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第六章


   六 幸福

 裂くに時があり、縫うに時があり、
 黙るに時があり、語るに時があり、
 みな一つ所に行く。
 皆ちりから出て、皆ちりに帰る。

 お花畑のにおいがする、と言ったのは西園寺だった。
 西園寺の髪が、そのときばかり無邪気にはねた。その髪の先を追って、たくさんの光を取り込んだ小泉の目が笑っていた。
そのころ、ソニアは静かに、うなだれて、あふれかえる花の中にうずくまっていた。彼女のかたわらにて、左右田は細い肩を抱いて見守っていた。
ソニアは彼女の淡い指先で、花ばなに許しを請うように、花弁をひとつずつかき分け続けていた。
 仄明るい橙の光が窓のふちにゆらりと縋り付くよりほかのない、燃え尽きてまだあたたかい灰のような色をしたへやは、今や、花という花に覆われて、鉢から引き抜かれたゼラニウム、ポットマム、セロシア、名もない野の花束が、群生する印刷機のあいだを、木々をくぐりぬけるようにして咲きわたっていた。
 その、花ばなは、ちいさな動物がたからものをそっと埋めるように、その花びらにひとりの人間をかくまっていた。
 ていねいに両手の指を組み、白い顔は生涯すべての苦悶を贖われたように、まっさらなまぶたを閉じて、唇はうたたねの息が通り抜けているかのほどに薄く開かれ、小唄でも口ずさんでいたかのように、端にはみずみずしい微笑が遺されていた。蒼白のかけらも失ったばら色の頬は今もなおいっそうかがやいて、その生とは裏腹に、絶えることがなかった。
「どうして、今だったのでしょう」とソニアは呟いた。「二年が経ちました。どうして、今だったのでしょう」
 それが、だれにも問いかけていないことを左右田は知っていたので、何も言わず、ただ彼女の震えもしない肩を支えていた。
 左右田は、傍らに落ちている茶色の小瓶が、彼を今度こそ命の終わりに導いたものだと気づいていた。一滴垂らせば夢の微睡み、二滴垂らせば深き眠り、三滴垂らせば幸福の眠り。バラックの商人の歌が聞こえるようだった。
 まったく空っぽになっていた小瓶は、時間が経つにつれやっと一筋たどりついた橙の光によって、このへやにひとつ足りないとでもいうように、赤いケシの花の代わりになった。
 ふたりの眼からは一粒の涙もこぼれなかった。
 ソニアの、長く伸びた金の髪が、弔いの階段になった。
 花を敷き詰める彼の手はきっと美しく、灰色のへやに金属の左手は至上に光り、そこには、かがやかしい、彼の愛するところの人だけに向けられた、ほんとうの頬笑みが、あったに違いないと、ソニアは思わずにはいられなかった。
 彼女の眼前に、丘の上で海を見下ろす二つのしろい墓石があった。
 風のない秋の日だった。