波の音が聞こえる。
俺が一歩足を踏み出す度、足元の砂がキュッキュッと小さく鳴いた。この音は綺麗な浜の象徴で、石英の摩擦によるものだと、高校時代に教師が説明していたのを頭の片隅で思い出す。
「(潮の匂い…はしないか)」
当てもなく海岸を彷徨う俺の心は凪いでいる。随分と長い間、歩き続けているような気がするが、疲れは感じない。何故ならこれは夢だから。所謂、明晰夢というものだろうか。このシチュエーションも、もう何度目かわからない。前方にいるのは、名前も知らぬ女性。キャラメル色の髪が、海風に揺れている。彼女の横顔はいつも物憂げで、ぼんやりと遠くを見つめている。
そんな彼女を見つめる俺。その視線が交わることはない。声を掛けるか、掛けまいか悩んで、いつの間にか陽が落ち、夜が明け、それを何度も繰り返す。ようやく俺の声帯が震えかけ、そして。
「……………」
俺の夢は、いつもここで終わりを告げる。カーテンから漏れる光が、寝起きの瞼に刺さった。
気怠い体を起こしてキッチンに向かう。6枚切りの食パンをトースターにセットして、コーヒーメーカーの電源を入れた。鼻腔を擽るコーヒーの香り。コポコポと湧く心地良い音を聞きながら、冷蔵庫の中を漁る。彼女がたくさん詰めていってくれたおかずのタッパーも、もうだいぶ少なくなってしまった。
「だって辰也くん、用意していかなかったら朝コーヒー、昼ジャンクフード、夜ピクルスとかで1週間生活しそうだもん」
お酒もほどほどにね、なんてぼやきながら手際良くおかずを作っていくはづきの後ろ姿が懐かしい。出会った当初は、手を怪我したらどうするんだと咎めたものだが、彼女は朗らかに「そのときは休業して辰也くんに養ってもらうんだあ」なんて笑っていた。学生の頃からピアノが上手で、音楽の神様に愛されていたはづき。その才能を世間が放っておくはずもなく、現在の彼女は新進気鋭のピアニストとして忙しく世界を飛び回っている。必然的に家を空けることが多くなった彼女に反し、俺は在宅勤務がすっかり板についていた。それなりに有名な企業で人からは羨ましいと言われるが、所詮は平凡なサラリーマンだ。俺が真に望んでいたものではない。
トースターから軽快な音が鳴った。こんがり綺麗に焼けたトーストにバターを塗る。皿を用意するのが面倒で、シンクの上でそのまま齧り付いた。はづきと色違いで買ったお揃いのマグカップに、淹れたばかりのコーヒーを注ぐ。香りを嗅いで、一口。
「アレクサ、柏谷はづきのアルバムを再生して」
これもいつものルーティン。アレクサに頼んで、先日彼女が発売したばかりの演奏音源をかけてもらう。彼女の人柄を表すような、温かみのある軽やかなピアノ。その音色をBGMに、俺は1人で思案する。
思い出すのは、いつも夢に出てくるあの風景だ。ここ最近何度も見ている夢。既にインターネットで検索済みの結果を、心の中で反芻する。女々しいと思っていた夢占いは、なかなかどうして的確だ。
「何かに区切りをつけたい気持ち…な」
区切り。そう、区切り。物事を一段落させ、結着をさせること。俺の人生、区切りをつけたいものばかりだ。年甲斐もなく抱く才能への執着、そして、はづきとの関係も。
×××××
波の音が聞こえる。
ああ、またか。もう驚きすら感じない。あいも変わらずキュッキュッと鳴る砂浜の音は、どことなく彼女が実家で飼っているという小鳥の囀りを連想させた。俺はあまり動物を愛でる習慣はなかったから、直接触れ合った経験は殆どないけれど。彼女から時折見せられる動画の中では、確かこんな鳴き声をしていたような気がする。
「………ふっ」
そんな自分の思考に、自嘲的な笑みが溢れる。こんな然もない事象一つからでも、はづきとの思い出がすぐに蘇る。伊達に長いこと、彼女と一緒にいたわけではない。高校から数えておそよ15年、人生の半分を一緒に過ごしてきたことになる。いつしか隣にいることが当たり前になっている彼女。彼女のことは好きで、こんなに愛おしく思っているのに、最後の一歩を踏み出せないのはどうしてだろう。
やがて、キャラメル色の髪が海風に揺れたのが見えた。今日も今日とて、例の女性はそこに一人佇んでいる。案の定、その女性が俺を見ることはない。未だ横顔しか知らない女性に、俺は意を決して話しかける。
「なんで、ずっとそこにいるんだい」
