36
『捨てないよ』
もしも山本武や大切な友人や他の誰かが君を捨てたとしても、僕だけは――。そう心に固く誓ったのは、いつのことだったのだろう。
唐突に目蓋の奥に感じた眩しさに、雲雀は反射的にぱちりと目を開けた。目の前に広がる白い天井、重く気だるさを感じさせる体、そして段々はっきりしてくる意識。靄がかかったような頭は咄嗟に状況を判断することが出来ず、今現在自分がどこにいるのかすらわからない。ただ、柔らかいシーツの感触からベッドの上に寝転んでいることは推測出来た。
起き上がろうとすれば、途端に鈍器で後頭部を殴られたようなズキリとした痛みが脳を襲う。思わず奥歯を噛み締めて再び枕に頭を伏せると、思い出したように全身に鋭い痛みが走った。顔も、腕も、腹も、足も、骨が折れたみたいに痛くて力が入れられない。呼吸をする度に胸が締め付けられる。ひゅっと空気を取り込もうとすれば、乾いた唇が切れてやけにじんじんした。
…一体、ここはどこなのか。自分が置かれている状況だけは把握しておきたい、と視線だけであたりを探ると、妙な既視感が雲雀を襲う。白い天井も白いカーテンもベッドも机も椅子も、棚に整理整頓された医療道具も見たことがあるものばかり。並盛中の保健室に置かれているものばかりなのだ。
小さく聞こえる鼻歌に眉を顰めると、保健医の椅子に座っている白衣姿の男が上機嫌で何やらペンを走らせている。彼は雲雀に背中を向けているが、後ろ姿を見ただけでわかる。この男は雲雀に桜クラ病をかけ、そして獄寺に治療薬を手渡したであろう張本人だ。確かイタリアからやってきたシャマルとか…あまり興味が湧かなかった為に情報が曖昧だが、花見の一件以来、ただの保健医ではないことは確かだと雲雀は確信していた。
突然校内の保健室で目覚めたという驚きと混乱とで、雲雀は瞬きを繰り返すことしか出来ない。何故自分がここにいるのか。確か自分は並盛で起きた襲撃事件の犯人を咬み殺しに、黒曜センターへ向かったのではなかったか。未だ回復しきれていない思考の中で思い出してみると、ついさっきのことが次々と頭に浮かんでくる。襲撃犯である黒曜生を全て倒したことまでは覚えているけれど…。それから――それから。
「蛍…?」
やや掠れ気味の声でポツリと呟くと、雲雀の声は静かな空気を少しだけ震わせた後に溶け込んだ。
最後に見た蛍は涙を零しながら自分に助けを求めていたというのに、何も出来なかった。彼女を救えるのは自分しかいないというのに――肝心な時に何の力になれなかったことが悔しくて堪らない。
リボーンは彼女が気絶する前にちゃんと意識を取り戻したと言っていたが、本当にそうなのだろうか。また骸に精神を破壊されていないか、それだけが心配だった。
今にも心が崩壊してしまいそうなほど危うい精神状態になっていた蛍は、話しかけることすら一瞬躊躇わせた。魂が抜けたような姿は、骸が言っていた通り、彼女の心に雲雀の存在など少しもなかったに違いない。いつも雲雀の傍にいた少女の困ったような笑顔は、どこにも見られなかった。
それでも微かな希望に縋りたくて彼女の温もりを確かめたのは、きっと。蛍の体温を思い出すようにぎゅっと手を握った雲雀の上に、低い男の声が落ちる。
「お、やっと起きたか」
