23

 何度も尻込みするロンをどうにか説得して、ソフィアたちは禁じられた森の中を歩いていた。ファングは、木の根や落ち葉をクンクン嗅ぎながら、三人の周りを敏捷に走り回ってついてきた。クモの群れがざわざわと小道を移動する足取りを、ソフィアとハリーの杖の灯りを頼りに追った。
 約二十分ほど歩いただろうか、やがて、木々が一層深々と茂り、空の星さえ見えなくなり、闇の帳に光を放つのはソフィアとハリーの杖だけになった。その時、クモの群れが小道から逸れるのが見えた。杖灯りの小さな輪の外は一寸先も見えない暗闇だった。一瞬、ためらいはしたものの、三人はクモの素早い影を追いかけて、森の茂みの中に入り込んだ。ファングの熱い息が、ソフィアやハリーの手にかかって、思わずびっくりした。
 三人は何度か立ち止まって屈み込み、杖灯りに照らされたクモの群れを確認しなければならなかった。しばらくすると、相変わらずうっそうとした茂みだったが、地面が下り坂になっているのに気付いた。随分奥深くまで来たはずだ。その時、突然カシャッカシャッと大きな音が背後からしたかと思うと、振り返る間もなく、何か長くて毛むくじゃらなものが、ソフィアとハリーの体を鷲づかみにして持ち上げた。身動きの取れない顔面が土気色のロンの目が、二人の背後に釘付けになっていた。ソフィアは逆さまに宙吊りになった。もがきながらも、また別のカシャッカシャッという音を聞いた。今度はロンの足が宙に浮いて、ファングがけたたましく泣き喚いているのが聞こえた。
 ――次の瞬間、ソフィアたちは暗い木立の中にサーッと運び込まれた。

 どのくらいの間、怪物に挟まれていたのだろうか、真っ暗闇が突然薄明るくなり、地面を覆う木の葉の上に、クモがうじゃうじゃいるのが見えた。逆さ吊りが長時間続いたおかげで、頭に血が上ってソフィアは気分が悪かった。最初は氷雪を出して脱出する、という考えも過ったが変に刺激して折角の手がかりを失くすのは惜しい。首を捻って見ると、木を切り払った窪地の中を月明かりが照らし出し、ソフィアがこれまでに目にしたことがない、世にも恐ろしい光景が飛び込んできた。

 蜘蛛だ。

 木の葉の上にうじゃうじゃしている細かいクモとはモノが違う。馬車馬のような八つ目の、八本脚の、黒々とした、毛むくじゃらの、巨大な蜘蛛が数匹。ソフィアたちを運んできたその巨大蜘蛛の見本のようなのが、窪地のど真ん中にある靄のようなドーム型の蜘蛛の巣に向かって、急な傾斜を滑り降りた。
 仲間の巨大蜘蛛が、獲物を見て興奮し、鋏をガチャつかせながら、その周りに集結した。巨大蜘蛛が鋏を放し、ソフィア、ハリー、ロン、ファングは地面に落ちた。ファングはもう鳴くことさえできず、黙ってその場にすくみ上っていた。気を失っていないことが奇跡みたいなロンは、ソフィアたちの気持ちをそっくり顔で表現していた。声にならない悲鳴を上げ、口が大きく叫び声の形にぱっくり開き、目は飛び出していた。

 「アラゴグ!アラゴグ!」

 ソフィアたちを捕まえていた蜘蛛が何か話している。一言しゃべるたびに鋏をガチャガチャいわせるので、聞き取りづらかったが、確かにそう聞こえた。靄のような蜘蛛の巣のドームの真ん中から、小型の象ほどもある蜘蛛がゆらりと現れた。胴体と脚を覆う黒い毛に白いものが混じり、鋏のついた醜い頭に、八つの白濁した目があった。ソフィアは一瞬にして、蜘蛛が盲であることを悟った。

