※現代



「ああ。春の嵐か」

 講師はそれだけ言うと、すぐに眠たいだけの講義を再開させた。窓の外はものすごい雨だ。時折、雷鳴が轟き、その度に数名の女子学生が息をのむ。

 春の嵐。静かに私は目を閉じた。
 3月にもなって、嵐の中わざわざ補講を受けている学生なんて(あるいは、わざわざ補講を開いている講師なんて)、物好きにも程があるではないか。

 この講師、少なくとも見た目はかなり若く、うちの大学講師の中では一、二を争う若さなのではないだろうか。くたびれたジャケットを来ていなかったら、学生と見分けがつかないかもしれない。
 老いぼれた大学教授の授業はつまらないのが定石だが、若い先生は面白い授業であることが多い。皆、各々期待を胸に受講したことと思うが、この講師、若いくせに講義は全然面白くないのだ。知識は膨大なのだろうが、それをつらつらと喋るだけで、何の面白みもない。
 必要な単位でないのなら、私だって喜んでサボっていたところだが、あいにく私はこの単位を落としてしまうと卒業にも影響が出てきてしまう。他の受講生達も、大方そういう事情だろう。

 どんよりとやる気のない教室全体に、雨音というBGM。この場所が、世界から切り離されてしまったかのような錯覚に陥る。

(あ、今日、傘持ってないんだった……)
 帰り、どうしようか。うちの大学から駅までは、走って10分。この嵐の中傘がないのは結構つらい。ハァとため息をつき、ふと、ずっと窓の外に向けていた視線を、前に向ける。と、

『ぴたり』

 音が鳴ったかと思った。いや、実際に音なんて鳴るはずがない。講師と目が合ったのだ。いや、それも思い違いかもしれない。若き講師はすぐに背を向け、白板に文字を書き始めた。講師の背中を茫と目で追う。講師の名は、たしかクロロといった。


 講義が終わり、教室内は俄に騒がしくなる。私も周囲に倣い、静かに伸びをした。
 雨はまだ止みそうにない、どころか、さっきより強くなっているようにも感じる。遠くの空は靄がかかり、いつもならかすかに見える山々も、今日は完全に姿を隠している。一方で空は明るく、まるで晴れているようにも見えるほどだ。きっとすぐに止むのだろう。



 図書館で本でも読んで雨宿りしていくかと考えた私は、すぐに落胆することになる。簡単なことだ。今日は本来なら春休み期間であるはずで、図書館は閉館日だ。
 自動ドアの前には『閉館日』という立て札と、ご丁寧にチェーンまで掛けてある。
目の前にある、大きく古びた建物は、当然という顔をして、目を瞑っていた。

(……てことは、購買も、やってないな。傘買って行こうと思ったのに)
 ざあざあ降りの空を見上げる。
 ちか、と光ったかと思うと、遠くで唸るような音が鳴った。
 飲み込まれるような雨と稲光、とても恐ろしいのに、どこか暖かい。どこか暖かいのに、とても恐ろしい。目に映る豊かさのさらに奥には、底なしの冷たさがあるのだ。

 今日はお気に入りのバッグだし、革が痛んでしまうかもしれないし。今日はバイトがないから、別に急いでないし。
 とか色々、雨の中走らない言い訳を心の中で唱えながら、図書館の前で阿呆みたいに突っ立って、雨が降るのを眺めていた。さすが春休み、構内を歩く人もまばらだ。傘をさして悠々と歩いている人もいれば、ハンカチを頭に乗せて掛けてく人もいる。(天気予報、見ればよかった)なんて、後悔先に立たずだ。



「あれ、おまえ。さっきの近代史特講の補講にいた奴じゃないか?」

 後ろから声を掛けられた。振り向くと、図書館の中から入り口のチェーンをまたいでこちらに来る、クロロ先生、だ。

「何してるんだ? ……ああ、雨宿りというやつか。今日は俄雨があるとどの局の天気予報でも言っていたが聞いていなかったのか?」
「……朝、テレビ見ない派なんです」
「ははは、バカだな」

 先生は全然可笑しくなさそうに笑った。
 こんな風に軽い感じに喋る人だったんだ。意外だ。
 先生は真っ黒くてばかでかい傘をばさばさと乱暴に振り回して開こうとするが開かない。前回たたんだときにすごくおざなりに留め金を巻いたんだろう。変な癖がついちゃっているのだ。

「先生、それ……」
「あー、これなぁ。こうすれば……」

 手で少しひらいてやると、バサッ! と勢いよく傘が開いた。ばかでかい傘が突然開いただけなのに、妙に面白くって、二人して顔を見合わせて少し笑った。先生の顔をちゃんと見たのは初めてだった。

「傘、入れてってやろうか? 駅までだろう」

 先生は、真っ黒でばかでかい傘を私に向けてさしかける。そして私の右手を取って傘の柄を無理矢理握らせた。
 ……え、何それ、やだ、なんか、胃の皮が1枚ぎゅーっとつままれたみたいな、ああ、いやだ、これは、

「い、や、いいです! 大丈夫です!」
「ははは、そんな嫌がるなって。嘘だよ、ばーか。そんなことしたらセクハラでクビになっちゃうだろ。若い講師ってだけで肩身狭いんだから。……ほら、俺はいいから貸してやるって」

 先生は笑うと、目がくしゃっと細くなった。傘を持つ手は青白くて、神経質そうに見える。神経質なのに、傘をたたむときは適当にやっちゃう人なんだ。あんなにお堅い講義をやるのに、朝のテレビは見る派の人なんだ。

「でも、先生は……」
「俺はまだ残ってやることがあるから。この傘は今度返してくれたらいいよ。D棟の4階に研究室があるから持ってきて。俺いなかったら助手さんに渡しておいて」

 すでに先生はD棟に向かって歩き出している。「待って!」と咄嗟に言うと、先生は振り向いた。

「ん?」
「あ、やっぱり、なんでもない、です……」
「……あ、雨が。」

 空を見上げる。雨が、嘘みたいに上がっていた。ばかでかい傘が所在なく揺れる。

「傘、必要なくなったな」
「あ、はい……」
「えーと……」

 先生に傘を渡す前に、しっかりと傘をたたんだ。先生に任せたら、またおざなりに巻いてしまうと思ったからだ。

「これ、ありがとうございました」
「使わなかったけどな」
「えーと……じゃあ……」
「……えーと……」

  視線が、ふわふわと泳ぐ。

『ぴたり』

 また、目があった。今度は気のせいではなさそうだ。

「……俺の研究室、コーヒーあるけど、来る?」

 春の嵐だ。私は目を閉じて、胸に風が通るのを感じる。

春の嵐
(200512)
→後日談的SS 春雨を帳にして