その声に反応してちらりと上に視線を向ければ、顎に生えた無精髭を摩ったシャマルが雲雀を覗き込んでいた。意識があることや脈が正常なこと、血圧が普通であることを勝手に計っていくシャマルは、雲雀の不快そうな表情に目もくれず包帯が巻かれた箇所を捲って傷の具合も確かめていく。本来なら即時に咬み殺してやるところだが、怪我が思った以上に酷いらしく体が動かない。
最後に桜クラ病の治療薬によって起きる副作用が見られないことを確認したシャマルは、気だるそうにカーテンの向こうへと声を放った。
「終わったぞ〜。こいつ起きたんだから俺の役目も終わりだろ!早くビアンキちゃんの所に行かせてくれよー!こんな坊主診てるより美女を診察する方が数倍楽しいんだっつーの」
「ビアンキなら、ボンゴレの医療班の所へ行ったぞ」
「なんてこった…!出遅れた!ビアンキちゃーん、そんなヤブ医者より俺の方が腕いいんだぜー!?」
リボーンの言葉に即座に反応したシャマルは、引き止める暇も与えないほどの驚異的な瞬発力で保健室から飛び出した。天性の女好きである彼にとって、ビアンキを治療する為ならその素晴らしい身体能力を発揮するのは造作もないことらしい。
走り出して行くシャマルを半眼で見送り、呆れてため息をついていた雲雀は、カーテンの隙間からひょっこりと顔を出した人物を見つけて「やあ、赤ん坊」と口元を吊り上げた。
「ちゃおっス。傷の具合はもういいみたいだな。シャマルに言わせると、あと一週間もすれば普通に歩けるみたいだぞ」
「…一週間?三日で充分だよ」
雲雀の言葉に「お前らしいな」とニッと笑みを浮かべたリボーンは、ベッドの横に備えつけられていた椅子によじ登ってから、雲雀が眠っていた間のことを詳しく話し出した。
骸との戦闘後倒れた雲雀は一ヶ月近く昏睡状態だったこと、そして骸は雲雀に倒された後再び蘇ったが、ツナの活躍により敗れ去り、『復讐者』と呼ばれるマフィア界の掟の番人に連れて行かれたということ。そして並盛に平穏が訪れたということ。並盛生を次々に襲った犯人達の狙いはボンゴレファミリーの十代目ボスであるツナを誘き寄せる為で、六道骸を筆頭に、それぞれ特殊な能力を持っているらしい。中でも六道骸の右目には六つの能力が携わっているらしく、その能力の一つにより蛍の精神は破壊されかけていたとリボーンは語った。
なるほど――自分でも驚くほど素直にリボーンの言葉を受け入れた雲雀は、そっと目蓋を閉じて断片的に残る記憶を思い返していた。
まだ桜クラ病にかかっていると信じ込ませて隙をついたとはいえ、相当の強さを秘めた六道骸が手傷を負った雲雀の攻撃を受けて気絶したままのはずがない。数秒意識を飛ばしていたのか、それとも全てが彼の演技だったのかはわからないが、再び意識を取り戻しても何ら不思議ではなかった。だから話のつじつまは合っている。
…けれど少し釈然としないのは、自分を差し置いてあの沢田綱吉が六道骸を倒したということだ。普段は草食動物の代表みたいに弱いくせに、突然驚異的な強さを発揮する。それがリボーンによる小細工だとはわかっているが、なかなか彼を負かすことが出来ないのは雲雀の癪に障った。自分より強い存在などこの世に存在しないはずなのに。
それでも六道骸の思い通りになるよりは随分マシだ。彼の目的であるツナがどうなろうと関係ないが、それにより並盛を好き勝手に荒らすことや、便乗して蛍を奪うことなど絶対に許さない。
やっぱり、蛍は六道骸の能力で――…?