 「何の用だ?」

 鋏を激しく鳴らしながら、盲目の蜘蛛が言った。

 「人間です」

 ハリーを捕まえていた巨大蜘蛛が答えた。

 「ハグリッドか?」
 「僕たち、ハグリッドの友達です」

 果敢にハリーが叫んだ。カシャッカシャッカシャッ――窪地の中の巨大蜘蛛の鋏が一斉に鳴った。

 「ハグリッドは一度もこの窪地に人を寄こしたことはない。」

 ゆっくりとアラゴグが言った。ぜいぜい、と息を切らしながらハリーは喋り続けた。

 「ハグリッドが大変なんです。それで、僕たちが来たんです」
 「大変?しかし、なぜお前を寄こした?」

 年老いた巨大蜘蛛の鋏の音が気遣わしげに変わったのを、ソフィアは聞き取ったように思った。

 「が…学校のみんなは、ハグリッドがけしかけて――か、怪――何物かに、学生を襲わせたと思っているんです。ハグリッドを…逮捕して、アズカバンに送りました」

 アラゴグは怒り狂って鋏を鳴らした。蜘蛛の群れがそれに従い、窪地中に音がこだました。アラゴグが苛立ちながら言った。

 「しかし、それは昔の話だ。何年も何年も前のことだ。よく覚えている。それでハグリッドは退学させられた。みんながわしのことを、いわゆる『秘密の部屋』に住む怪物だと信じ込んだ。ハグリッドが『部屋』を開けて、わしを自由にしたのだと考えた」
 「…それでは、あなたが『秘密の部屋』から出てきたのではないのですか?」

 またもやアラゴグが怒りで鋏を打ち鳴らし、ソフィアとハリーはどっと冷や汗が流れた。

 「わしはこの城で生まれたのではない。遠いところからやってきた。まだ卵だった時に、旅人がわしをハグリッドに与えた。ハグリッドはまだ少年だったが、わしの面倒を見てくれた───親友だ」

 ソフィアは自分の憶測に確信が持ててきた。

 「女の子を殺した罪を着せられた時、ハグリッドはわしを護ってくれた。それ以来、わしはこの森に住み続けた。ハグリッドは今でも時々訪ねてきてくれる。妻も探してきてくれた。見ろ。わしらの家族はこんなに大きくなった。みんなハグリッドのおかげだ……」

 ハリーはありったけの勇気を振り絞って聞いた。

 「それじゃ、一度も――誰も襲ったことはないのですか?」

 年老いた蜘蛛はしわがれ声で断言した。

 「一度もない。襲うのはわしの本能だ。しかし、ハグリッドの名誉のために、わしは決して人間を傷つけはしなかった。殺された女の子の死体は、トイレで発見された。わしは自分の育った物置の中以外、城の他の場所はどこも見たことがない。わしらの仲間は、暗くて静かなところを好む……」
 「それなら……いったい何が女の子を殺したのか知りませんか?何者であれ、そいつは今戻ってきて、またみんなを襲って――」

 カシャッカシャという大きな音と、何本もの長い脚が怒りで擦り合う、ザワザワという音が湧き起り、ハリーの言葉が途中でかき消された。大きな黒いものがハリーとソフィアを囲んでガサゴソと動いた。

 「城に住むその物は、わしら蜘蛛の仲間が何よりも恐れる、太古の生物だ。その怪物が、城の中を動き回っている気配を感じた時、わしを外に出してくれと、ハグリッドにどんなに必死に頼んだか、よく覚えている」
 「いったいその生物は?」

 ハリーは急き込んで尋ねた。更に大きなカシャカシャとザワザワが湧いた。
蜘蛛がまた詰め寄ってきたようで、ソフィアはハリーの腕にしがみついた。アラゴグの怒声が飛んだ。

 「わしらはその生物の話をしない!わしらはその名前さえ口にしない!ハグリッドに何度も聞かれたが、わしはその恐ろしい生物の名前を、決してハグリッドに教えはしなかった」

 ハリーはそれ以上追及しなかった。巨大蜘蛛が、四方八方から詰め寄ってきている。アラゴグも話すのに疲れた様子だった。
 
 「それじゃ、僕たちは帰ります」
 「帰る?それはなるまい……」

 木の葉をガサゴソいわせる音を背後に聞きながら、アラゴグがゆっくりと言った。

 「わしの命令で、娘や息子たちはハグリッドを傷つけはしない。しかし、わしらの真っただ中に進んでノコノコ迷い込んできた新鮮な肉を、おあずけにはできまい。――さらば、ハグリッドの友人よ」

