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D-Dur

※ファウスト・フィガロの親愛ストの内容を含みます。

 白く透ける蝶の羽根がいっせいにはばたいたように風が吹いた。賢者の夢のひとかけ、星屑糖のたった一角ほどのそれを酒にひたしたフィガロに一番はじめに甘えたのは、そういう、春の微風だった。
 彼らしい、とフィガロはひとり思った。へやに戻る前、魔法使いや人々が眠ったりひっそり目を覚ましていたりする青い夜にふとやってきて、中庭でまどろむフィガロを見つけてとなりに座り、これはなんでもない沈黙なのですというように片手をおずおずと明けはなした賢者はしかしフィガロが彼の夢をこっそり奪い去るのをとがめなかった。そんなに甘くないですよ、と言う賢者はくたびれた人間がするように背を丸めていて、へえ。とフィガロは笑ったのだった。
 どんな悪夢がやってくるのかと、こわごわと浮ついていたフィガロにとってはあんまりに実直なその夢のうつしは、人の生きて死ぬようにだんだんと色づいて、やがて、いくつも鳴る弦が、人の住まない北からは生まれなかった音楽のかたちに熟れて響きわたってきた。
 グラスの中の赤色が二、三度波紋に揺れて水のように澄んで透明になると、フィガロは安楽椅子に座る老人のように机にゆったりと片手で頬杖をついた。
 グラスの中では、夜の露に冷えた森林の木々をまるくスプーンですくったような群落のすき間に真っ赤な炎が燃え上がり、おびただしい数の人影の顔を塗ったように照らしはじめていた。フィガロはそれをさして興味深げにながめたわけでもなかったが、焚き火を囲む彼らを見渡しているうちに、輪のすみっこで、すべてあまねく人々、人間たちと馴染みあって大衆のたわいないひとりとして手を叩いている賢者の姿をまもなく見つけた。それで、今は薬酒に飲みこまれてしまったこれが彼の夢であったことをふたたび思い出した。フィガロはその姿をねんごろに思いながらも、それがおそらく彼の元の世での姿にいちばん似通っているのだろうと思った。フィガロに隠しごとはできないと信じこんでいる彼の、ある種のふかしぎな達観と無知の不親切をことさらに避けようとする毒気のなさというものは、フィガロの見てきた年月にうずもれていった人間のなかでも、そう多くあらわれる種類ではなかった。魔法舎にいる彼をちょっとばかり観察しただけでも、字が書けることや一冊だけとはいえ分厚い賢者の書もすらすらと読みといていることが見て取れた。そんなふうに文字を読む人間は中央の国の官僚以外ではまれだった。かといって、口承とか伝承とか、ともすれば彼の世にはあらぬらしい精霊の存在ですら、彼は愚直に考えているようである。
 そういったかすかな気安さをもって、人の群れにまぎれて安心しきったような顔を浮かべている賢者を見下ろしていたフィガロは、しばらく見澄ましたのちに、彼のまとっている服がふだんの簡素なものではなく重い金属の板であることに気がついた。見れば、周囲に小さなかがり火を灯して獣払いをした人々のよそおいは鎧や長いローブといったものでさまざまに包まれていたが、どれも、どこかに同じ意匠を持ち得て、かれらがただひとつの同胞であるということを告げていた。フィガロはそれらのいでたちを知っていた。数百も前の時代の人々がそういった身なりをしていた。
 フィガロは思わず「あ」と眉をあげて身を乗り出したが、すでに、小さな箱庭の中はありし思い出で取り返しがつかないほどにいっぱいになっていた。
 ひときわ大きく調和の音がかき鳴らされて、とうとうフィガロの思考はさえぎられた。わっと興奮した人々の声があがった。
 ひとりの青年が、いったい人垣のどこにいたのか、突如として、彼らの中心にひときわ大きく燃えている焚き火にむけて一足跳びに舞いこんだ。彼は、焚き火のそばの丸太に腰をおろしてゆるやかに弦を爪弾いていた若者に力強くうなずいてみせた。青年も、中央の愛し子に似た面影の若者も、フィガロの見知った人だった。
 思いがけぬ場面が目の前でくりひろげられると、微少の嘆息がとりこぼされるままに、彼は自分が傍聴者として辛抱強く待たねばならないことをさとった。
 ああ、ファウスト。とフィガロは舌の上だけでつぶやいた。