初めて、俺の声帯が震えた。女性は、ゆっくりと俺の方を向いた。交わる視線。年齢は、きっと同じくらいか。
「人を待ってるの」
「…人?」
「約束をしたから。海の向こうから、彼が来てくれるのを待ってるの」
隣に座っても?と尋ねると、退屈凌ぎには丁度いいね、と彼女は笑った。
「結婚の約束をしているの」
ぽつりぽつりと、彼女は語りだす。難破していた船を助け、そこで男と出会い、恋に落ちたこと。船の修理が終わり、彼が母国に帰ったこと。必ず戻ってきて、結婚してくれると約束したこと。
「どれくらい待っているんだい」
「さあ。もう数えるのは辞めてしまったから」
憂いを帯びた表情で笑う彼女。それでも、目には光が宿っているのがなんとも不思議だった。
「相手は、どうして来ないのかな」
「それは、私が一番知りたいんだけど…。まあ、結婚が嫌になったのかもね」
「…怖気付いているとか。もしくは、引け目を感じているとか」
「そうかもね。身分差とか、色々あるから」
そういう彼女の装いは、確かにシンプルながら上質な生地を使っているように見えた。きっと、相手の男の方が身分が低いということなのだろう。もしかすると、ここは現代よりもずっと昔の時代なのかもしれない…なんて無駄な考察を脳内で繰り広げる。
「…そういう貴方は、どうしてなの?」
突如彼女から発せられた言葉に、俺は思わず狼狽える。何故、と言いかけて、よくよく考えてみればこれは俺の夢だということに気付いた。言うなれば、自己と対話しているようなもの。あまりにストレートな自問自答に、思わず笑ってしまった。
「…どうしてだろうね。はづきのことは間違いなく大切で、愛しているはずなのに」
「天才を縛り付けるのがそんなに怖い?」
「俺なんかが隣に立っていいのか、とは思うかな」
"人生が公平であることを期待するな"……俺の人生の中で、何度も自分に言い聞かせた言葉。その分別がつく程度には、自分も大人になったと思う。それでも、才がある人間が羨ましいという感情が己の中から消えることはない。
「…いや、違うな。才能に嫉妬する自分を彼女に知られるのが嫌なんだ」
自分の中に確かにある浅ましい感情。バスケで培った劣等感は、俺の心の隅々まで根を張って、バスケを辞めた今でも変わらずに存在し続けている。俺は"天才"が嫌いだ。そしてそれは、はづきとて例外ではなかった。
「彼女が名声を得るたびに、喜ばしいと思う反面、苦々しくも思うんだ。もし彼女が凡人だったのなら、こんな醜い感情を持て余すことなく、もっと彼女の全てを愛せるのではないかって。いっそ手を怪我してくれれば、ピアノが弾けなくなってしまえば……そんな酷いことが頭をよぎるんだ」
彼女のことは愛している。でも同時に、憎々しさも感じてしまう。そんな自分が、彼女を幸せにできる自信がない。
「最低だろう?こんな悍ましいことを考えている俺が、結婚を申し込んで良いわけないんだ」
「…でも、好きなんでしょう?」
彼女の言葉に頷く。
「じゃあそれが全てじゃない。綺麗な感情しか抱いてはいけないなんて、誰が決めたの?」
「それは、そうだけど」
「人間だもの。全てが全て、世に出しても恥ずかしくない感情ばかりではないでしょう」
彼女のいうことは尤もだ。けれど、この感情を何より嫌う自分からしてみれば、そう簡単に同意できることではない。
「苦々しく思っても、離れることなく15年も一緒にいる時点で、答えは出てるようなものだと思うけど」
「…はづきは、俺のこの感情を知ったくらいで離れていくような人じゃないって、わかってるんだ。だから、踏み出せないのは、俺の問題」
答えは最初から出ている。ただ、俺が意気地なしなだけ。
沈黙が続いた。寄せては返す波をぼんやりと眺めながら、2人して無言で海を見つめた。波の音が果てしなく広い空間に響き渡る。船は、やっぱり来ない。
どのくらい経っただろうか。彼女が、ゆっくりと口を開いた。
「…私は、自分に持ってないものをたくさん持っているあの人が、私なんかを選ぶ筈がなかったって、心のどこかでは理解してる。だけど、今もこうして待ち続けてる」
「それは、苦しくないの」
「苦しいよ。でも、たとえ永遠に彼が現れなくても、それでもいいかなと思ってる。そりゃあ、時間は有限だし、早く来てくれるに越したことはないけれど」
「どうして」
