「ねえ環くん、わたしね」
耳元ですくいさんの声がする。甘くてふわふわとしたその声は、驚くほど自分の耳によく馴染む。しかし一方で、声だけでは満足できないと思ってしまうのは、身の丈に合わない我儘だろうか。今すぐ彼女の顔を見たい、はにかむ笑顔をみたい。そう思うのは、俺が彼女のことを好いているからに他ならない。
「わたし、ずっと考えていたことがあるの」
彼女の鈴のような声の後ろで、ごりごりと何かを擦るような音が聞こえる。何だろう。もしかして料理でもしているのだろうか。彼女の料理は暖かくて、派手さはないがとても美味しい。家庭的、というのだろうか。君の作る味噌汁を毎日飲みたい、というプロポーズが世間一般にあるが、使い古されていなければ俺も使ってみたかったと常々思っている。もちろんベタすぎるので使わないが。
「すくいさん…?」
「わたしね、環くんには、ずっとずうっと、生きていてほしいと思うの」
彼女の名前を呼ぶ。しかし彼女はまるで俺の声など聞こえていないかの様に答えない。ただただ、縋るように、うわごとのように何かを呟いている。
「ヒーローって、やっぱりどうしたって、危ない職業でしょう。後方支援のわたしと違って、環くんは強いから、前線に出なくちゃいけないし」
すくいさんは一体何の話をしているんだろう。無理やり起き上がろうとするが、身体が鉛のように重い。それでもなんとか身体を起こすと、すくいさんの小さな背中が見えた。
「わたしね、環くんが死ぬところを見たくないの。怖いの、環くんが動かなくなって、冷たくなるのが。想像しただけで、心臓が止まりそうになるの」
「すくい、さん?俺の声、聞こえてるなら、返事、して」
「…ねえ環くん、知ってる?」
すくいさんは答えない。なおも一人で話し続けている。完全なる一方通行だ。出来ることなら今すぐにでもその肩に手を置いて、無理やりにでもこちらを向かせたいのに、自分の身体が言うことを聞かない。焦燥だけが募る。
「月にはうさぎが居るでしょう、うさぎは餅をつくと言うけど、本当は違うの。あれは不老不死の薬を作っているのよ」
うさぎ、唐突に出てきたそのワードに疑問符が浮かぶが、何故だろう。その瞬間、彼女の後ろ姿に白い耳と尾が見えた。これは果たして幻覚だろうか。いや幻覚以外ありえないのだが、だとしたら何故。ここは一体何なんだ。
「おもちだったら、ふたりでおいしく食べれたのかなあ。わたしはきな粉が一番好きだけど、環くんはお雑煮だよね…でもごめんね、今わたしが作ってるのは全然美味しくないの。良薬口に苦しって言うし、そこは我慢してね」
ごりごりごりごりと、不快な音は続く。
「孔雀石はね、こうして粉々にして粉末にするの。魔除けとかにも使われる石なんだ。環くんが綺麗な色だって、好きだって言ってくれたの、わたしすごい嬉しかったなあ」
孔雀石とは何だったか。暫し思案して、あ、と思いつく。いつだか彼女とショッピングに行って、彼女の好きなストーンショップに入った時に、俺が何となしに言ったんだ。すくいさんの瞳に似てて、綺麗だ、って。
「片方なくなっちゃうけど、もう片方は残しておくから、また綺麗な色だって褒めてね」
彼女の言っていることは何一つ理解できない。ただ、嫌な予感がすることだけは俺にもわかる。
「わたしは、これくらいしか役に立てないから。環くんが生きてくれるなら、それで幸せなの」
それは違うよ、と。そう言いたいのに声が出ない。役に立たないなんて、そんなこと言わないでくれ。すくいさんは、俺なんかを好きって言ってくれて、恋人になってくれて、俺の、俺の全てなのに。
「環くん、すきだよ」
待てよすくいさん、そう手を伸ばした。全ての力を振り絞って俺は彼女のもとに向かって走り出す。彼女に触れたくて、抱きしめたくて、こんなに恋焦がれて彼女の名を呼んでいるのに、彼女は頑として振り向いてはくれない。
「すくいさん…!」
ようやく彼女のもとに辿り着いた。彼女を振り向かせようと肩に手をかけたところで、俺の面前に小さな皿が差し出された。その上には、淡い緑色の粉末がちょこんと乗っていた。
「わたしが丹精込めて作ったんだから、残しちゃだめだよ」
そういって彼女は俺に口付けをした。軽い、触れるだけのそれ。
−−−−−そして次の瞬間、気付けば俺はベッドの上にいた。
「あ…れ」
「天喰!目が覚めたか」
「……塵炭、先生…」
「良かった、一時はどうなることかと…目が覚めて本当に良かった…」
いつもはあんなに気丈な塵炭先生が、泣いている。動く範囲で首を動かすと、そこが病院の一室であることがわかった。
「今医者を呼んで…」
「…先生…」
「なに天喰、どうかした…」
まだ覚醒しきっていない頭で、俺は、部屋を出ようとする塵炭先生を引き止める。どうしても確認したいことがある。
「前、授業で教えてもらった…淡い緑色の顔料って…何でしたっけ」
「…唐突に何、夢でも見たの?」
「いえ…ただ、気になって…」
「…白緑。マラカイト…孔雀石を砕いて作る顔料だよ」
白緑。そうだ。確かに最後に見たあの粉末は、授業で塵炭先生に見せられたものとよく似ていた。孔雀石を砕いた、粉末。
「先生…、」
「今度は何…」
「すくい…あの、匙測さんは」
俺の言葉に、先生の顔が引き攣ったのがわかった。まさか、そんな。俺は勢いよく身体を起こしたが、身体中を襲う激痛に耐えられず、またベッドへと倒れ込んだ。
「おい無理すんな!…生きてるよ、大丈夫。何ならオマエより軽傷だ。ただ…」
いつも明朗な塵炭先生が言い澱むのは珍しい。俺は思わず身構える。大丈夫だ、彼女は生きていると、先生は今そういったじゃないか。
「先生?」
「…本人が言うに、飛んできた瓦礫が運悪く当たったらしい。手術はしたけど、右目はもう機能しないそうだ」
ひゅう、と喉が鳴ったのがわかった。
−−−−−わたしが丹精込めて作ったんだから、残しちゃだめだよ。
彼女の最後の台詞が、耳の奥にこびりついている。ああ、君は、俺を生かすために、その目を差し出したのか。俺は、君を食べてしまったのか。…いくら問うても、脳裏に浮かぶうさぎ耳の彼女から答えはない。
なあすくいさん、答えてくれ。これは現実か?