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第五章


   五 彼の死

 絶望の残り香に巣くっていた冬は、幾人かの死者を出して、やがて、素知らぬ顔をして去っていった。やがてゆっくりと春があらわれ、人びとは穴ぐらからはい出るようにおそるおそるといった調子で、地面の霜が溶けてゆくのを見守っていた。
 白い建物の、北の廊下までがあたたかくなり始めた時、中庭には光がさして、芽吹いたまだやわらかい葉を西の風がすべっていった。
 そうしているうちに、やがてひとりひとり、一つ一つと、心臓にまきついていた喪を、うやうやしく取りはずす季節がやってきた。煤になった金の髪は、草花の背丈が伸びるように、かがやきを絶やさぬまま、小麦の黄金をよみがえらせた。ソニアと狛枝は、あの寒い冬の日に、焼却炉の前で交わした言葉を新たにすることはなかった。人びとは、もっとせわしく、めまぐるしく、はたらいた。それはソニアも左右田も、小泉とて、例外ではなかった。機関は、彼らの罪をそそいだ。
 しかし、その中に自分が含まれているのかどうかさえ、狛枝にはわからなかった。彼には、左手がきいきいとないたとき、それをそっと右の指でさすることしか、できなかったのだ。
 クロノスの万華鏡に閉じこめられたまま、狛枝の空虚に濡れた白いからだは、時に切り刻まれることなく、春の女神と夏の星から隠れて、天の海を漂流するようにくらした。ガラス色をした眼が透きとおって一等星から六等星まで、ぜんぶを、澄みわたったそのくらい眼底の地下室に招待した。
 春が人びとを癒やして、夏が過ぎ、天から降り差す秋の日が、ふたたび、中庭の葉を赤と黄色に染めて、風が北のにおいを連れ出すようになったころ、狛枝は、ふらりと、時の合間に、人々のすき間に、抜け出すことが多くなった。
 もうだれも狛枝の空っぽのこころに気づくものはいなかった。あるいは、すでに時間によって満たされたものだと、だれもがそうであるように、おのおのの胸をなで下ろしていた。あのソニアさえ――めまぐるしい許しの時に翻弄されて、髪の伸びるのにつれ、哀しみはこころの底にやさしく沈殿するだけになった。そして狛枝の透明の瞳をのぞきこむ者は、白い骨の幻影と、立ち現れる少年の像にふたつ光る深い穴のようなまなこだけになった。
 その秋に、狛枝がはじめて訪れたのは、あの、建物の蔭になってわずかな光に焦がれる美しい中庭だった。
 だれに言われたでもなく、しかしどこからか声が聞こえたというように、狛枝の足はつま先を確固たる方向に向けることはせず、どこか探しものをして回る不安げな子どものような調子で、偶然たどりついたとでもいうように、変わらず人の気配のしない中庭へ歩いていった。
 中庭に足を踏み入れると、光の玉を映す木製のベンチ、だれもいない芝の片隅、人の中にあってだれにも見つからぬ庭園、頬をつつむ手のぬくみが、とたんに鼓膜の海を揺らした。かたい革靴に守られた足が、気の早い、まだ湿っている枯れ葉をいくつか踏んだ。
 狛枝はベンチの、隅っこに座った。一人分の間を空けて、その透明な目を閉じて、低い背にもたれ、葉のささやきを聞き、まつげをぴくりとも震わせることなく、たった一瞬の、懐古の眠りに落ちた。熱い幸福の血のたぎりはなく、ただ静かに、そうしていた。
 そのとき風が吹いた。秋の風だった。あの日には吹かなかった風が、たった今吹いて、狛枝の髪とあらゆる皮膚の表面を産毛をさらうようにして、一筋の嵐のごとく中庭をごうと通りすぎていった。
 狛枝の眼が見開かれた。彼は息もとまってしまったように顔をあげた。
 神殿の中で白いかたまりになった、あの空洞の目が、とつぜんに蘇って狛枝を見つめていた。
 狛枝は中庭を去った。だれも、狛枝がいなくなったことに気づくものはいなかった。たがいにまっすぐなこころを取り戻したと信じているものたちの目に、狛枝は映らなくなったのだった。

 彼が、彼の思うところによるすべての記憶をたどるのに、そう時間はかからなかった。
 狛枝ははじめに、毎日寝床に身をあずけるためだけに入るだけの自分のへやに、その影を追った。なにひとつのにおいも、温度もないへやが、彼を出迎えたが、狛枝の指はなにかに触れるように小さく曲げられていた。
 そして日を置かず、彼の足は埠頭へ向かった。それから日向のへやへ、みんなが充足を求めて帰宅したあとの自分の机へ向かった。そこでは、ひとりの狛枝に駆け寄る足音が絶えず聞こえていたはずだった。
 暁の陽に、はいいろの埠頭があまねく染まり、狛枝の顔に、起き抜けのやわらかい黄金の光がその輪郭の曲線をふちどって、そうして幾日も幾日も、機関に通う合間の時間や休日が、いくらも費やされていった。
狛枝の瞳がとうめいでなくなり始めたのは、そのころだった。
仕事場の机周りにふれるたび、引き払われた日向のへやの扉の前を通るたび、中庭に降る光を見上げるたび、ぼんやりとした瞳が徐々に変わっていった。
 からころと音を立ててほほ笑む白いものの、空洞の目が、空虚だった狛枝のこころをぴったりと埋め始めて、代わりに、彼の背後をつねにたどたどしく追っていた少年の像は、思慮深いまたたきをそっと二、三したためて、薄れ始めた。
 それは一年の月日つづいた。春は春の記憶が、夏は夏の追憶が、狛枝の足を暇なく動かした。その季節に別の季節の彼を思い出せるほど、過去の記録に余裕はなかった。歩みて、手を握ったその熱い感触も、頬に触れた唇も、傾いだ頭を預けた広い肩も、すべてが思い出せた。白いものは、完全に狛枝のこころを埋めるばかりか覆いきり、幼くかわいそうな少年はすっかりと、消え失せていた。
 ふたつめの夏が終わるとき、その時にはすでに、狛枝の瞳は長らく失っていた焦点を取り戻していた。
「ひなたくん」
 と、掠れた声音が古びた音をかき集めてつくったことばが、中庭に吹き抜けた風によって上昇気流にのり、赤と黄に変わり始める葉をさざめかしながら空に舞い上がっていくのを、狛枝の瞳ははためく髪のあいまから、さも天上から音楽が降っているというように、焦がれて首を伸ばし、見つめていた。
 その夜、狛枝の足は自然と、北のバラックの山へと向いた。深緑のコートを置いて真っ黒く作業に汚れた外套を盗み出し、みすぼらしい姿にからだを包んで深く顔をしまいこんでくらい路へ消えていった。