俺の問いに、彼女はこちらを向く。その表情は、諦めにも似た表情で、けれど、瞳だけは不思議と光を集め輝いていた。
「彼のことを愛しているから。それ以外できないの」
強い光を放つ彼女の瞳に、言葉が詰まる。最初に感じた瞳の違和感が、ようやく理解できた。
「君は、強いね」
「結局は、惚れた弱みよね。だから私は死ぬまで待つことしかできない」
「…きっとはづきもそう言うんだろうな」
「彼女も、きっと待ち続けるよ。貴方が何も言わない限り」
彼女の姿に、はづきの姿が重なる。確信があった。彼女とはづきは同じだ。愚かな男を、待ち続ける強い女性の姿。
「私は多分、もう彼に会うことはできないんだと思う。でも、貴方たちは違うでしょう?」
その瞬間、ぶわっと勢いよく風が吹いた。思わず目を瞑り、瞬きをひとつ。次に目を開けたときには、彼女の姿はもうどこにもなかった。あったのは、1本の木。その木の姿には見覚えがあった。
「アーモンド…?」
どこで見たのか、思い出すことはできない。けれども、俺はこの木を知っている。記憶の中にある姿では、可憐な花をつけていたが、蕾すらないその木はどこか寂しげだ。梅のような、桃のような、しなやかな枝が海風に揺れている。
「私みたいには、させないであげてね」
風に乗って、どこからか声がした。先程までここにいたはずの女性の声だ。そして、理解する。きっと目の前のこの木こそが彼女なのだろう。それ以降、声は聞こえなかった。俺は、永遠ともいえる時間、ずっと目の前の木が海風にたなびくのを見ていた。けれど、いくら待っても、終ぞその木が花開くことはなかった。
そうして、俺の記憶はここで途切れた。
×××××
「……………」
目が覚めた。長いこと夢を見ていた気がするが、時計の針はいつも通りの起床時間を指している。きっともうこの夢を見ることは無いんだろうなあと、俺は本能的に理解した。
服を着替えた俺は、最低限の身支度を整えて、車を走らせた。行き先は、二駅ほど先のホームセンター。衝動的に俺は、園芸用の土と小さな如雨露、そしてアーモンドを大量に買った。家に帰り、ベランダの隅で長いこと存在を忘れられていた、おそらく前の住人の忘れ物であろう煤けた植木鉢を引っ張り出す。埃を払い、小さな植木鉢に順にそれらを詰め込む。如雨露に水を溜めて、勢いよく植木鉢に注ぐ。如雨露を傾けながら、前の住人は、この植木鉢に何を植えたのだろうか…なんて思いを馳せる。
「よし」
ひとしきり満足したところで、大量に余ったアーモンドに目を向ける。「お徳用」と赤字で大きく書かれたその袋の中には、まだ大量にアーモンドが残っている。一粒、口に含む。香ばしい香りが口の中に広がる。ああ、コーヒーが飲みたい。
達成感と疲労感から、ベランダで小休止していると、下からガラガラと物音がした。キャリーケースを引く音。それは段々と近づいて、やがて家の玄関の扉が開いた。
「ただいま〜」
現れたのは、はづきだった。予定では明日帰宅だと聞いていたのだが、随分と早いお帰りだ。
「はづき?予定より早いね」
「観光しようかと思って多めに日程取ってたんだけど、時間余っちゃったから早い飛行機で帰ってきちゃった」
「そっか。長旅お疲れ様、おかえり」
「へへ、ありがとう」
1週間ぶりに会ったはづきは、いつもと変わらない笑顔で、少し安心した。抱きしめると、香水だろうか。少しだけ異国の甘い香りがした。
「ちゃんとご飯食べてた?」
「はづきはそればっかりだな。君がきちんと用意してくれたから健康体のままだよ」
そんな会話をしながら、彼女の視線がベランダに移ったことに気づいた。窓際に放置されたアーモンドの袋が、しっかりと存在を主張している。
「ごめん。はづきが帰ってくると思ってなかったから、乱雑にしてた。すぐ片付けるよ」
「ううん、それはいいけど…。お徳用アーモンド?辰也くんそんなにアーモンド好きだったっけ」
「うーん、まあちょっとね。でもこんな大袋を買う必要はなかったなって少し後悔してるよ」
衝動的に買ってしまったとはいえ、もう少し少量でも良かった。苦笑しながらそう伝えると、はづきは興味津々といった様子でアーモンドの大袋を手に取った。ラベルの成分表示を見ながら、アーモンドを頬張る姿がなんとも可愛らしい。
「へえー。これだけあるとなんでも作れちゃう気がするねえ。あ、蜂蜜に漬けるのとかどうかな?無難にクッキーもいいかも…」
