すべてのはじまり、すべてのおわり。/ひとつのおわりと、いくつかのはじまり。


「好都合だな」
「え……?」

 一瞬、クロロの笑顔が仄暗く光った、……ように見えたのだが、目をこすりもう一度クロロを見てみれば、そこにいるのはいつも通り温厚なクロロだった。まさかこんなにも穏やかな人が、裏社会で暗躍するグループのリーダーだなんて、誰が想像つくだろうか。私だって、ヒソカに聞かされているクロロ像を知らなければ、ただの心優しい青年だと疑わなかったに違いない。

「好都合って……どういうこと……?」
「キミって案外鈍感なんだな。まあ、そこもいいんだけどね」
「ちょ、ちょっと待って、クロロ」
「ん、そんなに不都合だったかな。オレがキミに好意を寄せるのは」
「そ……」

 そんなこと、思ってもみなかったことだ。私は黙りこくって目を泳がせた。もちろん、クロロのことは好きだ。でも、異性として、と考えると、ちらと頭が痛む。よぎるのは、今はもういない歌舞伎者の影だ。

「もしかして、ヒソカのことを考えてる?」
「……」
「考えるななんて言わない。ましてや忘れろとも。あれだけ強烈な人間を忘れるのは難しいだろうしな。でも、ヒソカを考えてる時間の半分でもいい。それをオレにくれないかな」
「クロロ……」

 私はクロロの申し出を検討するフリをして、再びヒソカのことを考えた。もしここに彼がいれば、クロロを止めてくれただろうか? それとも、からかって、『お似合いなんじゃない?』なんて、ハートマークを語尾につけながら、言ってくるだろうか。

「だいたい、仕事をやめて、おまけにヒソカもいないんじゃ、生活はどうしてる? 困ってるんじゃないのか?」
「それは……今までの貯金を切り崩してなんとか。また同じように働ける病院を探せるといいんだけど……」
「除念をメインにやっていく気はない?」
「と言っても、今まで除念のお客さんはヒソカが紹介してくれてたから、なかなか……」
「ふむ。」

 クロロは思案顔でコーヒーを一口飲み、二言三言、ぶつぶつと独り言を言った。

「もしかしたらなんだけど……ヒソカがやっていたように、オレの方から何人か紹介できるかもしれないな」
「えっ、ほ、ほんとう?」
「ああ……もしかしたらだけどね。念のため、キミの能力をもう一度、この目で見ておきたいな。もちろんキミを信じていないわけじゃなくて……なにしろ、信用の問題だからね、紹介というのは」
「それは構わないけど、今はちょっと……あと、除念の様子を見せるためには、まず何かの呪いに掛かった人を見つけないと」
「その点なら大丈夫。ちょうど、除念が必要な奴がいるんだ。外に付けてる車に乗せている」

 “ちょうど”“除念が必要な奴が”“外に付けてる車にいる”? ありえない。どう考えたって、準備が良すぎる。クロロは私がヒソカと決別し仕事を探していることや、そのために今日私に除念の様子を見せて欲しいと自分が言うことさえ、知らなかったはずだ。いや、知らなかったならば、そんな準備はできなかったはずだ。どうして、クロロがそんなことをするのか、わからない、わからないからこそ、何かがおかしい。脳内を占める疑念が、じわじわと喉元に下りてくる。
 ……でも、私は口にしなかった。確かにクロロは怪しい。けれど今、目を瞑って勢いのままにこの怪しい手を取ってしまえば、これでまた一つ、ヒソカの保護から抜けられる気がしたのだ。今まで、本当にヒソカに守られて生きてきた。まだ人に頼り切りなことには変わりはないが、少しだけ、自分の足で立てるようになる気がする。(どう? ヒソカ——。私、少しは大人になったでしょ)……あれ、おかしいな。またヒソカのことを考えてる。

「キミの役に立てて、嬉しいな。……オレの気持ちが少しは、伝わったかな。キミを思う、気持ちが……」

 冷え切ったガテマラを飲み干し、クロロはどこか覚めた目でそう言った。カップを置いて、カシャンと音が鳴る。なぜだろう、なぜだか、その音をとても怖いと思った。もしヒソカがここにいたら何て言うだろう? 『まったく、怖がりだなキミは』? それとも、『警戒心が足りない、もっと怖がるべきだ』?

