※現代








 人生のうちで、上手く行かない時期というのがきっと誰しもあるのだろう。わたしにとってきっとそれが、今、なんだろう。


(めんどくせー女、だよな。それは自分でもわかる。)

 ほとんど人のいない京王線、目の前の窓に映るわたしの顔はお世辞にも美人とは言えなかった。だからフラれたのかなぁ、なんて。(こういうところが面倒くさい女、なんだろうなぁ。)

 簡潔に言うと、わたしは仕事がとにかくうまくいっていなかった。それはもう、猛烈に。出す企画出す企画全て却下、出す書類出す書類すべて不備。コピーをすれば刷りすぎ、メールを送れば宛先を間違え、お茶を入れれば薄いか濃いかのどちらか。毎日残業、終電間近まで居残り、結果大事な日に寝坊で遅刻。
 心身ともにくたくたになったわたしは、安直にこう考えた。

 そうだ、仕事やめよう。結婚しよう。

 会社を出たわたしは、いつもと反対方向の電車に飛び乗り、普段は週一回しか会えない彼に会うため、新代田の駅に降り立った。仕事のミスでどんよりしていたはずのわたしの心は、結婚という思いつきによっていつのまにかウキウキしていた。結婚したら、どこに住もう。駅近で、公園やスーパーもあって、できれば閑静な住宅街がいいなあ。すぐは無理でも、いずれは一戸建てがいい! 子供は何人がいいかな。わたしは専業主婦、あの人は会社員。なんて理想的な夫婦!
 そんなことを考えながら、彼の家に向かう。いつも通り迎えてくれた彼、もちろん計画通り。わたしはお土産のビールと、ほんの少しのおつまみを食卓に用意しながら、彼に語りかけた。

「最近仕事がうまくいかなくて。仕事やめようかなって思ってるんだ。」
「へえ。転職とか?」
「んー。なんていうか……」
「何?」
「なんかさぁ、最近、いろんな友達が結婚してってて。だから、わたしたちもそろそろ……なんて。」

 言い方。さりげなさ。上目遣い。全て完璧。いける! わたしは確信した。確信した、そのときだった。


「え……結婚、か。全然考えてなかったし、当分そのつもりないけど……」

 彼は、本当に困ったように、眉根を寄せた。
 そのときの、わたしの気持ちを表す言葉はとっても簡単だ。

 “がーん”

 それだけ。

「ていうかさ、ごめん。ナマエちゃん、ちょっと重いんだよね。面倒くさいっていうか・・」

 わたしが意気消沈して帰る間際、言われたのがこれだ。
 重い女。面倒くさい女。今のわたしにぴったりすぎて反吐が出る。





 新代田から、ついさっき来たはずの電車を折り返す。明大前で乗り換えた下りの京王線は、いつもよりどこか安っぽく見えた。心がやさぐれてると周りもやさぐれて見えるんだろうか。
 さっきまであんなにハッピーだった心は、今やどん底だ。つり革も、座席も、つり広告も、疲れた顔して座る他の乗客たちも、全て全部全員、殺してやりたいほど憎らしい。でも一番殺してやりたいのは、自分自身だ。
 千歳烏山でまばらに人が降り、ふと周りを見渡すと、車内にいる人は本当に数人だった。これからどうしよう、どうして生きていけばいいんだろう、そんな疑問が頭の中を行ったり来たりするけれど、たぶん、何も変わらない。
 わたしには想像できるのだ。また明日から、同じように課長に叱られる日々が。変わったことといえば、これからわたしにはこまめに連絡し励ましてくれるはずの彼氏はいないということであり、つまり結婚という逃げ道を失ったということくらいだった。

 ため息、ひとつ、ふたつ。窓の外の景色も特に代わり映えしない。仙川で何人か人が乗り、わたしの周りにも少し人が立った。俯いていると、人の靴がよく見える。目の前に立った人の靴は、履き古したスニーカーだった。

 ふと、この靴に見覚えがある気がした。すごく懐かしくて、胸が締め付けられるような気持ち。この靴を履いているのは、どんな人だろう、そう思って、顔を上げた。顔を上げると、そこには知っている顔があった。

