キセキ 01

「勘違いしないでっ! 気持ち悪いっ!」


 そんな無慈悲な言葉と共に、パシンと音が鳴ったかと思えば、その瞬間にドサッと一人の少年が地面に這いつくばるように倒れた。
 途端に目に溢れる涙。人目も憚らずにオウオウと声を出して泣いている。
 彼の名は、我妻善逸。
 その名を知らない人はこの学校、いやこの学区の中にはいないと思われる。彼がイケメンだとかモテるとかそういう類の話ではなく、むしろその逆で…――勝手に付き合ってると勘違いして振られた数は百を超えるという、妙な噂だった。
 もちろん、その数が正しいかどうかは誰も知らない。
 ただ事実として分かるのが、誰一人彼と付き合ったことがある人はいないということだった。そしてたった今、その数を更新した。



「善逸! 大丈夫か?」
「あうー炭治郎ぉぉ! 痛い! 痛すぎて死んだよ俺! 頬も心も痛い! もう人生終わった! もう死んでやる!」
「弱いな紋エは! 俺様みたいに鍛えねぇから!」
「鍛えるとかじゃねぇし! 伊之助は黙ってろ! もうお先真っ暗だよ。人生何も楽しいことないよ!」
「何言ってんだよ、振られたくらいで……あ、」


 嘘がつけない炭治郎がつい本音を言ってしまったせいで、善逸の毒がグルグルと体中を駆け巡っていた。
 振られたくらいだと!? ふざけんなよ! いいよなお前達は!! 彼女いんだもんな! 俺だけだぞいないの! なんでのほほんとしてる炭治郎と食い物ばっか食べてる伊之助には彼女がいて、俺だけいないんだよ! 俺が一番常識あんだぞ! ふざけんな! 呪ってやる! 呪ってやる!!
 ネチネチとそんな事を心の中で叫んでいた善逸だが、頬がヒリヒリと痛すぎて、そして悪気なくそんな言葉を言った友が哀れに自分を見ているのが悲しすぎて言葉にならなかった。
 もういい、とでも言いたげな目を二人に向けた善逸が立ち上がろうとした瞬間、スっと視界に入ってきた華奢な手に、思わず固まった。
 顔を上げると、彼の目に映ったのは学年でトップを争う可愛さで有名な藍沢ハルが、「大丈夫?」と小首を傾けて善逸に手を差し出していた。
 突然の出来事に、善逸の脳内は混乱している。
 天使が舞い降りてきた、とでも言いたげた顔で、先程まで悲観していた顔が少しずつ歓喜に満ちていく。
 その後すぐに、「ハル!」と声を上げたのは、伊之助の彼女でもあるミオだった。
 二人は同じクラスで仲が良い。
 伊之助に会いにやってきたミオに付き添って、中庭の渡り廊下にある自販機で飲み物を買いに来たハルは、たまたま目にした惨劇の光景に思わず手を差し出しただけだった。
 それなのに、これは善逸が勘違いをするだろうと、誰もが思った瞬間だった。



「おぉ、ミオ! 今日の弁当はまだか? 腹減ったぞ」
「まだお昼じゃないよ! でも……ジャーン! おにぎり持ってきたよ。食べる?」
「さすがだな! よし、食おうぜ」


 いつもなら心に毒を吐くこの会話も気にならないくらい、善逸の目と耳はハルに釘付けだった。
 すでに、さっき振られた事なんてもう頭になかった。


「善逸くん? 大丈夫?」
「え、俺の名前…知ってるの? うそ! これって……」


 まるで運命とでも言いたげな善逸だが、彼の名前を知らないものは誰もいないであろう。
 でもそれをハルは言わずに、笑顔を向けると、なかなか掴まれずに浮いたままだった手を伸ばし善逸の手首を掴んで立たせてあげた。
 途端に頬を紅く染めた善逸。叩かれた場所はもっと赤くなっているが、それはもう気にも止めてなかった。


「ハル、ちゃん…ありがとう」
「痛そうだね」
「全っっ然、痛くないよ! 大丈夫! 蚊に刺されたみたいなもんだよ!」
「あはっ! でもちゃんと冷やしてね?」


 そう言って、赤く腫れた善逸の頬をハルは躊躇いもなく指で触れた。
 これはもう落ちたな、とその光景を見ていた誰もが思ったに違いない。
 案の定、振られたばかりだと言うのに、次の日にはもう善逸の頭には花が咲いて蝶まで飛んでいるようだったという情報が学校内に流れていた。

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