「……ありがとう。本当に困っていたから助かる。除念の仕事でどうやってお金を稼げば良いかなんてわからないし……。なんとかなるなんて思ってなかった」
「……アハハ、それはこっちの台詞だよ」
「え?」
「こんなに簡単にいくとはね。正直言って、予想外だよ」
「……クロロ?」

 クロロのことを怖いと思ったことが、以前にも1度だけあった。それはクロロに初めて出会ったとき、つまりヒソカに頼まれ、クロロにごく簡単な除念を行ったときだ。かけられた呪いは身体的な外傷に変えることで除念することができること、かけられた呪いに関する、患者が知る限りの詳細を全て話しきること、そして除念によってつくる外傷は、患者自身によってつけなければならないことを説明すると、彼はこう言ったのだ。『それで全部?』と。私が口を開いたのを遮って、ヒソカが『もちろん、言えない』と笑顔で言い、クロロも笑って『そうか』と言ってその場は終わった。
 その後、彼にまとわりついていた小さな悪意を一つ一つ取り除くと、クロロは瞬く間に細かな傷だらけになった。掛けられていた念自体は大した威力ではなく、大きな傷にはならずに済んだ。なぜだろうか、わからないけれど、その時私は直感的に、『重傷にならない呪いにしてきたんだな』と思った。なぜだろう。私に除念をさせるために、クロロがわざと自分に軽い呪いを掛けさせてきた、と、そう思ったのだ。

「ああ、オレは、キミが欲しい。キミが欲しいんだよ、意味はわかるよな?」
「ちょっと、クロロ……!」

 突然、クロロに手首を捕まれる。もう片方の手で、彼は異様なオーラを放つ本のようなものを持っている。そもそも彼がいつの間に私のそばにやってきたのか、全くわからなかった。つい今の今まで、目の前に座っていたはずなのに。それに、もう一つ私を混乱させることがあった。確かに感じる、背後のこの気配は。

「……やはり、来たか」

 クロロがそう呟いた。それから、あっけらかんと現れた奇術師はにっこりと笑みを見せた。

「あーあ。……だから、街から出ろって言ったのにね」

 両者の放つ凄まじい殺気に当てられ、ズキンズキンと脈打つような頭痛がした。またこのまま、戦いが始まるのだろうか。私はまだ、全身が傷だらけだし、クロロが来る前に爪が剥がれた指を治したせいで、あと10分は念が使えない。使えたとしても、闘いに参加できるはずもなく、また無様に一時逃げるくらいが関の山だろう。
 またこのまま、闘いが始まって。束の間に現れた日常が全て破壊し尽くされてしまうのだろうか。
 二人の攻撃的なオーラの密度が更に高まった。この部屋が再び戦場になるのを想像して、反射的に私は目をぎゅっと瞑る。……その瞬間、クロロに掴まれていた手首が突然パッと離された。同時にクロロのオーラも凪いでゆく。

「いや、いや。降参だ。ここでお前とは戦わない、ヒソカ」
「……嘘だね」
「そう思うならお前がナマエを守れ。……今の今までしてきたようにな」

 クロロがそう言って、私が座っていた椅子の脚を蹴飛ばした。「え、」物凄い音がして、私は椅子ごと倒れる。床にぶつかる、と思った瞬間、ヒソカはまるで子猫を拾うかのように私を掬い上げた。ヒソカの手を借り、なんとか立ち上がる。見上げると、ヒソカは形容しがたい表情をしていた。笑い出す直前か、泣き出す直前か、怒り出す直前かのような表情に見えた。

「……私はヒソカに守られてた、ってこと? ずっと、手のひらの上で踊っていたっていうこと?」
「悲観的に言えば、そうだね」

 うつむくと、先ほど倒された椅子と、それに椅子が倒された衝撃でフローリングが抉れた穴が目に入った。そのまま視線を横に動かすと、テーブルには先日の戦闘で付着したらしい血痕が、拭ききれずに残っているのが見えた。その奥には、ダイニングの収納スペースがあるが、戸が壊れて閉められなくなってしまったので開け放してあるのが視界に入る。……全部、全部が、私の“生活”だったのだ。“生活”だったものが、血に塗れ、壊され、失われていた。