「あれ、ナマエさん?」
「真田くん……」





 真田くんは、大学時代のサークルの後輩だ。サークルの後輩といっても、とても大きい規模のサークルだったし、特に全員で何かするわけではなかったから、正直なところ、挨拶を交わすくらいの顔見知り程度、という感じではあった。真田くんはいつも、比較的騒がしい男の子たちの隣で優しく微笑んでいた。一人でいるときは大抵音楽を聴いていて、大きな斜めがけの鞄にはたくさんの本が詰め込まれていた。一見細身だけど実は体を鍛えていて、いつもは大人しい彼も、サークルの運動会ではとても活き活きとしていた。勉強は苦手だけれど嫌いじゃない、と言って、テスト前はとても熱心に勉強していた。いつもくたびれた靴を履いていて、ほどけやすい靴紐を、たびたび結び直していた。
 まだまだある。たくさんある。わたしは真田くんばかり見て過ごしていたのだ。真田くんはわたしの青春だった。
 真田くんは、わたしが大学時代、恋した人だった。





「久しぶりだねえ!」
「本当ですね。お元気でしたか?」

 真田くんは相変わらず丁寧な口調で、照れくさそうに顔をかいた。

「うーん、まあ、恙なく。くだらねー仕事毎日してるよ。いわゆるOLってやつ。」
「そうですか。大変ですね」
「真田くんは?」

 真田くんは、わたしの一つ下の学年だ。社会人3年目のわたしの一つ下、ということは、彼も働いていて不思議ではないのだが、……一見したところ彼は大学時代と変わらずパーカーとジーンズという出で立ちで、靴はもちろんくたびれたまま。どうやら普通のサラリーマン、というわけではなさそうだ。

「ああ、ええと、ナマエさんには言ってませんでしたか。」
「ん、なんだろ、聞いてない。ただ、見たところスーツ着てバリバリ営業、という風には見えない」
「そうですよね。」

 つつじヶ丘で人が降り、真田くんはわたしの隣の席に座った。内心、わたしはドキリとして、(こんなに近くにいたことがはたして今まであったかしら)、赤くなったことを悟られまいと下を向いた。否応なしに触れる肩と肩が、ひどく歯がゆい。あの頃と同じ、彼の腕が見た目よりも筋肉質なことが服ごしでもわかった。

「もしかして長い話?」
「そこそこです。」
「聞きたい……けど、わたし次の次で降りるんだよね」
「あー、」

 彼は、すう、と遠くを見るように、前を向いた。わたしが好きな、彼の顔だ。鼻筋が通り、とても凜々しいはずの彼の顔が、どこか寂しげに見える。

「ナマエさんは、もう夕飯は食べられましたか」

 わたしは、自分の心のどこかがまた騒ぐのを感じる。

「食べてないよお。今から帰って自分のためだけに自炊するとか、死ぬほどめんどいって感じ」

 実際のところ、半分嘘だ。彼氏のところに行くときに買い込んでいったつまみ類はまだ胃の中に残っている。もちろんそれだけでは満腹とはいかないが、今日はもう食べずに寝てしまおうと思っていた。

「じゃあ丁度いいです。次で降りて、少し飲みませんか。」

 わたしは自分に言い聞かせる。
 行っちゃダメ、ナマエ。彼氏と上手くいかなくなった途端、違う男と飲みに行く? 最低女。さっきまであんなに落ち込んでいたクセに、そんなことで浮かれて、どうかしてる。真田くんには真田くんの人生があるのに、またあなた、寄りかかろうとしてるでしょ。あなた、重くて、面倒くさい女なのよ。さっきも言われたでしょ?
 ……裏腹に、気づけばわたしの首は縦にこくこくと揺れていたのだけれど。





「そっかぁ。いろいろ大変そうだね、専門学生も」
「そんなことはないですよ。働く方が大変です。それに、自分で選んだことですから楽しいです。」

 真田くんは、柔らかく微笑む。
 聞くと、真田くんは会社勤めを1年でやめ、一転専門学校に通い始めたのだと言う。どおりで学生然とした出で立ちなのだと、わたしは一人で納得した。

「しかし、やめるっていうと相当合わない会社だったんだ」
「所謂ブラック企業だったのだと今では思います。内定者研修のときから怪しいとは思っていましたが」

 本日何度目か、彼の口から出る『ブラック企業』という言葉。どうやら未だに色々と鬱憤が溜まっているようで、かつて勤めた会社の話をするときの彼は活き活きとし、かつ、お酒をぐいと勢いよく飲んでいた。

(わたし、やばいぞ……)

