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亡国と宿根草

 湖がやってくる。山々に囲まれた巨大な盆に水を張り、万年みがきつづけた鏡面のような湖があたり一面に凍って、岸辺を霜に変えながら足元にやってくる。
 フィガロは、白い薄紗のような雲がうっとりとたれおちる空を見上げた。雪の下の道をそらんじながら、その小さな若い人は歩いた。そのうちに、だんだんと頬が紅潮してくると、吐く息が色硝子を砕いたように的皪として道すじに置き去りにされていき、なれた足どりの雪靴が雪の波間をかきわけてぎゅっぎゅっと小さな音を立てながら湖の岸へと向かっていく。湖の底で、春のみなぞこにうっかり落とした木彫りの人形や、初夏のみなもに散らした花びらのかすかな反り返りが、今はぶ厚い岩盤のような氷と雪とに圧しつめられて、ふたたび見られぬ春を待って永遠に眠っている。
 ひどく吹雪いた夜の次の朝だった。薄青色の雪がぬれた砂糖みたいに氷柱の針葉樹たちを覆い、ほのかにかがやく飴色の夜明けが遠くの木のてっぺんを照らしていた。どこもかしこもしいんとしていて、冬鳥でさえも遅い夢の中だった。湖のほとりの小舟渡しの小屋と細い木組みの桟橋だけが、老いた男のようにじっとうずくまってあたりを見守っていた。
 フィガロは桟橋のそばにたどりつくと、あたりを見回し、だれもいないのを知ると、ひとり梯子をのぼって船渡しの小屋の横にぺたりと座り、膝をかかえた。彼は毛皮の帽子の耳当てを頬に押し当て、凝然とした冷たい明け方の寂寞をむねいっぱいにすいこんだ。彼は、村の人々が重いため息をつく長い冬の明け暮れがきらいなわけではなかった。薪を継ぎ足すせわしない朝も、労働にフィガロの手を貸したすける昼も、みなで淡い酒にからだをあたためて暖炉をかこむ夜も、なかなかどうして、こころよいもののように思われた。それに、彼らのため息が、フィガロを兄や弟のように慕う無邪気な子供らの、熱せられた小石のような命を守ろうとする荒れた手のひらをほぐすものだと彼は知っていた。それも、そんなにきらいじゃなかった。フィガロを育てた人たちの手に似ていたから。
 村の人々のため息を真似て、フィガロははあっと大きな息をはいた。山のあいだから日がすっかりのぼると氷の湖面が陽光を受けて真珠色に光った。あたりはだんだんと明るさがましてきて、遠い尾根に目をこらせば張り出した雪がひさしのように斜面にかげをおとしているのが見えた。髪の先に凍みていた銀色の霜が綿毛のような息に溶けてはまた凍る切なげなくり返しをやめて、にわかにやわらかく灰味をおびた青むらさきのまつ毛が何度かまばたきをした。
 フィガロはしばらくそうしていたが、冬鳥の鳴き声があちらこちらから目覚めて聞こえてくると、立ち上がってひざをたたき、きたときと同じように梯子をおりた。フィガロはもう一度湖を見わたした。きのうあんなに雪が降ったから、今日はもうつもることはないだろう、と彼は思った。そうしたら、子供たちを連れて湖にやってこよう。フィガロが雪をのけてやれば、彼らは紺碧の水の上をきっと楽しんで滑るだろう。
 そうフィガロが考えていると、とつぜん、森閑の空を犬の吠え声がたたいた。はっとして、フィガロはふりむいた。雪に埋まりながら、見覚えのあるたくさんの犬が駆けてきた。「アーニャ、ウーリ」フィガロは犬の名前を呼んだ。すぐに彼の足もとはころげまわる白と灰色の犬でいっぱいになった。村でかわいがっている狩人たちの犬だった。つづいてすぐに、狩り支度をした大人と、からだの丈夫な子供たちがやってくるのが見えた。彼らはまるく筒にした手を口にあてて、おうい、とフィガロを呼んだ。
 みなで薪割りをしよう。おいで、おいでよフィガロ。森が人の声を受けいれて抱擁し、やさしいこだまをひびかせた。
「はあい」
 とフィガロは声を張り上げ、手をふって答えた。
 フィガロが犬とともに彼らのもとに駆け寄ると、その手をいちばん年少の男の子がつかんだ。彼はとくにフィガロを慕っていたから、フィガロをさがして森に踏み入るのは、さだめし初陣のような気持ちだったにちがいなかった。フィガロは彼のあたまをためらいがちに撫でた。すると握る手にいっそう力がこもった。
 行きの一本道を人々のつよい足並みが踏みしだき、足跡が幾重におりかさなって、湖へとつづく太い道を背後につくった。
