薄暗く狭い木造建築物の中は、恰幅のいい男たちで溢れかえっている。右手にエール、左手に葉巻。紫煙がゆらめく室内の空気はどう考えても最悪で吐き気がするが、何十年と同じものにあたっていればやがてそれにも慣れが来る。それでも嫌なものは嫌なので、ささやかな反抗の気持ちを込めてアタシは小さく翼を揺らした。生まれた風圧は私の身体にまとわりついた紫煙をどこか遠くへ運んでくれるが、それも一瞬のこと。またすぐに甘くて苦いあの独特のにおいが鼻を衝く。はあ、とアタシはため息を一つこぼして、自分の翼をゆっくり縮めた。
羽毛に覆われたハヤブサのそれと、硬質な鱗をもつドラゴンのそれ。片翼ずつ生えたこの翼こそ、アタシが異形と呼ばれる理由であり象徴だ。人々から畏怖され、神と崇められ、こうして見世物になるに至った所以でもある。
生まれながらにして人と異なる器官を背に携えていたアタシは、自分で言うのもなんだがとても数奇な人生を送ってきたと思う。
悪魔だと石を投げられ虐げられたこともあるし、逆に神の遣いだと崇拝されたこともあった。阿呆らしいが、信仰なんて所詮はそんなものだ。加えてアタシには人ならざる力があった。その一騎当千とも言える力は戦乱の世では大層貴重だったようで、アタシは神だと持て囃された。国のお偉いさん共が連日やってきて供物やら財宝やらを積み上げ懇願する姿はとても滑稽だったが、政治にも殺戮にも興味がないアタシは結局どこにも属することはなかった。
ただそうなると今度は脅威の可能性を排除するためにアタシを殺そうとするやつらが出てくるわけで。もちろんそんなやつらに大人しく殺されるわけもなく、アタシは見事そいつらを返り討ちにしてやってはいめでたし!といった感じだったのだが…そんなことが何十年と続いたものだから、嫌気がさしたアタシは話の分かる商人に持ち掛け、この酒場で見世物になることを選んだ。それがアタシがこうして足枷を嵌められ鉄格子の中にいる理由。
大衆酒場「ニュートラル」、アタシはこの場所がそこそこ気に入っていた。
*****
それから月日がたち、今もアタシはこの鉄格子の中にいる。だいぶ平和な世になったおかげか数はずいぶん少なくなったが、どこから話を聞きつけたのか、今でもアタシの力目当てでここにやってくる政治家や神官は後を絶たない。人間というのは今も昔も本質は変わらないということか。
「こんばんはエミ、ご機嫌いかがかしら」
「何度も言ってるけどさあ、この煙何とかならないわけ?この檻位置が高いからもろに上がってきて煙いんだけど」
「ここが酒場である以上それは諦めてくださいませ」
この少女は、かつてアタシが取引をした商人の孫娘で、この酒場の現オーナーだ。若いがかなりやり手の経営者らしく、彼女がこの酒場を仕切るようになってから客入りもだいぶ良くなったように感じる。
「そんなに不服ならその檻なんてさっさと壊して出てくればよいでしょうに」
「おいおい経営者がそんなこと言っていいの?見世物いなくなったら困るのアンタでしょ」
「別にこちらは四六時中そこにいろなんて強要はしておりませんわよ」
「ハイハイ…あ、今日はパスタの気分だからよろしく」
「全く…あとで新人に作って持ってこさせますわ」
呆れ顔でそう言った彼女…正確には彼女の一族は、アタシが言うのもなんだがとても変わり者だ。見世物として置かれている筈の異形のアタシに対して、普通の人間と同じように接してくるのだから。
「(…世の中のやつが全員そうならよかったのに)」
そんな絵空事を考えたって無意味であることはわかっている。伊達に人より少し長く生きてはいない。この檻を出れば外は愚かしい人間ばかりだ、それがわかっているからアタシは今日までここにいる。
「エミさん初めまして!ナポリタンです!」