 彼の話に調子を合わせながら、甘ったるいカクテルを口に運ぶたび、わたしは危機感を募らせていた。
 やばい、やばい、やばいぞ。
 今、こうして顔を合わせて話していてわかる。
 わたし、まだ真田くんのこと、しっかり好きだ。





「なんだか、すみません。私ばっかり話してしまって」
「ううん、いいの。わたしは真田くんの話が聞きたかったから。とっても楽しかったよ」
「私も、ナマエさんに聞いてもらえて嬉しかったです」

 お会計を済ませて店を出ると、深夜独特の空気が鼻腔に充満する。(社会人だからと当然多く出そうとするわたしに「いえいえいえいえいえ!」と食い下がる真田くんはすごく可愛かった。母性くすぐられた。)(結局わたしが多く出した。)
 とてもよくお酒が進んだらしい真田くんは、精悍な顔を少し赤らめて、とぼとぼと歩いていた。それもこれも、初めて見る真田くん、だ。わたしはそっと、彼の隣を歩く。周りから見たら、わたしたちはカップルに見えるかしら。それとも、ただの先輩後輩? 一歩進めるたび、手が触れてしまいそうな距離が、わたしの心を締め付ける。

「今こんなこと言ってもナマエさんは困るかもしれないですが、」
「ん? なに?」

 再び電車に乗り込み、隣に座る真田くんは、思ったよりもアルコールが回ったのだろう、今にも眠ってしまいそうだ。今自分が喋っていることも、意識していないに違いない。

「……実は、大学の頃は、ナマエさんのことが好きだったんです。はは、おかしいですよね、今更そんなこと言って。サークルでは、ほとんどお話しできなくて、遠くから眺めるだけで。」

 ぽろ、ぽろ、とこぼす真田くんの言葉を、聞いているのはこの世界でたった一人だけだ。世界でたった一人、わたしだけ。





「ねえ」
「……はい」
「もし……もし、わたしも、好きだったって言ったらどうする?」
「え?」

 真田くんはようやく顔をあげ、こちらを向く。

「ねえ。」
「はい。」
「大学の頃は、って言ったけど。……今は?」
「ナマエさん、」
「今は、違う?」

 真田くんの表情は、よくわからなかった。
 少なくとも、拒否ではないということはわかった。でも、歓迎でも、なかった。浮かれて頭がばかになったわたしでもわかる。真田くんが言ったのはあくまでも昔の話で、今のわたしの告白を決して心から悦んで受け入れたわけではなかったということは。
 だから、だからこそ、真田くんの答えは聞きたくなかった。
 真田くんの唇を塞ぐように、無理くりキスをして。わたしは文字通り逃げるように東調布の駅で電車を降りた。





 いくら嬉しい再会があったって、いくらずっと好きだった相手と一回くらいキスしたって、わたしの仕事がうまくいかないのは変わらない。わたしの出す企画は相変わらず冴えないし、わたしの淹れるお茶は相変わらず不味いままだ。もちろん、結婚をも考えた元彼からの連絡は未だフォローの一つもないし、もし連絡が来たからといって色んなことが解決する兆しもない。

「今の仕事はずっと続けるんですか?」
「いや、まぁ……」

 『まぁ、どうせそのうち結婚してやめるつもりだったし。』言おうとして飲み込んだ言葉は、石のように冷たく重い。世間を見渡せば、わたしみたいに、どうせ近いうち結婚するから事務でいーや、なんて適当に就活したちゃらんぽらん女は腐るほどいる。むしろ、バリバリ働くキャリアウーマンなんて数えるほどしかいなくて、その数えるほどの貴重な働く女たちは基本的に疎ましがられてるのが社会での現状だ。だから、わたしのこういった考えは別に特段悪いものではないし、受け入れられてしかるべきものなのだ。
 ……なのに、なぜかこれを目の前の真田くんに言うのは憚られた。真田くんは、きっとわたしを非難しない。きっとわたしを受け入れてくれる。なのになぜか、真田くんには、こんなわたしの姿を見られるのがイヤだった。

「まぁ、いろいろね……」
「そうですか。あ、すみません、生ひとつ。ユキさんは、何か飲みますか?」
「あー、ピーチフィズ。」

 真田くんは一度就職した会社をやめ、もう一度勉強を始めた。福祉系なのだと、彼は言った。
 彼は驚くほどあの頃のままで、志を持って、しっかりと、自分の歩を進めている。
 目の前の彼が眩しすぎて、煤になって消えてしまいたくなる。





