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「…………違う」

かなり長い時間をかけて、絞り出した塔矢の返事がこれだ。じゃあ君の顔が赤いのも、この「違う」を言うまでにかけた3分間も、自分は深読みしなくていいんだね。素直にこの言葉を受け取っていいんだね。

「…そっか、変なこと聞いてゴメン」
「いや……」

にこっと笑えば、塔矢は居心地悪そうにそっぽを向いた。さっきまでの気迫はどこへ消えてしまったのか、塔矢は小さく縮こまっている。このなんともいえない空気。

「……プロ試験の本選始まったけど」
「!」

塔矢は露骨に反応した。

「ヒカル、六連勝中だって」
「ろっ…六連勝!!?」
「今のところ6勝してるのはヒカルを含めて4人だけ。好成績だよね?」
「進藤が…6連勝……あの進藤が?」
「そう、あのヒカルが。一歩一歩、近づいて来てるんだよ」

巴の話を聞いてるのか聞いていないのか、塔矢はじっとうつむくばかり。

「………見送りありがとう。ここまででいいよ」
「え、でもまだ全然」
「ううん、いいの。それより私、これからも塔矢名人の研究会行ってもいいかな?」
「それは、勿論…」
「ありがとう。じゃ、またね」
「あ…」

悩んでばかりの塔矢に背を向けて、さっさと退散。さぁ帰って碁の勉強と――――韓国語の勉強しないと。

▽▲▽

「なぁーまだ?」
「……えっと、ハイ。もう振り向いてもいいよ」
「おー、やっとか」

くるりと振り返った途端、ヒカルはぱっと眼を見開く。テーブルに並べられているのは、いつもの数倍豪勢な料理と、「祝☆プロ入り」のプレートがついたケーキ。そしてクラッカーをかまえる巴。

「おわっちょ、まっ」

ヒカルがぱぱっと腕で顔を覆ったところで、クラッカーの紐をぎゅっと引く。
パーン!突然の大きな音に佐為はびくっと飛び上がった。

『何か飛び出ましたよ!!ヒカル、大丈夫??』
「これはただのオモチャ。それよりヒカル、合格おめでとう」
「ごほっ。おう、サンキューな」

クラッカーの紙紐をくっつけながらヒカルは笑った。彼はきのう越智という塔矢の鬼指導を受けた子に勝って、プロの資格を手に入れたばかり。春からは巴たちと同じ立場だ。

「つーかクラッカーってこんな臭いすんの?クッセー」
「そうね。ちょっと換気するから待ってて」
「あ、オレも手伝う」

二人で窓をガラガラ開けて、またテーブルまで戻ってきて座り込む。その時にばちっと眼が合って――――二人とも一緒に笑みを零した。ヒカルが合格できたのは素直に嬉しいし、久しぶりに会えたことも嬉しい。そのせいか、巴は無性に張り切って晩御飯を作ってしまった。デザートのケーキまで。

「スゲーうまそう!食っていい?」

眼を輝かせるヒカル。その後ろでは佐為が『ほー』ともの珍しげに食卓を見下ろしている。

「その前に乾杯ね。シャンメリー買ってあるから」
「クリスマスじゃねーんだから…つかそれ酒入ってるやつじゃねーの!?」
「それはシャンパン。こっちは微炭酸のジュース。はい、グラス」
「お、おう。あれ?3つ?」
「ヒカルと、私と、佐為の分」
《私の分ですか?》
「そう。飲めないだろうけど、乾杯くらい一緒にしようよ。お祝いなんだから」
《そうですね、折角ですし。お心遣いありがとうございます》

「じゃあ、ヒカル、音頭とって」
「音頭ぉ?」
「乾杯の言葉よ。早く」
「そんなこと言われても…何て言えばいいんだよ」
「じゃあもういい、私が言う。はい、進藤ヒカル君の合格を祝って…、乾杯」
《かんぱーい》
「あ、か、カンパイ!」

ワンテンポ遅れてヒカルがグラスを合わせる。カツン、軽快な音。響く笑い声。

さすがに作りすぎたのか、ヒカルは途中で「もーむり!」と完食を諦め、ぱたっとソファで横になった。あー多分このまま寝るんだろうな、と見守っていたら、10分後、案の定ヒカルは夢の中へ。もう遅いしこのまま泊まらせた方がいいかもしれない。後で進藤家に電話しなくては。


『あー!ヒカルったらまたお腹出して寝てっ!』
「家でもこんななの?」
『こんなんです』


いつものように寝ころぶヒカルに毛布をかけて、私は絨毯の上に座り込む。虎次郎と佐為もそんな私の近くへ座りこむ。


「試験中どうだった?」
『打つごとに強くなっていきましたよ、ヒカルは・・・勝っても負けても、どちらの碁もヒカルの糧となっていきました。琉もうかうかしてられませんね』
「佐為が言うんなら、そうなんだろうね。今日は打たなかったけど、次からは気合い入れてかかんなきゃ」
『・・・・・・・・・・』


ほんの一瞬、佐為の顔がふっと陰る。これを見るのは今晩だけで3回目だ。


『佐為、何かあったのか?』


私以上に付き合いの長い虎次郎が、みかねて佐為に問いかけた。佐為ははっとした様子だった。


『え?いえ、なんにも』
『何か悩みでもあるのではないか?おぬし、自分が思っておる以上に顔に出ておるぞ』
『え・・・・・』


困惑したように佐為がコチラを見た。その通り、と私はうんうん頷く。


「もしかしてヒカルの前じゃ言いにくいこと?良かったら話してよ。聞くくらいできるし、ね?」
『琉・・・・・・・』


その形の良い眉をすっと下げて、佐為は視線をうろうろさせる。少し困らせてしまったかな。でも私は聞きたい・・・佐為が今何を考えて、何に悩んでいるのか。聞きたい。佐為のことを知りたい。


『思うんです。ふっとした時に』


佐為が静かに話し始めた。


『ヒカルはどんどん成長している。春からは様々な棋士がヒカルを待ち受けることになる。彼等はヒカルを待っているけれど、私は・・・・私は、誰からも待たれていない』
「佐為・・・」
『これまでは、それでもいいと思っていました。ヒカルが私にあまり打たせてくれなくても、ヒカルの死後にまたどこぞの碁盤へ宿って、次を待てばいいと・・・・でも、考えたら、そんな保障はどこにも無い』
『・・・・・・・・・』
「・・・・・・・・・」
『私は虎次郎といる時、こうしてヒカルに会えるなんて知りませんから、とても焦ってしまって。虎次郎にはちっとも打たせずに、私が私がと前へ出てばかりで。ヒカルにはそのようなこと、したくない。けれど・・・・私も打ちたい』


佐為が絞り出すような声で、言った。


『あの者と、打ちたい』

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