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その様子をクフフフフと笑いながら眺めていた骸は、再び右目を揺らして数字を変える。もはや手傷を負った彼に構っている時間はない。お遊びはここまでだ。

「時間の無駄です。手っ取り早く済ませましょう」

そう言った骸を見ようと顔を上げた雲雀だったが、その瞳に映ったのは骸ではなかった。

桜――!!

思わず目を見張った雲雀の頭上には、満開の桜が美しさを競い合うように咲き誇っている。天井を隅から隅まで覆い尽くしてしまうかのように桜が敷き詰められている光景は圧巻だ。淡い桃色の花びらがひらひらと宙を舞い、幻想的な雰囲気を醸し出す。まるで桜クラ病をかけられたあの時のように――…。
足から力が抜けそうになった雲雀は、ふらつく体がこれほど忌々しいと感じたことはないと思った。

「さ…桜!?まさか、ヒバリさんの桜クラ病を利用して…!」
「クフフ。さあ、また跪いて貰いましょう」

冗談じゃない。誰がそんな醜態晒すもんかと思った雲雀だが、そう言おうと開きかけた口は声を出す前に固まってしまった。気持ち悪い。目の前がぐるぐる回転して、耐え難い吐き気や不快感が胸を突く。ひゅっと吸った空気は吐き出すことも出来ずにそのまま飲み込んだ。目を細めて笑う骸の姿が歪む。ひらひらと舞い落ちる桜の花びらが歪む。視界が、歪む。
血を流しすぎたせいか、と遠くなり始めた意識の中で思う。ここに乗り込んできた当初、骸に一方的に殴られ蹴られ、随分と多くの血を流してしまった。それに折られた腕や足の骨も悲鳴を上げている。もう雲雀の体は限界だった。
それでもどうにか体を動かしているのはたった一つの強い思い。『目の前の敵を倒したい』――それだけが雲雀の原動力となり、意識をここに繋ぎ留めているのだ。六道骸を咬み殺したい。そして、蛍をこの手に取り戻したい。雲雀の願いは何よりも強い。だからここで倒れるわけにはいかないのだ。

「ヒバリさん!!」

ツナの呼び声が耳に届いた瞬間、雲雀はバッと目を見開いた。
倒れかけた体をどうにか踏み止まらせて即座に骸の懐まで一足飛びに飛び込むと、その勢いを殺さないまま思いっきりトンファーを彼の鳩尾に叩きつける。骨が折れるような鈍い音が、雲雀の耳にも骸の耳にも、はっきりと届いた。

「――おや?」

鋭い痛みが骸の腹部を襲う。トンファーがめり込んでいる腹部からズキズキと全身に激痛が走り、口元からは鉄の味がする液体が一筋流れ落ちていく。ぱたり、と胸元に数滴落ちたそれを見下ろせば、そこには真っ赤な血痕が鮮やかに咲いていた。自分の血だ。
この激痛と血から考えれば、おそらく雲雀の攻撃によって何本か肋骨が折れたのだろう。
相手は怪我人だと油断しすぎたか――…。骸はどこか他人事のように自らの怪我を分析していた。
心底驚いている表情をしているツナはともかく、満足そうに口元に笑みを浮かべているリボーンを見れば、これは彼のシナリオ通りの展開なのだろう。雲雀が一瞬の隙をついて骸を倒す。…なるほど、ツナが骸を倒すよりよほど合理的で確実性のある作戦だ。

しかし、何故急に雲雀恭弥は桜を克服出来たのか?直前まで桜を見たら急激に衰弱していたというのに、今はそれを微塵も感じさせないほどの強烈な攻撃を放っている。足元がふらついていたのは桜のせいではなく、大量の血を流しすぎたせいだったのだ。
その骸の疑問を振り払うかのように、怪我の痛みでやむなく地面に腰を下ろしていた獄寺が、にっと笑って『内用薬』と書かれた小さな紙袋を取り出した。