「あ、あー、あー……」

 いわ、ゆる。大失敗というやつだった。
 今ここで必要とされているのは、こんな役立たずのわたしなどではなく、わたしが今朝シュレッダーに掛けたものの中に混ざっていたはずの、重要書類の方だ。

「今日はとりあえず、帰って良いから。」

 なんなら、明日も来なくて良いよ? そのあとも。
 心の声なんてわからなくても、部長の言いたいことはよく聞こえてくる。





 わたしには、一つ決めていたことがあった。
 『真田くんに寄りかかりすぎない』
 これ以上、好きな人に周りが見えないくらいのめり込みすぎて『重い女』と捨てられるのを避けるための、云わば自衛の策だ。真田くんと最後に飲んだのは、もう2週間も前のことで、次は3週間後に約束を取り付けていた。このくらいの距離が丁度いい。このくらいの距離なら、重くない。……はずなんだけどな。
 震える手で、携帯電話の受話器ボタンを、押した。

『……はい、もしもし?』
「あ、真田くん、ごめん、今電話大丈夫?」
『大丈夫ですよ。……どうかしましたか?』
「ん……いや、どうかしたって程じゃないんだけど……。今日さ、急に出先から直帰していいことになってさぁ、早く帰れることになったから、誰か一杯付き合ってくれる人いないかなぁって、探してるの」
『……今日これからですよね。ええ、大丈夫です。場所はいつものところでいいですね。』
「うんうん。ありがとう! わたし先についてると思うからさぁ、真田くんも着いたら連絡してー」
『わかりました。』

 どうしよう、迷惑って思われてるんじゃないかな。重くて面倒くさくて、邪魔な女って思われてるんじゃないかな。せめて、真田くんには、余計な心配をかけないでいたいのに。ただでさえ、無理矢理キスなんてして、急に電話して食事の約束取り付けて、嫌われる要素はたくさんある。これ以上、彼に嫌われたくなかった。なのに、止められない。真田くんに縋る自分を、止められない。





「ナマエさん」

 真田くんは、いつも通り、わたしの元へやってきてくれた。いつも通り、くたびれた靴、斜めがけの鞄。

「あ、真田くん」
「待ちましたか」
「うんん、全然。パルコ見てたから丁度良かったよ」
「ならよかったです。」

 いつも通り、なんて、おこがましいことはわかっている。真田くんの”いつも”に果たしてわたしはどのくらい含まれているのだろう。
 歩き出す真田くんの隣に近寄り、一緒に歩く。今日はいつもと違ってまだ明るく、いつのまにかお馴染みとなった居酒屋も空いているようだった。下足入れにただ黒いだけのパンプスを押し込むと、座敷席へと案内される。

「えーと、生を一つ。」
「あ、わたしも」
「すみません、じゃあ二つで。」





 真田くんはいつものように、日々の話、旧友の話、話題のニュース、と色々なことを話した。合間に、気遣わしげにわたしの意見を求めることも忘れない。わたしが2杯目のビールを飲み終わる頃、真田くんは、大学の頃仲の良かった男の子の話をしていた。

「へー、そっか。直江くん。転職したんだ」
「結構、そういう人が多いようです」
「そうなんだねぇ。そういえば、内定もらったときから、いつかは転職するって言ってなかった?」
「はい、言っていましたね」

 さっきっから、わたしは頭のなかで反芻していた。『あのね、真田くん』『聞いてほしいことがあるの』『聞いて、お願い。わたしのことを、優しく受け止めて。』
 でもそんなこと、言えなかった。言えば、真田くんは、きっと受け止めてくれるだろう。でもそれじゃダメだ。真田くんだけには、重たがられたくなかった。他の人類全てに嫌われても良い。真田くんにだけは、嫌われたくなかった。

「みんな大変なのねー。」
「それぞれ、色々事情があるのでしょう。それで……」

 真田くんはそう言い掛けて、視線をさ迷わせた。

「どうしたの?」
「ナマエさん、」

 真っ直ぐで、真剣な真田くんの瞳。逃れられない。

「何か、ありましたか? その……いつもと様子が違うので。」

 ああ、ああ、神様。どうしてこの人はこんなにも優しく、残酷なのだろう。わたしが必死に作ったバリケードは、こうして優しく溶かされてしまう。堅いバリケードを失ってしまっては、誰かに寄りかからずには生きられないと言うのに。

