風と水 弐

 数ヶ月前までの出来事が遠い昔に感じる。
 成績だけでなく身の回りの事を心配し気にかけてくれいた優しい、いや優しいと思って信頼していた教師に、狭く息苦しい準備室で、されるがまま体を触られていた。
 最初の頃に抵抗したら、「お前が誘っきてたんだ。思わせぶりな態度を取っていたくせに」と責められ、殴られた。ちょうどその頃に、養父母の企みを盗み聞きていたこともあって、その先は抵抗する気力も失せた。
 気持ちよさも何もない、惰性の行為。
 でも、その時だけは自分の存在が必要とされているような感覚だった。





 実弥が彼女の首筋に顔を埋めて舌を這わせると、ピクリと微かに肩が動いた。だけど抵抗する様子もなければ声を出すこともなく、一切身動きしない。
 軽い脅しのつもりだったのだ。何の躊躇いもなく近づいてきて、気持ちをザワつかせる彼女をこれ以上入ってこさせないようにする為に。
 これ以上関わらない方がいい。近づかない方がいい。
 そう思って咄嗟に取った行動だったのだが、あまりの反応の無さに実弥は顔を上げて思わず目を見開いた。驚いて固まっている表情とはまた違う、怯えてもなければ当然恥じらっているものとも違う。
 静かに受け入れ、ただ心がそこに無いみたいだった。先程までの笑顔など微塵もない。思わず、実弥は体を起こした。焦りと罪悪感が入り交じったような感情がうごめいている。


「……何で、抵抗しねぇ」


 困惑する実弥を見つめ返し、それからゆっくりと体を起こしたハルは、実弥が触れた所に手を置き、それからもう一度実弥を見つめた。


「抵抗…? だって、そんなの意味無いじゃない」
「オイ…お前、」
「必要なら、してもいいよ? あなたが必要なら……こんなわたしでも必要としてくれるなら…」
「何言ってやがる…なんだァそりゃ」
「そしたらまた、ここに来てもいい?」
「ふざけんじゃねェ!!」


 どうしてここまで怒りが強くなるのか分からなかった。関わりのない人間の事なんて気にする必要ない。鬼を滅殺することだけが、それが自分の成すべき事なんだからと。
 頭ではそんな考えを浮かべながらも、実弥の腕の中にはハルがいた。片腕で、自棄な言葉を吐き出した彼女を抱き寄せ、その胸に抱き留めた。小さく名前を呼ばれ、その腕の力を込める。


「んな事しなくても、また来たらいいだろォが。簡単に自分を捨てんじゃねぇ。もっと大事にしろォ。死んだような顔しやがって!」
「実弥、さん…」
「……悪かったなァ」


 少し体を離しハルの首筋をそっと撫でると、彼女の瞳から一筋の涙が落ちた。その涙を実弥が指で優しく拭う。
 実弥を見つめる視線は、先程の無の表情が消え、いつものハルがそこにいた。
 ハル、と彼女の名前を囁き髪を撫でれば、その顔に花が咲いたように笑顔になる。

――ちゃんとお前の人生を生きろ。

 かつての親友が遺した言葉が、実弥の脳裏に浮かんだ。

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