 青年の足がトト、とふたつ地面を叩いた。それは小川をはずむ子供のはがゆさにも、遠くから鳴り響く開戦の太鼓のようにも思われた。すらと立つ痩身がゆっくりと腰を折り表情が見えなくなる。それが舞踏のうやうやしい振付であるのか、テアトルの踊り子が観衆につつしむお辞儀のそれであるのかは知れなかったが、ほんのわずか、紅潮した沈黙がその場を覆った。
 そして、あれこれと思いを巡らす暇を与えることもなく、対になるひとりの奏者によって流浪の音楽のような躍動がほとばしりはじめると、ファウストのからだはあっというまにはつらつと身じろぎ、燃えるいのちの明朗をためらいもせずに手繰り寄せた。
 初夏にほどける花びらみたいに焚き火から舞い上がる、祝福のような火の粉を映して、無数の光にきらめき冴えかえる葡萄色の瞳が群集の愛を受けながら天上の音楽と踊っている、素朴な草花を知る白色の爪がちいさな生きものをいつくしむような手つきで空(くう)を滑る、舞いにあわせて時折上がる高らかな声はのびやかに、すこしだけ土をつけた頬がみずみずしく笑っている。
 焚き火を囲んで彼のためにあつらえられた舞台に人々の無骨で惜しみない手拍子がさざめいた。無数の指が左や右へ波のように押しよせては引いていくと、その波にさそわれるようにして、あるいは、逃げたわむれるようにして、夏のレイヨウのようなファウストの足が目まぐるしく軸を入れかえ、絶え間なく前に伸ばされたり、残影に爪先を残しながらしなやかに後ろへ去ったりした。
 あでやかな血の気が真綿のようにその場を包みこんでいた。いくつもの弦をてのひらでかき撫でて、舞手のその足にぴったりと寄りそう上等な剣舞の短靴のように澄んだ音を鳴らしていた若者がファウストに目配せをした。ファウストはさも気づかないはずがないというように、かすかに、おだやかに微笑むと、廻り舞うまま自分の帯紐をすばやく引き抜いて、鞭を振るうように空中に振りあげた。
 唇がささやきと歌のかたちにうごいて呪文を口ずさんだ。すると、彼のささめきに呼応した魔法使いたちの声が、それがいちずに心からふとやってきた音であるのだというようにして、どこからともなく上がってきた。
 ばらばらの言葉たちが、木の間をもれる風になびきそよぐ麦の畑のように、ふしぎとひとつの遠鳴りになる。人々は夢みごこちで息をのんだ。時の止まった絵画のように、夜に春の風が吹きわたり、大気の水が結びつきあって、ほんのりとした桃色や紫色の妙なる微光があらわれでると、帯紐を失って花のように広がったファウストの服の裾に、踊りめぐる足取りと同じ調子で戦慄した。
 彼の豊かな髪が耳のあたりで揺れるたび、黄金のほむらの子供がひっきりなしに宙にさかだって弧をまいた。人群のどこかで口笛が吹きたてられて、その音は、紙鳶をあげるように宵の空にヒュイとためらいなくのびていった。
 それはほとんど向こう見ずな崇敬があり、賢者の濃色の目から見るファウストをフィガロは新鮮な思いでながめた。彼には、まさしく、人間から見た魔法使いの美しさがあった。
 しかしそのうち物寂しい情動の旋律が青年にふれて離れていくにつれて、賢者の純心で朴訥とした夢が気まぐれな過去を呼び寄せて混ざり合っていく気配がした。
 その、言いようもないほどに馴染み深くフィガロのそばに寄りそってきた気配に、フィガロは頬杖をついた腕を崩して、子供たちが湖をのぞきこむときのようにからだをかたむけた。そして、グラスのふちにぐるりと行儀良くおさまっている人間の顔をゆっくりと見わたしていった。
 人間たちのたくさんの目はどれも期待と渇きとをはらんで、無邪気な娘のようにファウストの舞を見上げてせわしなく動いている。フィガロはゆっくりとまぶたを閉じて、ひらいた。彼の目はすこしずつ、熱に浮かされる人々の中からいびつなまなざしを見出した。そわそわと浮き立ち、熱病のようにうるんだ目が、知らぬ間にやってくる群青のとばりのように若い魔法使いを覆い隠さんとするまなざしを。思いあぐんだため息にフィガロのくちびるが歪んだ。彼は、この甘い牧歌の宴にすら好意的ではなかった。
 嫉妬を買う。羨みを生む。それから、信奉と、盲信と、傾倒と、追随と……無垢でいてほしいという身勝手な願いがその身を焼く。かわいそうに、まだ若かった。フィガロはつぶやいた。俺は人間たちの熱狂がもたらす悲壮と虚妄のこころとを彼に教えたことはなかったんだった。そんなものは自分の目で見ぬかぎり、誰だって信じないんだから。そんな結末を迎えた魔法使いなんてありふれていた。当たり前のことだと思っていた。
(本当に?)