レシピを考えながら台所に向かう彼女の後ろ姿に、俺は我慢できず声をかける。
「…アーモンドを炒ってさ、バターを絡めて…色とりどりの砂糖でコーティングするのはどうかな」
「あー、そういうお菓子あったよね。なんだっけ…」
「みんなに配りたいんだ。アツシとかタイガとか、陽泉の先輩方とか。お世話になった人全員に」
そこまで言って、彼女の後ろ姿がぴくりと固まったのがわかった。きっと、彼女も理解したのだろう。俺の、次の言葉を。
「結婚、したいんだ。はづきと。駄目かな」
「……………」
返事はなかった。ただ、肩が震えているのがわかった。俺は思わず後ろからはづきを抱きしめる。
「…ごめん、こんないきなりするものではなかったね。後日改めてちゃんとした場で言わせてほしい」
「び、っくりさせないでよ。辰也くん、急すぎるよ」
「ごめん。でも、結婚、したいんだ。それだけは、一刻も早く伝えたくて」
「うん」
「ずっと、待たせてごめん」
彼女が鼻を啜るのがわかった。嬉しいのか悲しいのか、彼女の心境がわからなくて、俺は祈るように抱きしめる力を強めた。やがて、震える声ではづきが話し始めた。
「…待つことは苦じゃなかったよ。私もここ数年慌ただしい生活送ってたし……」
「うん」
「辰也くんが最後まで結婚って形を選ばなくても、こうして一緒にずっといてくれるなら、それでもいいかなって…これって惚れた弱みかな」
そこまで言って、俺の腕の中で彼女がくるりと回った。振り返った彼女の顔は、笑っていた。
「でもやっぱり、嬉しいね」
「はづき…」
「言ってくれてありがとう。どうか、私と結婚してください」
涙でぐしゃぐしゃのその笑顔がたまらなく愛おしくて、俺は彼女に口付けをした。ごめん、そして、ありがとうの気持ちを込めて。
「…そういえば、園芸でも始めるの?」
しばらく抱き合ったままでいると、不意に彼女が呟いた。彼女が知りたいのは、ベランダに広がった見慣れない光景の理由だろう。そりゃあ、これまで全く興味すらなかった男が急にガーデニングを始めたら、驚くのも無理はない。
「実は、アーモンドを入れてみたんだ。願掛け…みたいなものかな」
「アーモンド?このお徳用の?」
怪訝そうな顔をするはづき。どうやら後で調べてみると、食用として売られているアーモンドでは発芽はしないらしい。知らなかった。
「辰也くんって意外と抜け…お茶目だよね」
「はは…。まあ、願掛け自体の効果はあったから、結果オーライかな。庭付き一戸建てを買ったら、その時はまたチャレンジするよ」
夢の中の彼女を思い出す。いつかあの寂しかった枝に、綺麗な花をつけてやりたいという、単なる俺の自己満足。
「アーモンドの木かあ…前に一度行った植物園にあったよね?桜みたいな花が咲いてたの」
「…!」
「札に花言葉とか逸話とか色々書いてあったよね。なんだっけ、結婚の約束した人を永遠に待ち続ける王女様の話…」
彼女の言葉を聞いて、頭の中にかかっていた霧が一気に晴れていくのを感じた。
「…花言葉が、王女の"永遠の優しさ"と、恋人を裏切った若者の"愚かさ"…だっけ」
「そうそう、辰也くん記憶力いいね」
「いや、はづきに言われるまですっかり忘れてたよ」
本当に忘れていた。思い出して、心の中で安堵する。彼女は最後まで男を待ち続け、そして最後は男と再会することができたのだと。彼女は、きちんと報われていたのだ。
「毎年アーモンド収穫できるの楽しそうだねえ」
「そうだね。毎年、二人で収穫しよう」
はづきと指を絡める。ああ、指輪を買いに行かなければならない。どこのブランドがいいだろうか。結婚式の準備も、いや、それよりも先にすべきは両親への挨拶か。これから忙しくなる。一抹の不安はあるが、心は思った以上に晴れやかだ。
「とりあえず、作ってみる?せっかくこうしてアーモンドがあるし」
「ドラジェ、ね。…言ったは良いものの、ちゃんと作れるかな?」
「まあ、失敗してもさ。何回かやってみようよ。辰也くんとならわたし、なんだってできる気がする」
「…そうだね」
彼女の笑顔が眩しい。きっとこれから先、君を隣で見ることが辛くなることがあるのかもしれない。君のことが嫌いになって、それ以上にそんな自分が嫌いになることがあるかもしれない。
それでも、はづきとなら永遠に、この世界を歩んでいける。そんな気がするよ。
アーモンド・ドラジェの祝福