 おまえの母さまは籠を編んでいる。それなら、おまえは薪をおろしてくれ。と子供たちを引き連れてきた大人は言った。強弓を背負いはがねの矢を矢筒にぎっしりと詰めた大人は、荒い皮の手袋をした手で、やはり若いフィガロのこともみちびき歩いて、フィガロの肩を親身にさすった。
 犬とたわむれて村へ走り去る子供たちの背をながめながら、フィガロは「うん」とうなずいて微笑んだ。大人は満足し、湖の小屋のようにしずかにフィガロのとなりに歩き、小さくつぶやいた。
 美しい夏のはじまりをおぼえているか、フィガロ。祝福された夏のはじめに、おまえの生まれた日に、きっとまたごちそうの食べられるように、今年もまた身を寄せて長い冬を越えよう。この厳しい冬を。
 フィガロには、それがふしぎに彼だけの声ではないようにきこえた。若い男、舌足らずの子、老いた女、きょうだいがわりの子供たち――それから母――すべての声が、月明かりに青白く光るとうめいな氷層のようにまたたいてフィガロにささやきかけるようだった。沈黙して歩きつづける狩人の口をかりて発せらる願いを、この日フィガロははじめて耳にして、そのまま、こころのそこに刻みつけて行き場を永遠になくしてしまった。



 フィガロが目を開けると金色の太陽が照っていて、窓硝子にふりそそいでひどくまぶしかったので、彼はいそいでふたたびまぶたを閉じようとしたが、からだにのった綿の膝掛けの感触に気がついて、ようやく、眠ろうとする意志を追放した。あくびをして、ソファから起き上がると、金色の太陽とは似ても似つかぬ黒装束の男がフィガロをみとめてくちびるをゆがめて言った。
「談話室で寝るな。だらしのない」
「ファウスト」
 フィガロはつぶやいて、まわりに誰もいないのを見ると綿の膝掛けをつまみあげた。「もしかして、心配してくれた?」
「違う。にやつくな」と、ファウストは座っていた椅子を蹴るようにして立ち上がった。「僕はほうっておいたが、シノとヒースがそばにいた。しかたがなかった。教育に悪いからな」
「そう? うれしいね。彼らに感謝しなくちゃいけないな」
「東の子どもたちに下世話な感謝をするのはやめろ」
 ファウストは腕を組んでフィガロから顔をそむけると談話室を苛立たしげに行ったり来たりした。
 フィガロは冗談のひとつもいってファウストの機嫌をとろうとこころみたが、それよりも、人通りの多い場所に姿を見せることをきらっているファウストが律儀にフィガロの目覚めるまで談話室にいたことのほうが、彼の気にかかった。フィガロはゆっくりからだを起こし座り直すと、きき耳をたてるようにファウストの横顔を見ていたが、フィガロが口をひらくより前に、たえかねたらしいファウストが肺から息を絞り出すような苦い声で言った。
「ミチルに見張りを頼まれた」
「ミチル?」
 フィガロが聞き返すと、しまったという顔をして、ファウストはそれっきり口をつぐんでしまった。それで、フィガロは「ああ」と身を乗り出して声を上げた。
「へえ、ミチル。ミチルがきみに俺の見張りを頼んだって?」
「うるさい、近寄るな。向こうへ行け。ネロがやたら苦笑いしていた理由が今わかった」と、ファウストはフィガロを押しのけ、ソファを指差して念入りに区切るように言った。「おとなしくそこへ座っていろ。いいか、静かにだ。口を開くな」
「はいはい。じゃあ俺はおとなしくファウストに見張られていようかな。南の優しいお医者さん先生は一日中お仕事に熱心だから、なんにも気づかないんだ。そういった感じでいこう」
「黙っていろ」
 フィガロはソファに腰をおろし、肘かけにもたれて長い足を組んだ。ファウストはずっと黙って立っていた。午後の陽にまどろんでいるような無言の時間がすこしずつ過ぎた。
「ねえファウスト、今夜、俺といっしょに仕事をする気はない?」と、しばらくしてフィガロは小声でたずねた。「オズも連れていって――シャイロックが酒場をあけてくれるだろうから」
「は? なんで。百歩譲ってオズとはいいが、おまえとはいやだ」
「ひどいなあ。今日は俺の誕生日なのに?」
 ファウストは北風みたいに冷たく長いため息をついて、やっとのことで口を開いた。
「条件を――」
「条件つけてもいいから」
「…………」
「ごめん、かぶった。気が合うね」
「……ひとつは、僕に話しかけずにおまえがひとりで喋ること。ふたつは、飲みすぎないこと。これはルチルとミチルのためだ。みっつは、おまえの奢りであること」