「サンキュー、あんたが新人さん?」
「はい!」
黄緑色のふわふわとした髪を揺らして走ってきたのは、純粋そうな若い娘だった。お盆にはつやつやと光る橙色のナポリタンが乗っている。おいしそー。
「じゃ、そのへん置いておいて」
「あ、あと…エミさん目当ての方が来てるんですけど、目の前の席にお呼びしていいですか」
「別に見世物に許可取らなくていいって」
「あ、はい!では呼んできます!」
パタパタと忙しなく駆けていく新人の後ろ姿を眺めながら思案する。さて、今日の客人は誰だろう。そういえば最近東方の国がきな臭いと客同士が盛り上がっていた気がするし、その関係者だろうか。まあ誰が来ても対応は同じなのだから、考えたって無駄だ。それよりせっかくのナポリタンがのびてしまう。
「へえ、うまそうなの食ってんだな」
「あ?」
ナポリタンに夢中になっていたところで声をかけられた。反射的に顔を上げれば、そこには草臥れた外套を巻いた無精髭の男が一人。
「…なんだ、そんなにじろじろ見て」
「いや、随分と見窄らし…珍しい客人だと思ってね」
「見窄らしくて悪かったな…そこらで酒飲んでる奴らと対して変わらないと思うが」
「アタシにわざわざ会いに来る奴らはそれなりに高い身分のやつが多かったからね。あの辺で飲んでる客はアタシにわざわざ近づいてなんて来ないさ」
触らぬ神になんとやらと言うだろう?とそう答えれば、お前は神なのか?と真顔で返された。今までにないタイプの客だ。
「巷ではそう呼ばれることもあるね」
「そうか…すまん、俺にも同じものをひとつ」
男は遠慮なく席に座り、至って普通に注文を始めた。いつもは仰々しいまでに過剰な接待をされていたから、新鮮といえば新鮮だ。
「で?アタシにわざわざ声をかけてきた理由は何さ」
「理由?別にないな」
「はあ?」
「強いて言うなら喋り相手が欲しかったってとこだな」
運ばれてきたナポリタンを頬張りながら、その男は事も無げにそう言った。曰く、男は旅人で、たまたま風の噂で異形が見れる酒場の話を聞いたらしい。
「え、じゃあ別に国を滅ぼしてほしいとか、敵を殲滅してほしいとか、そういう理由ではないわけ」
「物騒だな…俺がそんな一国を背負っている人間に見えるか?」
「いや見えないけども」
「だろ?」
男はニヒルに笑う。
「俺は気ままなしがない旅人。それ以上でもそれ以下でもねえよ」
「…変なやつ」
そう、男は変なやつだった。髪はボサボサ、無精髭。けれどもその目つきの悪い瞳からは、只者ではない鋭さが見え隠れしている。男がナポリタンを黙々と食べ続ける中、アタシは自分の食事も忘れ、ただ目の前の男を静かに観察していた。
「つまみを適当に何品か、あとは…」
ナポリタンを食べ終えた男は、ウエイトレスを呼んで更に何品か注文したらしい。
「まだ食べんの?」
「まあ見てろ」
暫くして黄緑頭の新人ちゃんが持ってきたのは、ナッツや干し肉といった軽いおつまみと、グラスの中で綺麗に二層に分かれた不思議な色のエールだった。
「何それ、エールだよね?」
見たことのないそれに、アタシはつい口を開く。ここに来て随分と長いが、こんなメニューは見たことない。
「ああ、このあたりのやつは飲まないのか?ハーフアンドハーフ」
「ハーフアンドハーフ?」
「そもそもスタウトを飲んでるやつがいないようだからな…これはエールと黒いスタウトを半々で入れてるんだ。だから二層になってる」
「ほんとだ、綺麗だね」
「お前を見てたら飲みたくなったよ」
「え?」
「この色、まるでお前の翼みたいじゃないか」
そっちの羽毛の翼がスタウト、硬そうな橙色の翼がエール。どうだ?と男は得意げにニヤリと笑う。百年近く生きてきたが、アタシのこの翼を酒に例えられたのは初めてだった。