 ソフィアとハリーは体を回転させて上を見た。ほんの数十センチ上にそびえ立つ蜘蛛の壁が、鋏をガチャつかせ、醜い黒い頭にたくさんの目をギラつかせている――多勢に無勢だ。無駄な抵抗かもしれないとわかっていても、ソフィアが氷柱を出そうとしたその時、高らかな長い音とともに、窪地に眩い光が射し込んだ。
あれはウィーズリーおじさんの車――フォード・アングリア。
 車が、荒々しく斜面を走り降りてくる。ヘッドライトを輝かせ、クラクションを高々と鳴らし、蜘蛛をなぎ倒し、何匹かは仰向けに引っくり返され、何本もの長い脚を空に泳がせていた。車はソフィアたちの前でキキーッと停まり、ドアがパッと開いた。

 「ファングを!」

 ハリーは、前の座席に飛び込みながら叫んだ。ソフィアがすぐさまファングの銅のあたりを抱きかかえて、後部座席に乗り込んだ。その時、ロンが悲鳴を上げて、運転席から巨大蜘蛛の一匹に引きずり出されそうになっていた。

 「ステューピファイ!(麻痺せよ)」

 赤い閃光が炸裂し、ロンを襲っていた蜘蛛が吹き飛ばされた。ハリーが「今だ!」と叫んだのとほぼ同時に、車はロンの助けも借りず、エンジンを唸らせ、またまた蜘蛛を引き倒しながら発進した。車は坂を猛スピードで駆け上がり、窪地を抜け出し、間もなく森の中へと突っ込んだ。車は勝手に走った。太い木の枝が窓を叩きはしたが、車はどうやら自分の知っている道らしく、巧みに空間の広く空いているところを通った――完全に野生化している。ハリーは隣のロンを見た。まだ口は開きっぱなしで、声にならない叫びの形のままだったが、目はもう飛び出してはいなかった。

 「大丈夫かい?」

 ロンはまっすぐ前を見つめたまま、口がきけない。後ろの座席で大声でファングが吼えている。ハリーは少しだけソフィアを振り返った。

 「ソフィア、素晴らしい呪文だった」

 しかし、ソフィアも口がきけなかった。無我夢中だったのだ。ガタガタと騒々しい凸凹の十分間が過ぎた頃、木立がややまばらになり、茂みの間から再び空を垣間見ることができた。車が急停車し、ハリーとロンはフロントガラスにぶつかりそうになった。森の入口にたどり着いたのだ。
 
 「クモの跡をつけろだって」

 車を降りた途端、森に入る前以来、ロンが初めて口をきいた。彼がかぼちゃ畑でゲーゲー吐く間、ソフィアはファングを自由にしてやり、ファングは尻尾を巻いたまま小屋を目指してダッシュした。ソフィアとハリーは感謝をこめて車を撫で、車はまた森の中へとバックして、やがて姿が見えなくなった。

 「ハグリッドを、許さないぞ……僕たち、生きてるのが、ほんと、不思議だよ」

 ロンは袖で口を拭きながら、弱々しく言った。

 「…きっと、アラゴグなら自分の友達を…傷つけないと、思ったんだよ」

 ソフィアも久しぶりに口を開いたような気がした。喉がカラカラだった。

 「だからハグリッドってダメなんだ!怪物はどうしたって怪物なのに、みんなが、怪物を悪者にしてしまったんだと考えてる。そのつけがどうなったか!アズカバンの独房だ!」

 ロンは今になって、震えが再発し、自分ではもう収拾がつかなくなっていた。まるで電気が流れているように、ロンの腕を支えたソフィアまでも同じく震動するほどだった。

 「僕たちをあんなところに追いやって、いったい何の意味があった?何がわかった?教えてもらいたいよ!」
 「ハグリッドが『秘密の部屋』を開けたんじゃないってことだ」

 ハリーはマントをロンにかけてやり、ソフィアと反対側の腕を取って、歩くように促した。ソフィアは自分の憶測が、真実であったことに心の底から安心した。

 「ハグリッドは無実だった」

 力強くハリーは宣言した。ロンはふん、と大きく鼻を鳴らした。アラゴグを物置の中で孵すなんて、どこが「無実」なもんか、と言いたげだった。

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