「へへ…甘かったな。シャマルからこいつを預かってきたのさ。――桜クラ病の処方箋だ」
「それじゃあ!」

もう桜に惑わされることはない。視線を鋭くした雲雀は、攻撃に転じようと手首を返した骸に気付いて薙ぎ払われた槍を即座に弾き返す。そして反撃を許さないかのようにすぐさま左右からトンファーを骸に向かって打ち上げた。
ガッという骨を打ち砕くような鈍い音と共に、殴りつけられた威力で骸の体が宙に浮き上がる。内臓を損傷したのか、大量の血を吐いた骸は緩やかな弧を描いて地面に叩き落とされ、気を失ってついに武器を手放した。
すると天井に咲き誇っていたはずの大量の桜が姿を消していく。それだけではなく、空中にまっていたはずの花びらでさえ段々姿が霞んできたと思えば、やがて完全に空気中に溶けて消え去っていった。桜は実物の物ではなくて、骸の特殊能力によって生み出された幻影だったのだ。
深く息を吐いた雲雀は、明瞭になっていく意識を取り戻してスッと背筋を伸ばした。これでようやく全部が終わったのだ。妙な私怨で並盛を戦いの渦中に引きずり込んだ犯人達は、雲雀の手によって全員倒された。これで終わった。これで並盛中へ帰れる。

「おいしいとこ全部持っていきやがって」と獄寺が舌打ちをしたものの、彼とてやっと戦いが終結して嬉しいに違いない。難しい顔をしているにも関わらず、わずかに笑みが浮かんでいる。
全てを見守っていたツナも、じんわりと胸に広がっていく温かいものに嬉しさを感じ取っていた。

「ついにやったな」
「お、終わったんだ…。これで家に帰れるんだ…!」

リボーンの言葉を聞いて実感が湧いてきたツナは、取り戻した平穏を噛み締めるかのように肩の力を抜いた。
これで家に帰れる。元の日常が戻ってくるのだ。多少の危険に満ちてはいるものの、皆が笑顔でいられるような平和な生活を再び味わうことが出来る。それは今のツナにとって最高の幸せだった。

「しかしお前、見事に骸戦で役に立たなかったな」
「ほっとけよ!!」

その喜びを味わっているツナに水を差すようにリボーンがボソリと呟く。感動がぶち壊しだ。

――言い争っているツナとリボーンを尻目に、雲雀は重たい足を引き摺りながら前に進んでいた。まっすぐ見据えている瞳には蛍が映し出されている。足を動かす度に激痛が走る。体が重い。本音を言えば、今すぐ意識を失ってしまいたい。
それを拒んでいるのは蛍の存在がそこにあるからだ。骸に捕らわれていた蛍を再び取り戻そうと勝手に体が動いている。
痛みを無視して一歩一歩ゆっくりと足を進めていた雲雀は、ようやく意識を飛ばしている蛍が座っているソファーの元へと辿り着き、膝を折って蛍の顔を覗き込んだ。相変わらず何も捉えていない虚空の瞳は闇に捕らわれていて、すぐ目の前に雲雀が来ても気付く様子さえ見られない。
けれど、やっと会えた。こうして蛍を見つめられる。彼女の存在を目で、耳で、肌で感じられる。
血に濡れた指でそっと蛍の頬に触れた雲雀は、そのまま包み込むように右手を滑らせた。温かい肌が彼に安堵をもたらす。白く柔らかな肌も、雲雀の手の平ですっかり包み込める頬も、そこにかかる艶のある黒髪も、何も変わっていない。緩やかな弧を描いている眉も、色素の薄い瞳も、影を作るほど長いまつ毛も、すっと通った鼻筋も、触れたら柔らかそうな薄く色付いた唇も、何もかも。わずかに息を零した雲雀はそのまま屈み込んで、こつん、と自分と蛍の額を擦り合わせた。
変わってしまったのは意識だけだ。息がかかるほど近くで見つめているのに彼女はちっとも自分を見てくれなくて、視線が絡まることはない。…こんなに近くにいるのに。こんなに君を見つめて、触れているのに。
呆然としている蛍を間近で見つめていた雲雀は、涙に濡れた蛍の瞳に映っている己を見た。

「…蛍」

やや掠れた声で、しかしはっきりと雲雀は蛍の名を呼んだ。

「蛍、僕だよ。一緒に帰ろう。――迎えに来たよ」

たとえ蛍に声が届いていなくても、蛍が雲雀を認識していなくても、これだけは彼女に伝えたかった。僕と一緒に帰ろう――…と。
蛍が骸に接近したのは雲雀の読み間違いのせいで、ここに蛍が乗り込んできてしまったのも雲雀が骸に負けたからで、助けるのが遅れて彼女の精神がここまで衰弱してしまったのは雲雀が弱かったからだ。離れなければよかった。今更後悔してももう遅いが、彼女を守りたいのならば、離れるべきではなかったのだ。
倒すべき敵は全部倒した。あと雲雀に出来ることは、正気を失っている蛍を深い闇から救い上げること。闇に堕ちている彼女を助けられるのは自分しかいない。…だから名前を呼んだのだ。

