壊れた時計の秒針ひとさじ(1)
「…………!!」

 がばっ、と身体を起こすと、ここは自分の部屋のベッドだった。どっ、どっ、と、激しい動悸が一瞬襲ってきてはすぐに引く。どうやら今の今まで自分が気を失っていたらしいということを、遅れて理解した。記憶をたぐるまでもなく、あの会場で嘔吐したのちに失神したのだろう。あの時マネキン丸ごと着せられた奢侈なドレスを私は着たままで、繊細なレースには吐瀉物の残り滓がまだこびり付いていた。

 こんがらがった頭の中を整理しようにも、整理できる要素があまりに少ないことに気がつく。私にわかることといえば、初めてヒソカに仕事に誘われたこと、その仕事は私が予想していたようなものではなかったこと、実際には、父娘の吐き気を催すようなショーが目の前で繰り広げられたこと。このくらいだった。

 ふと、自分の喉が乾ききっていることに気がついた。それに、ヒリヒリ痛む。嘔吐したのだから当たり前か。水を飲もうと、悪臭の立ち込める自室を後にした。

 洗面台に直行し、ざぶと顔を洗う。それから、水道水をコップにくんでがぶがぶ飲んだ。相変わらず喉は痛いけど、とりあえず水分が体内に行き渡るのを感じる。バスタオルで顔をぐしゃぐしゃに拭いていると、背後に道化師が突っ立っているのが鏡越しに見えた。

「ようやくお目覚めみたいだね♠」
「……ヒソカ、いたの」
「そりゃ、いるよ♣ 今はここがボクの家だ。ちなみに今、イルミを家に入れてるけど、問題ないよね?♦」
「えっと……」
「お茶飲みたいってごねたからさ」

 脳裏で、あの大きな黒目がフラッシュバックする。ああ、そうだ。あの人がイルミだ。果たしてあの人がお茶飲みたいとごねることなんてあるのだろうか、と疑問だが、私がそこに突っ込んでも何の生産性もないためやめておいた。
 「ほら、こっち」と当たり前に先導するヒソカに、私も何となくついていく。リビングに入ると、確かにイルミがいた。ソファに座ってくつろいでいて、不思議と馴染んでいる。

「元気になったみたいだね」

 イルミは、そう言った。恐らく、私の体調を気遣ったわけではなく、ただの現状確認としてそう言っただけだろう。私は曖昧に頷いた。元気でもなければ、体調不良でもない。

「キミもお茶飲みなよ。水道水は不味かったでしょ♥」
「うん……」
「……」

 差し出されたコップを素直に受け取り、なみなみ注がれた麦茶を一気飲みした。……うち麦茶なんてあったか? と一瞬訝るが、どうせヒソカが勝手に買ってきたか、ヤカンで煮出したのだろう。当たり前のように、ヒソカが生活に根付いている。
 ふと、ヒソカがこちらをニヤニヤしながら見つめていることに気がついた。理由がわからず、私もなんとなく睨み返す。ヒソカは更にニヤニヤ顔を深める。

「……何か」
「いやあ。何か物足りないなぁと思って♦」
「何がよ」
「いつもの、『なんで』はないわけ?♣」
「……聞いたら教えてくれるの?」
「ボクってそんなに意地悪だと思われてるんだ、心外だな♥」

 いや、意地悪というか、そういう次元の話じゃないだろ。と思っていたら、イルミが何故か唐突にぱちぱちと手を叩いた。

「……どうしたの」
「いやぁ、ヒソカって本当優しいんだね。お人好しだよね」
「……どこがよ」
「そんなふうに、接するの、ナマエにだけだと思うよ」

 イルミは、うんうんと頷きながら言った。そんなこと言われても、ヒソカの他人への態度を知らないし、比較のしようがない。するとイルミが更に、「あと、ゲロまみれのナマエをここまで担いで連れて帰ったのはヒソカだし」と言ったので、なるほどそれは確かに優しいなと思った。

(230218)
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