風と水 壱
ハルがお茶を入れている間に、実弥は水浴びをし、着替えを済ませた。着替えと言っても替えの隊服に着替えるだけで何も見た目は変わらない。今回の任務は差程強くもない鬼だったので、返り血も浴びてなかった。
もう会うことがないと思った女が、屋敷を訪れていた。
その馴れ馴れしさが正直鬱陶しいと思っていたが、何故か彼女を突っ撥ねることができないでいた。
「お茶入りましたー!」
「遅せェ、どんだけかかってんだァ」
「ちょっと手にお湯をかけちゃって……」
大したことない様子でお茶を置いたハルに、「馬鹿かテメェは!」と怒鳴った実弥は、少し赤い彼女の手の甲を見ると、立ち上がって部屋を出た。
凡ミスをしたことをまた言われたのだと思ったハルだったが、水を張った桶を持ってきた実弥を見て、目を丸くした。何も言わずに赤くなった手を取り、水に浸す。さすがにもう冷やしましたと言えず、その優しさに胸が熱くなった。
義勇も以前、同じようなことをしてくれたのを思い出し、この時代の男はこうも優しいものなのかとハルは驚いていた。
冷えた手を布で拭き、羽織から取り出した塗り薬を赤い部分に優しく塗りつける。実弥の手は大きくてゴツゴツとしていたが、凄く温かかった。
「どんくせェな、お前は」
「そんなことない! ちょっと手が滑っただけ!」
「それをどんくせェっつーんだよォ!」
「……名前、覚えててくれたの?」
ハルが何を言ったのか最初は分からず、「ほらさっき」と続けて言われて漸く思い出した。確かに咄嗟に名前を言った気がする。覚えようとして覚えてたわけじゃなかったので、「さあなァ」と素っ気なく返事をした。
それでも嬉しそうな顔をするハルは、「おはぎ食べよう!」と包みを差し出した。
何とも調子が狂う女だと実弥は頭を掻くも、まだ食事を摂っていなかったので差し出されたそれを頬張った。
「やっぱり美味しいね、このおはぎ!」
「……」
「おはぎを買う前に実弥さんが嬉しそうに食べてる姿を思い出したの! それで買ってきたんだぁ!」
「……そォかよ」
「実弥さん、あんこ付いてるよ」
喋り掛けるハルを気にしないように意識を外に向けていた所為で、そんな失態に気づかなかった。それだけでなく、ハルが言いながら近づいてる事も、視界に入り漸く気がついたのだ。
目を見開く実弥に手を伸ばしたハルは、躊躇う事無く頬に付いていたあんこを取り、パクリとそれを指ごと舐めた。
甘い、と満足そうに呟きながら姿勢を元の場所へと戻し視線を庭へと向けたハル。不意の出来事に様々な感情が沸き起こっていた。
ふざけんじゃねェ! 何なんだコイツは、と。気づかなかったのは自分の所為だが、簡単に触れてきたハルに対して沸き起こる感情を、実弥は怒りで蓋をしようとした。
「……え?」
ハルの腑抜けた声と共に、ゴトッと音がしたのはほぼ同時だった。庭を見ていたはずの視線が回転し、ハルの視界に映るのは実弥の顔だけ。
肩に手を置かれ、床に押し倒されているのだと理解するまで数秒だった。背中に当たるのは縁側の木の床。冬でもないのに、ヒヤリと背中が冷たいと感じた。
「テメェ…どういうつもりだァ?! 女が一人でホイホイ男の家にやってきて、挑発するような態度とりやがってよォ!」
「……挑発だなんて…」
「こういう事、期待してんのかァ? どうされても文句言えねェよなァァ」
頭上で声を荒らげる実弥を、ただ見上げていた。銀髪の髪が頬に触れ、首筋に顔が近づいても、ハルは声も出さず身動きも取らなかった。
ただそこにあったのは、前にも感じたことのある虚無感だった。