 フィガロは、知識を分け与えていくときの、奇妙なあこがれのようなこころを覚えている。土をならす魔法も、森をひらく魔法も、傷を癒す魔法も、鋼を強くする魔法も教えた。知っていることを分け与えていくのは気分がよかった。それと同時に、気分が悪かった。ような気がする。魔法使いの心っていうものがあるなら、おそらく、今はまだ脈打っている人間と同じ形をした心臓が、薄くはつられてそのいとけない思慕を唄う口腔にまったく朝食のベーコンみたいにしたためられるようなここちがしたのか。いずれかがやく石になる薄皮一枚にくるまれたからだの表面にできた、かたい樹皮の裂け目のようなすきまから、凍える海に降る雪が冷たい風といっしょに抜け出して白露の実りの色をしたあの子に降りそそぐような思いがしたのか。いずれも不明瞭だったが、それは炎熱のような陰りをもち、すげない高慢の憂いをもたらし、とかく風変わりな性質だった。
 けれども、そのぬくみのあつかいかたをフィガロは知らず、かねて、指先をのばしてさわってよいものかどうかもわからなかった。ようやく、そのおぼろげな輪郭に名があるらしいことを知ったのは、それよりもずっとあとになって彼の友がごく小さな薄氷のような、しかし焼けた鉄のようにしたたかで熱いものを愛したころだった。
 うつむいてグラスを見下ろすフィガロの額からしずかに落ちる髪に、火の粉がこっそり相槌をうつようにふれた。彼はそれをふりはらい緩慢に首をふった。グラスの中で、ウサギの目の色の玉箒がふいに揺らいで、ぬれた砂のようによじれた。溶けた氷がパチパチと薪を火に焚べるような音を立てて崩れていった。まるで氷塊の落ちるみたいだった。
(こんな夢、俺にはもう見ることはできないよ)
 フィガロはなにかを言いかけたが、いつの間にか乾いていたのどからは音のないことばが転覆してかすれ落ちただけだった。優しさに過去が追いついて、小さい窓ガラスを通したようにくすんだ蝋燭の火がフィガロののどに居ついていた。フィガロはグラスのふちをつよくたどった。高い音が悲鳴のようにふるえた。ごまかすように氷ごと酒を飲み干しながら、フィガロは椅子にもたれかかった。
 ――俺が見ることができたのは、きっと、目が焼け落ちて、爪が割れて、喉が裂かれて、炭になった、あの子だけだよ。……
 いっぱいに開け放されている窓のすみから、彼をなぐさめてカーテンのかわりになろうとでもしているように、大きな月が垂れ下がっていた。フィガロは白く青ざめているそれを見上げた。魔法使いが一人で忘憂にふけるのを好み、冷笑的で、孤高で、雄弁で、疑い深く、愛の夢を見る、そうあるべき彼らの性質とともに大いなる厄災の表層に咲く広大な月の荒野をあおぎ見るように、あの子もそうしていればいいと思った。
 いやだね、歳をとると感傷的で。フィガロは小さく笑ってへやのすみの暗がりに語りかけるように言った。ずっと昔に海辺を去ったようにフィガロは彼のもとから遠ざかった、波を銀色に裂いた道の先に彼もいるのだと思った、あの道の先に見えない墓標があるのだと思った。壮麗な国の産声を聞きながら、手をとろうともせずに彼を墓標の向こうに追いやった。そのとほうもない過去への道が小舟のわだちのようにフィガロの背からか細く伸びていた。
 彼はもうグラスの中になにも見ることはなかった。ただ、隊列を組み大波のように進み来る軍隊の前に躍り出てあらたな国の色に染めた旗を振るハシバミ色と月白色の若者の背だけが、まなこの奥に遠く去っていった。