カタルシスの瓶詰め(7)
 ヒソカが言うには、あの男性はなかなか表舞台に出てこないと。だからあの男性を引きずり出すにはお嬢様と踊ることで気に入られる必要がある、と。しかし今思い返してみれば、遠目で見てもヒソカはそこらの貴族に愛想笑いをするばかりで、誰かと踊る様子なんてなかったし、そもそも未だご令嬢をこの会場で一度も見ていないことに気がついたのだった。

「ねえ、キミって」

 混乱する頭を抱える私に、イルミは酷く冷淡な声で言った。

「思ったよりもお馬鹿さんなんだね」

 え、と思うよりも、早かった。「きゃあ!」と悲鳴が響き渡ったのだ。「なんで、」「なんなの」「誰か!」「血よ!」「警察を!」「救急車を!!」と、瞬く間に動揺が会場全体に広まっていた。皆が皆、逃げ腰になり、しかし逃げ出すかどうかも躊躇しているようだった。新会長を囲んでいたはずの人だかりの輪が、こんどは新会長から一定の距離を取るように、一回り大きく膨らんだ。お陰で、私と舞台の間に視界を遮るものが少なくなり、前の様子が良く見えるようになった。
 壇上を見れば、先ほどまでスピーチをしていた新会長の姿が見えない……いや、いた。舞台を降りていた。おそらく、降りざるを得なかった。壇上から倒れ、そのまま小さな段差を転げ落ちたのだろう。舞台の下に青ざめて座り込む新会長は、肩から胸に掛けて深傷を負い、夥しい量の出血をしていることがここからでもわかるほどだった。でも、まだ息はある。そしてその傍らには、当然のように、上品な笑みを浮かべカードをパラパラとやるヒソカが、楽しそうに佇んでいるのだった。

「ほら、始まったよ」

 隣のイルミが言う。こちらはこちらで楽しそうな笑みを浮かべている。頭痛がした。吐き気も酷い。それでも私は、その光景から目を離せない。

「お父さま!」

 重くて大きな奥の扉が開き、一人女性が飛び込んできた。私と同じくらいの年のころで、高価そうなドレスを着ている。写真で見たことがある、顔だった。彼女こそが、ご令嬢だ。

「ああ、お父さま、」
「あは! ようやく出てきてくれたね♠ キミを待ってたんだ♥」

 まるで赤子の手をひねるように、とは正にこの事だろう。瀕死の父親に駆け寄らんとするご令嬢の手首を、ヒソカは花でも摘むかのように華麗に掴んだ。ご令嬢は何が何やら、という顔で、ヒソカに囚われるがまま、「ひ、」と小さく悲鳴を漏らした。

「はてさて。役者は揃ったね♦」
「た、頼む、どうか……」

 ヒソカの足元に転がる、血まみれの新会長は懇願するように嗄れ声で言った。私はこめかみを押さえる。頭が痛い。割れるように痛い。

「娘を離してくれ、私の命はやる。どうか娘を……」
「い、いや! お父さま、私のことはいいから、早く逃げて!」
「アハハ♥ 美しい父娘愛だね♦ それじゃ、お言葉に甘えて……♥」

 音もなく、断末魔もなく、父娘は同時に首を切られていた。その場で嘔吐する私を、イルミは冷ややかに見ていた。

(211120)
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Apathy