「……クロロが、ここに来たのは……もちろん、私に好意を寄せたからじゃないんでしょ?」
「ああ、そうだな、すまない。と言っても、そんな上っ面の言葉じゃキミの気を引くこともできなかったようだが」
「端的に言って、キミの能力が欲しかったんだよ、クロロは。前から狙っていた」
「身も蓋もない言い方をすればな」

 会話の最中、自分の中にオーラが戻るのを感じた。爪を治した時の縛りが終わったのだ。もちろん、二人も気付いて私を見る。私も、きれいに治った自分の爪をよく見た。この能力がなければ、この爪は二度と戻らなかっただろう。でも、この能力がなければ、こうして私の生活や、私自身が、壊されることもなかったはずだ。

「……あげる」
「え?」
「私……いら、ない。この力。欲しいなら、あげる」
「……自分が何を言っているかわかっている?」
「わかってる、と思う」

 頷いて見せる。クロロの方へ一歩踏み出そうとすると、今度はヒソカが私の手首を掴んだ。

「希有な念能力と不釣り合いに脆いキミを……ボクは多分、守ってあげられるよ」
「ありがとう……」
「……けど?」
「けど、私……普通、になりたい。もう、ヒソカに守られる私でいたくないの」
「……そうだね、キミには“普通”が似合うよ」

 ヒソカは無表情だけど、泣き笑いのメイクがとてもよく似合っていた。かつてこの人は、私に『必ず殺してあげる』と言った。もしかすると、こうなるとわかっていたのではないだろうか? 私が私で、それも普通の私であるために、ヒソカは、混沌の世界から死を以て救おうとしてくれていたのではないだろうか?

「おい。お話中失礼するが。俺はもらっていいのならばもらうぞ、いいのか?」
「……うん」
「念能力を失うということは、裏社会との繋がりを絶つということだ。力のない奴は、存在するだけでリスクになるからな。ナマエは二度とオレにも、ヒソカにも会うことはない。それはわかっているな」
「……わかってるよ。わかってる」

 クロロは優しかった。まるで私の背中を押してくれるみたいに、強く念押しした。そしてばつが悪そうに、「なに、能力を頂くと言っても、苦痛を伴うものではない」と付け足した。冷静な表情がちぐはぐに感じるほど、親切だ。

「やっぱり、キミはつまらなかったよ。価値のない存在だったよ」

 本当につまらなさそうにヒソカは言った。

「だからキミはこの混沌は似合わない。秩序の世界にお帰り」
「……最後まで、ヒソカの手のひらの上だね」
「嫌いじゃないでしょ?」

 するとヒソカはようやく笑った。酷く寂しい笑顔だったけど。私は口をもごもごと動かして、二人に聞こえないように小さく「さよなら」と言った。とても臆病で、脆くて、幼い私の別れの挨拶を、この二人に届かせることはできないと思ったからだった。

「……ねえ、ヒソカに一つだけお願いなんだけど」
「言ってごらん、聞くかはわからないけど」
「折角だから、最後まで、手のひらの上で転がしてほしいの。……いつか、いつか私が死ぬときは、私の知らないヒソカが私を殺してほしいの」

 ヒソカは驚きもせず、アハハと高らかに笑った。その笑い声は随分湿った声に聞こえた。

「なんて、美しい独占欲だろうね!」

 否定も、肯定も、しなかった。猫みたいにヒソカは伸びをして、それから私を一瞥もせずに窓から出て行った。てきぱきと、クロロが私から念を譲り受けるための手続きを始める。私はぼんやりと、嵐のようなここ数日を思い返していた。ヒソカがくれた言葉を一つ一つ反芻する。ぼうっとする私の耳には、何やら説明しているクロロの低い声が、まるで全ての幕引きのように響き渡って、私の鼓膜を揺らしていた。

fin.
(211016)

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