迎えに来たよ――と呟いた雲雀はふと顔を離し、わずかに目を凝らして蛍を見た。ほんの少しだけれど目蓋が動いたのだ。今まで瞬き一つしなかった彼女が反応を返した。
それだけではない。ゆっくりと目蓋を伏せては持ち上げた蛍は、幾度か瞬きを繰り返した後、焦点が定まっていない視線を雲雀へと向けた。呆然とした瞳で雲雀を映す。ゆっくりと顎を上げた蛍は、空気を取り込む為だけに薄く開かれた唇を、自らの意思でもって動かした。

「……り、…せんぱい…」

酷く掠れた声は、すぐに消えそうなくらい儚い。
それでも蛍は必死に声を、雲雀の名を、紡ごうとしていた。

「ひば…り、せんぱい…」

震える声で雲雀の名を呼んだ蛍は、ゆっくりと持ち上げた指で、振り払えばすぐに離れてしまいそうなほど弱々しく頼りなく雲雀の服を掴んだ。
涙に濡れた頬が動く。蛍の瞳がしっかりと雲雀を映し出し、彼の存在を認識する。――蛍の意識が戻った瞬間だった。

「…僕は、あいつじゃない。君を傷つけたりしない。だから…」

拒まないでと呟いた雲雀を、荒い呼吸を繰り返している蛍は肩を震わせながら見上げた。

「骸さんじゃ…ない…?」
「うん」
「私を、迎えに…」

確かめるように雲雀の言葉を繰り返した蛍は、瞬きを何回もして雲雀を見る。まるで彼が何者か見極めるかのように。自分の敵か味方か、判断するように。
呆然と雲雀を見つめていた蛍は、わずかに瞠目して言葉を失った後、苦しげに顔を歪めて彼自身を見た。

「雲雀先輩…助けて」

次の瞬間ふっと蛍の意識がなくなり、重心を失った体がぐらりと倒れ込む。
蛍を抱き止めた雲雀は、いつのまにか彼女の後ろに回っていたリボーンを「どういうつもり?」と睨みつけた。蛍の心が闇に取り込まれてしまう前に助けなければならないのに、いきなり彼女を気絶させてはどうにもならない。一刻も早く蛍を救わなければならないのに、もしこのまま骸の術に捕らわれてしまったらどうするつもりなのだ、と。
けれど銃で蛍の首に打撃を与えたリボーンは、そんな雲雀の鋭い視線に動じることなく、ただ淡々と呟いた。

「どうもこうも、このまま放っとけば間違いなく蛍の心が壊れてたぞ。気絶させんのが一番いいんだ」
「だからって…」
「安心しろ。ちゃんと意識は取り戻してる。最後の最後にしっかりお前を見てたからな」

苛立たしげに眉を寄せていた雲雀とは対象的に、リボーンはニッと笑みを浮かべる。
それを見た雲雀は急に心が晴れたような感覚に襲われた。まるで肩から重い荷物がすとん、と落ちたような。自分の声はちゃんと蛍に届いていたのだ。蛍にあんな苦しい表情しかさせられなかったことは悔しいけれど、それでもいい。蛍が自分をちゃんと認識してくれるのならば。
腕の中で気を失っている蛍を見た雲雀は、彼女の安らかな表情にほっと安堵のため息を漏らす。そしてそのまま襲いかかってくる睡魔に身を任せ、ぐらりと傾く体を床に預けた。

「ヒバリさん!!」

慌ててツナが駆け寄ると、雲雀と蛍は固く目を閉じて気を失っていた。重症か軽症かの違いはあれども二人とも体中傷だらけなのが痛々しい。
蛍はともかく、雲雀がこんな無防備な表情を見せるのは本当に稀なことで、いかに彼の体力が限界だったのかを思い知る。きっと立つこともままならなかったはずなのに、骸と戦い、そして勝つなんて、普通の人間には出来ない芸当だ。

