってその場所に押し寄せた。
 波にもまれるようにこころの境界が消え去ってしまったかのような空間で、ソニアのすがるような、あるいは引きずり込むような手が、隅に佇む狛枝に差し出された。日向の手を最後に握った手の平が、その熱を分け与えようとするかのように、狛枝の手の甲を撫でさすった。
「狛枝さん、狛枝さん。日向さんはいなくなってしまいました」
 と、ソニアはあたたかな涙をこぼして言った。
 けれども、狛枝はなにも答えなかった。その場のなにもかもが聞こえていないようだった。狛枝は、へやの中央にいる骨のかたまりを、安らかに見開いた瞳で見つめながら、それでいて、ほかのことについて思いを巡らせているようだった。細かい傷のある骨は寝静まっていた。
 棒のような足が黒い服の中でまっすぐに、震えることもせず、しっかりとした土台の上にでも立っているように、伸びていた。手の甲に通じるはげしい友愛によってのみ、そのからだは揺れた。
 細い嗚咽が狛枝の肩に押し付けられた。秋の午後の陽が潔白なへやに忍び込み、彼女の髪を祝福するようにきらきらと光らせた。
 能面の白い顔がゆっくりと、肩口のソニアに向いた。
「そう」
と、葉のこすれるような音がソニアの頭に降った。
 ソニアはおどろいて目を見開き、涙の乾かぬまま、顔を上げた。
 そこにはぽっかりとあいた穴のような空漠とした乾いた瞳があるだけだった。しかし、ソニアは息をのんだ。悲しみの跡もない、まして憎しみの色もない、歪んだかたちもない、血の気のない顔は、ひたすらに蝋のようで、玲瓏としてまぶしいまでに美しく、冷ややかな輪郭が額縁になって、空虚なはてしない表情を飾っていた。
「そう」
 ソニアが聞き返すよりも先に、ふたたび、狛枝の口がもう一度きりと開いた。よく見なければわからないくらいの、わずかな唇のすき間から、ひゅうと風が吹くような、ともすれば、聞く者によっては冷酷な響きに、あるいは、ひどく優しい響きに聞こえるほどの声だった。
 ソニアの桃色の唇は、それに何も返すことはできなかった。なにが「そう」なの。なにを知って、なにを受け入れたの。めまぐるしく廻る思考は、彼の、深潭の水のような瞳に溺れて、浮かび上がってくることはなかった。
 それきり、時を移さず、狛枝はソニアから顔をそらして、持っている言葉を出し尽くしてしまったように、口を閉ざした。その顔はまったく元どおりに、はじめからだれとも会話なんて交わしていなかったかのようになり、うつろな焦点を探し続けていた。ソニアは、彼女自身が彼の扉に歓迎されていないことを、そしてだれもを閉め出してしまっていることを知った。
 大理石の建物の外には、その建物以外は何もないといった、短い草の生える地面が更地のように広がっていた。だれかが歩くと白い砂利が几帳面にざりざりと鳴った。礼儀正しく、飛び石の間に敷き詰められた芝や、少し離れたところに聞こえる小さな川の音が、いっそう、その建物とその中にいる人を孤立させているようだった。
 昼過ぎの秋の風は、涼しく、人の胸の内を吹き抜けていった。
「日向は俺の友だちだった」
と、左右田が言った。
 左右田は、新品の革靴の先で、砂利をもてあそび転がしながら、かぶりを振った。
「あれが無茶な手術の結果だと? 認めねえぜオレは」
 油のにおいの染みついた手で、左右田は目元を拭った。「だれが望んだんだよ、その無茶な手術ってやつをよお」
 だれも答えなかった。もとより、左右田はだれかを頼りにたずねたわけではなかった。独り言のようなささやきが、孤独に嘆いていた。それに、その問いとも言えないつぶやきに、こたえられる人はだれもいなかったのだ。生まれ持った、叡智の、たいせつにされるべき頭のなかみは、おそらく、いろいろな神経と神経とをはがされ、つなぎ直され、人類の先頭に立たされたあげく、けっきょく、全部の盾になって朽ちたようなものだった。解剖した医者がそう言ったわけでもなかったが、皆、ある種のあきらめと、当たり前の時が訪れただけだという観念を、持っているようだった。ただ狛枝をのぞいて。
 泣き疲れた人々は、しかしどこか憑きものの落ちたような顔をして、それぞれ、左右田のように言葉に出さずとも、思いを馳せていた。だれもが、差し伸べられたことのある手を、好きだった手の感触を、思い思いに描いていた。みんなの理想の中に、日向の陶器の器のような手の平は、永遠の形のままとどまった。髪を踊らせては冷ましていく秋風が、一緒に涙も連れ去っていった。あの日姿を隠していた風の束が、今になって放たれて、代わりに包み込んでいるようだった。
 しかし、狛枝だけは思いを馳せることはなかった。日向を語ることはなかった。
 狛枝の背に幻影となって立ち現れていた少年の像は、白い骨に出会った瞬間から姿を消していた。狛枝には幽霊も見えないし、いるとも思っていなかった。背中をつよく抱いた温度が、よみがえるためには、たいせつな鍵がうしなわれていた。狛枝の左手が、冷えて軋んだが、そんなときに決まって狛枝のところに来てくれた人は、幽霊にも幻覚にもなることはなく、金属の関節を鳴らして、キイキイと音がその場に響くだけだった。
 山の端に片雲がたちのぼるようにしてある。するどい雁の群れが吸い込まれるように飛び去っていくのが、とうめいな瞳に映った。
やがて、人々が去り、ひとり残されてたたずんだ狛枝を、黒いレースの手が支えみちびくまで、彼は、ずっと、岩に根をはったように、瞳をさらにきらきらと透き通らせて、すらりと立ち尽くしていた。