心が壊れかけていた蛍の姿を思い出した雲雀は、瞬時に閉じていた目を見開いた。
「そういえば、蛍は?」
まだ彼女の無事を確かめていなかった、と雲雀がリボーンを凝視する。僅かな焦りを含んだ彼の視線を静かに受け止めたリボーンは「安心しろ」と呟いて、そっと隣りのカーテンを横にずらした。白いカーテンの隙間から奥の様子が垣間見える。奥にあるベッドの中で、ひとりの少女が安らかな寝息を立てていた。片方の腕には細いチューブが繋がれていて、昏睡状態でも生命維持が出来るように点滴が打たれている。
透明な袋の中にポツポツと水滴が落ちているのをじっと見つめていた雲雀は、自分の腕からも彼女と同じようなチューブが繋がれていることに気付き、半ば投げやりにそれを引き抜いた。ピリッとした軽い痛みが走る。
「あれから蛍もずっと眠ってるが、傷はそれほど酷くなかったから全部治ってる。ただ、目覚めた時どうなるかはわかんねーぞ。シャマルが言うには精神的に相当ヤバかったらしい。そっちの方が治ってるか心配だってな」
「…そう」
「傍についててやれ。いつ起きてもいいようにな」
帽子の鍔を握って深く被り直したリボーンは、椅子からぴょんと飛び降りて保健室を後にする。扉が閉まる音を聞いた雲雀は深いため息をついた。まだ体が動かせない状態なのに、傍についてるも何もない。もちろん傍を離れるつもりはないけれど、随分簡単に言ってくれると思う。ここ最近怪我したことなど全くなかったから余計に痛みを感じるというのに。
痛みを訴える体を無視して上半身を起こした雲雀は、そっと床に足をつけた。痛いには痛いが、歩けないわけではない。被せられていた布団を剥ぎ取ると、ゆっくりベッドから立ち上がって足を進める。ひたひたと素足を床につけると、窓際に置かれた自分の制服が目に入る。血やらホコリやらで汚れていたのを洗濯してくれたらしい。ふと自分の胸元に視線を落とせば簡素な服が着せられていた。そしてその隣には蛍のセーラー服が綺麗にたたまれて置かれている。眠っている蛍も同じような服を着ているから、保健室にある予備の服か何かなのだろうとぼんやりと思った。
そっと蛍のベッドに近付いてみても、彼女が起きる様子は少しも見られない。じっと蛍に視線を落とした雲雀はふいに彼女の口元に指を運んだ。緩やかに空気の交換が行われているのを肌で感じる。…生きている。いくらか血色が戻った蛍の頬に指先を滑らせば、じんわりと温かい温度が彼女の生を実感させた。
呼吸する度に動く胸元を見ていた雲雀は、もし蛍が起きたらどうなるだろうかと考えていた。まだ精神的に不安定で彼女が錯乱したらどうしようか、喚いて雲雀のことすらわからなかったらどうしようか、不安が付き纏う。…また、以前のように自分に笑いかけてくれるのだろうか。拒絶されたりしないだろうか。
だって、言ってみれば蛍をこの件に関わらせたのは他でもない自分だ、と雲雀は思っている。無理矢理蛍を風紀に入らせたのも、襲撃犯について調べさせたのも自分で、蛍が自分から行動したわけではない。もしかしたら骸に関わることもなく平和に過ごせていたはずの彼女の未来が変わったのは、雲雀に出会ってしまったからだ。もし蛍が雲雀や風紀に関わらなければ、今こんな状態で眠っているはずがない。泣いたり笑ったり怒ったり驚いたり…そんな平凡な日常を過ごせていたのだ。
後悔しているのか、と蛍を見つめながら思う。
ずっと一緒に、ずっと傍にいればいいと思ってた。自分といるせいで蛍に災厄が及ぶのなら、自分がそれを取り払えばいいと思っていた。
けれど、その力がなかったら?自分が弱いせいで蛍が危険に陥っても、そんなことが言えるのか?もし戦いに彼女が巻き込まれても救えなかったら?