「…ふは、なにそれ!」
男の手に握られたグラスに、照明の淡い光が反射する。透けたそれはキラキラとしていてとても綺麗だ。この忌々しい翼をそんな風に表現する人がいたなんて。
「アンタは随分とロマンチストなんだねえ」
「思ったことを口にしたまでさ」
グラス越しに男と目が合う。射抜くような三白眼に、心臓がどくりと跳ねた。
「…ねえ、それ美味しいの?」
「両者のいいとこ取りって感じだな。スタウトの濃厚さが消えずに爽やかなエールと合わさって飲みやすくなる…美味いよ」
そう言って男はぐいっとグラスを傾ける。いい飲みっぷりだ。
「お前は酒は飲まないのか」
「契約でね、飲食の時間は決まってるんだ。でもって酒は対象外」
「そうか、残念だな」
お前とならいい酒が飲めそうなんだがな。そう言った男の顔は何故か哀愁に満ちていて、アタシは少し申し訳ない気持ちになった。
それからは、二人でさもない話をした。西の国では今祭りの季節だとか、そこで出てくる魚が絶品だとか、東の国の宰相が死んだとか、もうすぐ季節は冬だとか。とりとめもない話ばかりだったが、旅人というだけあって男の話は臨場感がありとても面白かった。そして同時に、アタシがいかにそう言った楽しみを知らずに長い年月を過ごしていたかを知った。
「…お客様、申し訳ありませんがもうそろそろ終わりの時間ですの」
「ああ、そうなのか。…最後にもう一杯、これをくれないか」
「ハーフアンドハーフですね、畏まりました」
「あともう一杯、金は払うから、コイツにも同じのを」
「え」
いやいやアタシは、とそう言おうとしたが、男がそれを制止する。
「付き合ってもらった礼がしたいだけだ。自己満足のためだから気にするな」
ついでに勘定も頼む、とそう告げる男の横顔に、アタシは今まで感じたこともない切なさを覚えた。男がグラスを空にしたら、もう多分一生、コイツと顔を合わせることはない。
それは、なんだかとても嫌だった。
「お待たせ致しました。ハーフアンドハーフです」
オーナー自ら、オーダーを持ってきた。その手には確かにグラスが二つ。ふと彼女と目が合った。長い付き合いだ、彼女の言いたいことは一瞬で理解した。
「…はっ、どいつもこいつも変わり者ばっかだねえ」
アタシは初めて、目の前の鉄格子に力を込めた。ガンッという鈍い音を立て、鉄格子はいとも簡単に折れた。あまりの呆気なさに、今までのアタシの意固地っぷりは一体なんだったんだろうとも思ったが、今は過去を振り返っても仕方がない。
「ほんと、規格外なお人だこと」
「これ、貰うよ」
「お好きにどうぞ。こちらの方からですわ」
足枷を引きちぎり、アタシは初めて檻を出た。オーナーからグラスを受け取る。手に持ったそれはひやりとしていて、近くで見ても芸術的な美しさだった。
「檻の修理費はツケにしておきますわ」
「はいよ」
そう言い残して彼女は去っていった。全くもって良い女だ、こんな酒場の主人にしておくのは勿体無いくらいに。
「さて」
アタシは男に向き合う。目の前に立って初めてわかったが、コイツは意外に背が高かった。
「改めまして、こんばんは」
「酒は対象外だったんじゃなかったのか?」
「たった今許可がおりたからね」
それに、とアタシは付け加える。
「"アタシみたい"なんて魅力的な言葉を並べられちゃあ、飲まないのは失礼でしょ」
調子良くそう言えば、男は心底愉快だというように声を上げて笑った。
「単に飲みたかっただけだろ」
「ふは、まあ良いじゃないの」
お互いに顔を見合わせる。胸が高鳴っているのは、エールへの期待か、それとも別の何かか。
「「乾杯!」」
グラスとグラスを勢いよくぶつけた。初めて口にするそれは、苦いはずなのになぜか甘くて、涙が出そうになるくらい美味しかった。