「こいつ、途中から無意識で戦ってたぞ。余程一度負けたのが悔しかったんだな」
「すげー…」

気を失いながら、それでも蛍の手を強く握っている雲雀の姿を見て、ツナはほっとため息をついた。
雲雀が勝ち負けに固執する性格だと知ってはいるが、今回の場合はそれだけではないのだろう。蛍がいたからより強くなれたのかもしれない。守るべき人がいるなら尚更負けられない。常日頃の彼が何を考えているかツナにはさっぱりだったが、今の彼の気持ちなら少しはわかる。ツナにも守りたい人達がいるし、彼らの存在が自分を強くしてくれるのだ。
彼が蛍を助けることが出来て本当によかった――…。

――はっと我に返ると、マインドコントロールされていたフゥ太や彼に刺されたビアンキ、そして千種と犬の二人と戦ってきた獄寺が目に入る。三人とも今すぐ手当てが必要なことは一目瞭然だ。
青褪めたツナは慌ててリボーンに振り返った。

「早く皆を病院に連れて行かなきゃ!」

ぐるりと周囲を見回してどこが一番出口に近いのか、と冷や汗をかいているツナに、リボーンはやれやれとため息をついた。

「それなら心配いらねーぞ。ボンゴレの優秀な医療チームがこっちに向かってる」

知らぬ間にすっかり手を打っていたらしい完璧主義の彼は、ニッと笑みを浮かべた。自分が心配するまでもなかったのか、とツナが肩の力を抜くと、どうにか自力で立ち上がっていた獄寺がふらつく足取りで「よかったっスね」と笑顔で足を進めてくる。
無理をすると怪我に響くかもしれないと危惧したツナは心配そうに獄寺を嗜めたが、歩けるぐらいには体力が戻っていたようで、時間をかけつつもツナとリボーンの元へ辿り着いた。
その時だ。

「その医療チームは不要ですよ」

静かな声音が部屋に響き渡るのを耳にしたツナは、ぞくりと背筋が凍った。聞き覚えのある声だ。まさかとも思ったが、可能性がないわけではない。彼は一時的に気絶していただけであって、再び意識を取り戻しても何も不思議ではないのだから。
そろりと獄寺に向けていた視線を後ろに向ければ、雲雀に倒されたはずの骸が起き上がってこちらへ銃口を向けていた。口元から流れる血を拭うこともなく、ただ微笑んで。

「…何故なら生存者はいなくなるからです」

カチリ、と引き鉄にかけている指に力が入る。

「テメェ…!」
「ご、獄寺君!」

相手を射るような鋭い視線で骸を睨みつけた獄寺は、ツナを撃たせまいとして銃口から彼を庇うように前に進み出る。思わずツナが制止しようとして声を上げたが、その光景を見ていた骸が笑みを零しただけに終わる。口元に極上の笑みを浮かべていた骸は、雲雀と共に倒れている蛍に視線を向けた。
本当はこんな形になるとは思っていなかった。全て自分の思い通りに事が運ぶと信じ、予想外の出来事に気を取られた挙句、一度は勝利した相手に気絶させられるという辛酸を舐めてしまった。自らの油断が招いた結果だ。
けれどこれで終わらせる気は毛頭ない。マフィアへの復讐も、蛍も、諦めたわけではないのだ。計画を阻むであろう最大の敵の雲雀も意識を失っている。もう一度やり直すチャンスは、ある。
この手段だけは最後の最後までとっておくつもりだったのだが…再び蛍を手中に納める為には仕方がない。雲雀の手によって骸の呪術が解かれてしまった蛍をもう一度闇に落とすには、この手に彼女を得るには、これしかない。

そしてボンゴレ十代目の体を手に入れる為には――…。

クフフフ、と笑った骸は、銃口を一旦ツナ達から逸らし――自分の頭へと押し当てた。

「!?」

思わずぎょっとして目を見開くツナ達に、骸の口元が弧を描く。
ふ、と視線を和らげた骸は少しの躊躇いもなく引き鉄にかけていた指に力を入れた。

「Arrivederci」

――また会いましょう。僕の目的を果たすその時までには。

若きマフィアのボスに、その部下に、最強のヒットマンに、そして最後にかけがえのない大切な少女に目を向けた骸は、乾いた銃声と共に床に倒れ込む。
自殺だと見せかけて撃ったその銃弾が特殊弾であること、そしてそれが憑依弾と呼ばれる禁弾であることを、ツナ達はまだ知らない。骸の目的も、思惑も、野望も、何もかも。紅い瞳を手に入れたその時からマフィアに必ず復讐すると誓った彼の思いなど、ほんの一握りの人間しか知らない。
固く閉じられた蛍の瞳から、一滴の涙が頬をつたって零れ落ちた。

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