悲涙の空 肆

「具合はもういいのですか?」
「はい! 今日からビシバシこき使ってください!」


 大きな声で拳を上げて空元気な笑顔を作ったハルを見て、しのぶは眉を下げて切なく微笑んだ。
 ハルが蝶屋敷を訪れたのは、義勇と別れてすぐ、三日程前のことだった。大きな荷物を背負っていたハルの表情を見て、何も言わなくても何かあったのだとすぐに分かった。
 おかえりなさい、と言ったしのぶに、ハルは泣きながら抱きついた。
 もう義勇の家に居られない。でも行く宛がなかったと申し訳なさそうに泣きながら言うハルに、「ハルさんはもう蝶屋敷の一員ですよ」と笑顔で答えたしのぶに、ハルはまた涙した。
 しのぶが入れたお茶を飲みながら、ハルは何かあったのかを話した。自分の気持ちもすべて。


「だからもう、義勇さんには頼れない。いつまでも甘えてちゃいけないって思って。それなのにしのぶさんに甘えちゃって…」
「そうですか。それにしても不死川さんのどこがいいのでしょう…謎ですねぇ」
「え! 凄く優しいし、怒ったときめちゃくちゃ怖かったけど、でも……実弥さんの隣が凄く好きだったのわたし!」


 酷い言葉を受けたにも関わらず、まだ顔を赤らめ素直に自分の気持ちを吐き出すハルを、しのぶは羨ましくもあり可愛いらしいと思えた。
 しのぶ自身に関わりのないこの恋路に口を出すつもりはない。だが、ハルの気持ちが前を向いてくれるようにと願わずにはいられなかった。





 同じ頃、任務に出ていた実弥はいつも以上に荒れていた。
 強くもない鬼なのだが、心が乱れている所為で、いつもと違い風の呼吸に影響が出てしまっていたのだ。そんな自分に苛立ちを覚え、早くとどめを刺すために自分の体を傷つけた。
 稀血である彼の血は、鬼を酩酊させ弱らせる。隙をついて鬼の首を跳ねたのと同時に、鬼の攻撃が実弥の腹を掠めた。チッという舌打ちと共に、最後の風が舞う。数体いた鬼が一瞬で塵となった。
 実弥は、自分の中からハルを追い出そうともがいていた。だけどそれは、意識してどうにかできるものではなかったのだ。自然と実弥の心に入り込んだハルの姿形も声もすべて、消すどころか事ある毎に浮かんでしまう。
 ハルの涙を思い出すと、胸が痛くて苦しかった。突き放した事を後悔していた。彼女の言葉を聞かず、真実を聞くのを恐れて、拒絶することしか出来なかった自分が如何に弱いかを、実弥は思い知らされたような気がした。
 たかが女一人に、と思うが、ハルは実弥にとってそれ程の女だったのだと認めざるを得なかった。


「……ふざけやがって…」
「風柱様っ!?」


 実弥が呟いた言葉と、事後処理をしに来た隠が叫んだ声が重なった。それと同時、音を立て地面に倒れた実弥は、鬼が最後に放った攻撃による毒によって意識を飛ばしてしまったのだ。
 普段なら、毒に気づき呼吸によって毒の巡りを遅らせたりするが、ハルの事を考えていた実弥は、寝不足もあり頭が回っていなかったのだ。
 完全なる実弥の油断だった。強制的に蝶屋敷へと運ばれた実弥は、目が覚めると、油断した事と自身を傷つけた戦いをした事を、散々しのぶに責められることになった。
 蝶屋敷にハルがいると気づいたのは、その翌日の事だった。

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