自分のせいで蛍が傷つくぐらいなら、いっそのこと――…。
もう迷わない。茜色の夕日に照らされた蛍の顔を見つめていた雲雀は、彼女の頬に滑らせていた指をそっと離す。
そして静かに瞳を閉じて拳を強く握った。ある決意を、胸に抱いて。
***
「………さん……」
掠れる自分の声を耳にした蛍は、突然パチリと目を開けた。喉がカラカラに渇いてどうしようもない。
本能的に水を求めて視線を泳がせた彼女は、目に飛び込んできた白い天井に思わず体を震わせた。また、あの忌まわしい惨劇が繰り広げられていた実験室に来たのではないか。まだ悪夢に捕らわれているのではないか。起き抜けで思考回路がまともに働かない状態では、今ひとつ現実が飲み込めない。
あの悪夢を引き起こしたのは骸だということは薄々感付いていた。彼の特異な瞳と、フゥ太にマインドコントロールをかけた力。彼には特別な能力が備わっているに違いない。
体の震えを押さえ込もうとぎゅっと手を握り締めた蛍は、骸の気配がないことを確認してほっと息をついた。もし彼がこの場にいたら、真っ先に目に飛び込んでくるのは間違いない。なのに気配もなければ姿も現さないということは、どこかへ出かけたのだろうか。さっきまでいた瓦礫だらけの部屋とは随分違うが、眠っている間に移動されたのか。もしかするとツナ達の所へ行ったのかもしれないと思った蛍はとっさに体を起き上がらせた。
「っ…!こうしてる場合じゃ…!」
その瞬間、後ろからそっと肩を押されてベッドから出ようとするのを押し留められる。
「まだ寝てなよ」
もう聞き慣れてしまった低い声は、蛍が逆らうことすら許さないような強さを秘めている。
いきなり触れられたことにビクリと反応した蛍は恐る恐る後ろに振り向き――思わず一瞬息をすることを忘れた。サラサラで黒い髪を風に遊ばせ、黒い学ランを肩に羽織って、風紀の腕章をしているその人物の姿は、蛍が助けを求めていたその人だったからだ。
「ひば、り、せんぱい」
――声が出ない。言いたいことはたくさんあるのに、名前を呼ぶことが精一杯でただ彼を見つめることしか出来ない。どうしてここにいるのかとか、怪我はしていないのかとか、骸はどうしたのかとか、聞くべきことは山ほどあるというのに、胸にこみ上げてくる熱いものが邪魔して上手くしゃべれない。
本当は言いたいことがたくさんあるのだ。雲雀がいなくなった後の並盛のこととか、草壁が襲撃されたこととか、勝手に一人で黒曜センターへ乗り込んでしまったこととか、骸に捕まってしまったこととか…たくさんあるのに。
しばらく呆然と雲雀を見ていた蛍は、彼の手足に巻かれている包帯を見つけて堰が切れたように話し出した。
「雲雀先輩、無事だったんですね。よかった…!でも、ここは…」
「学校の保健室。君が寝てる間に全部終わったんだよ」
「…保健室?」
雲雀にそう言われて周りを見渡してみれば、数々の治療器具やベッドが目に入る。言われてみれば並盛中の保健室にそっくりだ。さっきは混乱状態で何も把握出来なかったが、こうやって落ち着いて見ると、懐かしい光景に肩の力が抜けた。
蛍がほっと息をつくのを確認したのか、雲雀は大まかに蛍が眠っていた時のことを話してくれた。
「そうですか、ツッくんが…。…獄寺くんも山本くんもビアンキさんも、フゥ太くんも、酷い怪我なんですか?」
「一ヶ月も経てばとっくに治ってるよ。赤ん坊は全員元気だって言ってたけど」
「よかった…」
蛍はほっとため息をついた。
骸に捕らわれている時、ツナ達が向かって来ているというのを聞いてあれほど肝が冷えたことはない。次々と並盛生が彼らに襲われている中で、もう親しい人が傷ついているのを見たくなかった。蛍を逃がす為に己を犠牲にした草壁のことを考えると、ツナ達が骸と戦うにはあまりに戦力が絶望的だと思ったからだ。骸の傍にいるからこそわかる強さや威圧感に怯えさえもした。
その予想に反してツナ達が骸達を倒したのは喜ばしいことだけど、無傷でいられるはずがない。きっと誰かしら深手を負っているはずだ。
大丈夫だ、と強く手を握り締める。誰も死んでいない。誰もいなくなってない。
――でも、痛みがないわけじゃない。握り締めた手に視線を落とした蛍は、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でそっと呟いた。
「でも雲雀先輩は…大丈夫なんですか?」
「…何が?」
「だってその傷、痛くないですか?あれから一ヶ月も経ってるのに治ってないってことは、相当重傷だったってことで」
「別に、もう痛くないし」
「…それなら安心しました」
蛍は困ったように眉尻を下げて苦笑した。雲雀は何があっても絶対に弱音を吐かない人だとは知っていたけれど、包帯を巻いてる状態で痛みがないなんてことはない。きっと今も鈍痛が響いているだろうが、彼は少しも表情に出さずに我慢しているから、相変わらずだなぁと苦笑するより他にないのだ。
そんな当たり前の光景が嬉しいし、雲雀が思ったより元気でよかったとも思う。雲雀が骸に負けたと知った時のことを思えば、彼の傷が癒えていくのは喜ばしいことなのだ。