「ちょっと、多くない? それに、ブラッドリーみたいなことを言ったな」
「不満ならさっさと部屋に帰って寝ろ」
「いいや、不満じゃないよ。ありがとうファウスト」
「……まったく、卑怯者め」
 そう言っているうちに、談話室の扉が勢いよくひらいた。扉の威勢とは裏腹に、はにかんだような足どりでミチルが顔をのぞかせて、室内をきょろきょろ見回した。
「フィガロ先生、いますか」
「やあ、どうしたのミチル」と、フィガロは嬉しげに顔を上げた。「なにかあった?」
 ミチルはファウストに会釈をしてへやの真ん中まで歩いてくると、フィガロの前に立ってすこしの間ああ、とか、うう、とかとつおいつして思案をかさねていたが、決心したように指を組んで背すじを伸ばした。
「あの、僕、その……昨日の宿題でフィガロ先生にききたいことがあって。それで、あの、呼びにきたんですけど」
 フィガロはミチルを見上げた。いたずらっぽい表情が彼の目をそばめ、まぶしげに首を傾けて悪気なく言った。「もしかして、優秀なミチルを手こずらせるような問題を出しちゃったかな。それはごめんね。でも、めずらしいね」
「……フィガロ先生、もしかしてわかって言ってます?」
「なにを?」
「もう! とにかくいっしょに来てください!」
 ミチルは顔を赤くして眉をつりあげて言い、フィガロからはなれて扉のほうへ大股に歩いていった。扉のそばにたどりついた彼は足を止めて見向き、手のひらを振るようにかかげると、もう一度「フィガロ先生」と声を上げた。
 そのとき、ファウストはフィガロが小さく息をのんだのに気がついた。それはまったく気のせいかもしれなかったし、ファウストのでたらめな思い違いかもしれなかった。けれども、その、趣の乏しい、おそろしく澄んだまなざし、なにかを書きとめているかのような瞳の奥に、彼はずっと昔に北の国の初夏はどんなものだろうかと考えたことを思い出した。が、そう思ったのは一瞬で、ファウストがひとつ呼吸を終えるころには、やはり、フィガロはすぐに相好を崩していつものように笑っていた。そして、「はあい、今行くよ」と、ふしぎにひびく声で答えてフィガロは立ち上がり、扉のそばでそわそわとしているミチルのもとへ歩いていった。
 ミチルの幼い手がフィガロの手をしっかりとつかんだ。つながれていない方のフィガロの手が、扉をくぐり去るまぎわにファウストに挨拶のように振られた。それを見て、彼らの身のあたたかさにどれほどの差があろう、とファウストはほんのすこし逡巡して小さく息を吐いた。遠くに、二人を呼ぶルチルのよく通る声が聞こえてくる。
 彼らと入れ替わりにやってきたレノックスが、ファウストをひと目見て、労しげに彼をのぞきこんだ。
「なんだか、どっと疲れた気分だ」
「さっきミチルが、お礼を言っていました。またあとでルチルと一緒にファウスト様のお部屋を訪ねたいそうです」
「いらないよ、そんなの。……ああ、いや。今日は鍵を開けておこう。どうせ今日は意味がないんだ」
 と、ファウストはいくらかあざけり気味に宙をながめて言った。それから目を閉じて、考えに沈んだ。何度目かの沈黙が降りて、窓の外はいまだ明るく、あかりのついていない談話室はほんのりとした午睡の陽気でみたされていた。
 レノックスはファウストのとなりに立ち、壁にもたれると、徐々に思い出してきたといったように、ゆっくりと話しはじめた。
「懐かしいです。昔、一度だけフィガロ様の誕生日をファウスト様とアレク様と祝いました。ファウスト様がフィガロ様の生年をこっそり読んで、アレク様が品を見繕って」
 すると、ファウストは目を開いて手振りをし、静かに言った。
「一度だけな。気の迷いだよ。品はとうに朽ちただろう。それに、仮面みたいな胡散臭い笑顔をして、喜んでいたのかどうかもわからない」
「たしかに、フィガロ様は戸惑っているように見えました。でも多分、あのときも喜んでいたと思いますよ。ただ、ファウスト様たちはサプライズが上手でしたから」
「……どうだか。ほんとうに性格の悪い男だからな。でも、まあ……」と、ファウストはミチルに手をひかれてすこし丸くなっていた背を思い出して首を振った。「さっきのは、そんなに悪くなかった。そう思うよ」
 レノックスは微笑して、自由の気配に片時思いを巡らした。今日はどこもかしこもにぎやかな日だった。