「あ……、」

 涙なんて、本当は流すべきじゃない。頭ではどんなにわかっていても、溢れる涙を止めることができなかった。優しくぬぐってくれる親指にまるで誘われるみたいに。





 時間にすれば、数秒。でも、わたしにとっては、永遠にも近い時間だった。そんな、映画にでも出てきそうな安い言葉が、今の状況を良く表していた。

「ナマエさん……」
「あ……、ご……ごめん、いきなり、びっくりしたよね。あー、はは、うける、ひくわぁ。こんな歳になって泣くとかさ、うけるよね。真田くんも笑っていいよ。変だもんね。ひくよね。はは、」
「ナマエさん」
「うけるわぁ。面倒くせー女だよね、私。ほんと、ごめん、ちょっと、トイレ行ってくるね」

 真田くんの顔は、見れなかった。このまま逃げ出してしまいたい。そんな衝動に駆られながら、トイレに駆け込む。大きな鏡の中の、目元を腫らした情けない女の顔を一瞥して、個室に飛び込み嗚咽上げながらげえげえ吐いた。





「ナマエさん……」

 わたしが席に戻ると、真田くんはいてもたってもいられないという風に、少し腰を浮かせてこちらを伺った。

「大丈夫ですか? その……顔色があまりよろしくないように見えますが」
「……心配してくれて、ありがとう」

 真田くんは、本当に優しい。突然泣き始めてトイレに駆け込み、青い顔をして戻ってきた良い歳した女に、文句の一つも言わず、気遣わしげに声を掛けてくれる。わたしがトイレに行っている間に注文してくれたのだろう、ジョッキ一杯に注がれた水が、わたしの席においてある。……吐いたのもバレてるってことか。ありがたく頂戴し、一気に、ごく、ごく、と飲み干すと、ようやく視界が鮮明になる。血中アルコール濃度がどんどん薄まっていくのを、体で感じる。

「わたし……」
「ナマエさん、お疲れなのでしょう。思えば、電話で話したときから、少し様子が変だなと思っていたんです。やっぱりお仕事が大変で……」
「違うの」
「え……」

 わたしがハッキリと否定したことに驚いたのか、真田くんは真っ直ぐこちらを見た。
 澄んだ瞳、精悍な顔立ち。真田くんはいつもわたしの欲しい言葉をくれた。だからこそ、この優しさに甘えてはいけないんだ。最初からわかっていたはずだった。

「わたし、彼氏がいて」
「…………」
「でもね、フラれたの。きっぱりと。だから、誰かに甘えたかった。そんな時に、偶然真田くんに出会ったの」
「……ナマエさん、」
「真田くんは、わたしの欲しい言葉、全部くれた。ぜんぶぜんぶ、わたしが欲しい言葉だった。」

 真田くんがやさしく頬に触れ、涙を拭ってくれる。優しい真田くんは、ビックリするくらい、大学時代のあの頃と同じだった。そんなはず、ないのに。真田くんはまるで、あの頃から全く変わっていないかのように輝いているから。わたしはまるで、一人薄汚れてしまったかのように感じてしまうのだ。

「……私は……」
「真田くん、わたし本当に嬉しかった。慰めだったかも知れない、でも。真田くんがわたしなんかを好きだったって言ってくれたこと」
「……私は、本当に……」

 困ったように眉を寄せる、真田くんはそれ以上続きを言わなかった。優しい彼は、わたしを傷つけない。その代わり、嘘も吐かないのだ。これ以上、優しい彼を困らせることは、したくなかった。

「真田くん。」

 項垂れた真田くんの肩に、そっと触れようとして、やめた。彼には、わたしは必要ない。わたしに彼が必要でないように。

「真田くん。本当にありがとう。あなたは、わたしを二度も救ってくれた。わたし、あなたのこと本当に好きだった。あなたは、素敵なまま生きて。そしてどうか、幸せになって。」

 ひとつ、またひとつ、真田くんの大きな瞳から、涙がこぼれ落ちた。その涙の意味は、わたしにはわからない。





 ひとり、下足入れで、ふとスニーカーが目に止まる。思えば、人の幸せを願ったのなんて初めてだった。
 もっと軽々と生きてみたい。もっと、自由に、もっと、縛られず。真田くん、あなたのように生きてみたい。


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