あいつが泣かなくなったのは、一体いつからだっただろう。あいつの性質は本来、感情豊かでよく笑いよく泣く、まるで子供のようなモノだった筈だ。それが、大人になりヒーローになり教師になり、いつしか他人に涙を見せることはなくなった。それを成長と捉えるか我慢と捉えるかは人それぞれだろうが、俺は、あいつの頬に浮かぶ涙跡をなぞることが出来ないのが、ただただ残念に思えてならなかった。
「…−−−−ァ」
目を開けてまず視界に入ってきたのは、年季の入った煤けた天井だった。次いで耳を澄ますと、スウスウと規則正しい寝息が聞こえてくる。起き上がろうにも、身体のあちこちが固定されており動くことは叶わない。点滴の刺さる腕をなんとか持ち上げ、真横で眠る彼女に触れる。濡羽色の艶やかな髪が、酷く懐かしく思えた。
「ん、」
起こしたか、とそう呟いた筈だったが、言葉が空気を震わすことはなかった。けれども彼女には伝わったのか、ゆったりと顔をあげた彼女の寝惚け眼と目があった。一瞬の間を置いて、これでもかと見開かれる瞳。
「…しょう、た」
髪色と同じ濡羽色の瞳が、みるみるうちに滲んでいく。彼女の頬にはいくつもの跡がついていて、ああ、早速叶ってしまったなあと彼女の泣き顔を眺めながら思った。夢の中ではあんなにも彼女に泣いてほしいと願っていたのに、いざそうなってみると罪悪感ばかりが募ってしまって心臓に良くない。
「心配、したんだから、ばか…」
すまん、とそう伝えたいのに声が出ない。俺は声の出し方を忘れるくらい長く眠っていたのだろうか。未だはらはらと涙を流す彼女に、もう大丈夫だからと伝えたくて、俺はその涙跡をゆっくりなぞった。
「……………」
学生時代から、密かにずっと焦がれていた。天真爛漫なお前の、そのよく溢れる涙の跡を隣で拭ってやりたい−−−−と。大人になって漸く巡ってきたその役目は、長年思い焦がれてきた割には、感激も感動も何も浮かばなかったし、やっぱりお前には笑顔が一番だよ、と柄にもないことを考えてしまう程度に、さして良いものでもなかった。
*****
あれから暫くして、いつもの調子を取り戻したあいつは、先生呼んでくる!と勇んで病室を出て行った。医者や看護師がわらわらやってきては、あれよあれよという間に身体中の管やら何やらを外され、思っていたよりもあっさりと処置は終了した。どうやら自分は丸2日ほど眠りこけていたらしい。俺ももう歳かな。
「目の下、多分傷跡残っちゃうって」
先程とは打って変わって、気丈に振る舞う彼女の目は未だ赤い。何か話題が欲しかったのか、彼女は鏡見る?と俺に手鏡を渡してきた。正直男、しかも既にオッサンである自分の顔に傷が残ろうが残るまいがどちらでもさして変わりはないのだが、彼女がずいっと差し出してくるものだから、断りきれずに受け取ってしまった。
「イケメンが台無しだね」
「絶対思ってないだろ」
水分を補給したら、声もだいぶスムーズに出るようになった。言われるがままに鏡を見れば、そこには包帯まみれの自分の顔が写っている。いやいやこれじゃあ傷跡云々なんてわかるわけないだろ、とつっこみたかったが、手鏡越しの彼女が嬉しそうなので、わざわざ水を差すのはやめた。
「…お前さ、昔言ってたよな」
「何?」
滑稽な自分の顔面を眺めているうちに、ふと思い出した。それはもう遠い記憶、俺とこいつがまだ制服を着ていた頃だった。
「なんかの演習で一緒になったとき、顔面怪我した俺に対して、"傷物になったらアタシが貰ってあげるよ"って」
「そんなこと言ったっけ」
「言った。そんときは性別逆だろって思ったんだが…」
そこまで言って、俺は言い淀む。次の言葉を発するのは、自分でも思った以上に心の準備がいるらしい。
「……………」
「…消太?」
下手に言い淀んでしまったお陰で、いよいよ口に出すタイミングがわからなくなってしまった。いっそ今からでもやめてしまおうか、大体、一体全体どうしてこんな包帯まみれの時に言わなきゃいけないのか。ダサいにも程があるし何より女々しい気がして嫌だ。よしやめよう、何でもなかったで終わらせれば良い…そう思って、目の前のこいつの顔を見た瞬間、俺のうじうじした悩みなんてものは一目散に逃げて行った。
気付けば至ってスムーズに、するりと口から出ていた言葉。
「…傷物になったら貰ってあげるって、それ、今も有効か?」
「…ばかだなあ、今それ言う?」
案の定馬鹿にされた。しかし俺の心は余裕で満ち溢れている。だってほら、こいつの顔見てみろ。
「そんな期待に満ちた顔されちゃ、最後まで言わなきゃならんだろ」
またしてもその黒曜石のような瞳からぼろぼろと惜しみなく涙を零す彼女に、ほんと、やっぱお前は生粋の泣き虫だな、一体どこからその水分は出てるんだと逆に揶揄ってやった。
「あんたは狡いよ」
「そうか」
答えは聞くまでもない。俺は手を伸ばして、彼女の透き通る頬に伝う涙を拭いた。
…前言撤回。やっぱりこいつの涙をなぞるのは、今後は俺だけの特権にしたい。