新月の夜 弍
荷物を背負ったまま目を閉じている女の息があるのかどうかを確認し、荷物も外して女を布団に置いた。
眠っているのか気を失っているのか、どちらにしても息はあるので大丈夫だろう。
すぐに蝶屋敷の胡蝶しのぶへ連絡するべきかと思い悩んだが、重症ではなさそうな女、しかも鬼殺隊ではない者の為にその必要はないと、そのまま様子を見ることにしたのだ。
目が覚めたら、
横になったままの得体の知れない女の動向を観察しながらも、義勇は座ったまま眠りについた。
◇
微かな衣擦れの音に、義勇が目を覚ます。空が曙色に変わり始め夜明けを知らせていた。
ハッとして視線を女に向けると、上体を起こしていた女は、天井を見上げ、周りを見渡し、それから視線を義勇へと向けた。
暫く二人の視線が絡み合う。お互いが何かを探っているような感じだった。
義勇は表情を変えることなくその女を見つめ、女もまた表情を変えずに義勇を見つめ返した。
長い沈黙を破ったのは、女の方だった。
「ここが天国なの? 天使なのに刀持ってる…」
夢から醒めきっていないのだろうか。何を寝惚けたことを言っているんだこの女は。
そう思った義勇だったが、彼の表情は一切変わることなく女を見つめたままだった。
何も答えない義勇を余所に、女は自分の体を触り始め、額を触った手のひらを見て「怪我も綺麗になるの?」と独り言を吐き出した。
それから自分の太腿を抓り、頬を抓り、それからまた暫くして視線を義勇へと向けた。今度は、何かを考え込むような顔で。
「ここは、どこ?」
「……何故この家の屋根から落ちてきた」
「屋根? わたしは事故にあって車に轢かれて…それで……死んだんじゃないの?」
「お前は息をしている。死んでなどいない」
「死んで、ない?」
「……」
「でもあの時確かに痛かったし血だって出てたし……え、何で。じゃあ何でわたしはこんなに元気なのよ。ここは何処なの? ていうか、あなたは誰!?」
次々と表情が変わっていく女に、義勇は溜め息を吐いた。話の通じない人間ほど面倒なことはないとでも言いたげだった。
そんな義勇に痺れを切らした女は、布団から起き上がり座ったままの義勇の横を通り抜け、戸口を思い切り開けた。
日が昇り始め、山間からの光が強く射し込んでいる。女の目に竹林や遠くに見える山々と、見たこともない景色が飛び込んできた。
何事かと後を追った義勇だが、振り返った女は義勇の色鮮やかな羽織を掴み、「ここは…何処なの……」と同じ言葉を小さく吐き出した。
その手が少し震えている事に義勇は気づいた。何か事情があるのかもしれないが、義勇にはそれが何なのか検討も付かなかった。
それもその筈だ。
義勇の目の前にいる女は…――――今その場所にいるはずの無い女なのだ。
女は、有り得ないと思いながらも、これがどういう事なのかを考えていた。これが死後の世界とは到底思えなかった。
自分は本当に死んではいないんだと、ドクドクと脈打つ心臓が言っていると理解した。
だけど今いるこの場所が、自分が生きていいい場所だとも思えなかった。
「何があったかは知らないが、もう夜が明けた。自分の家に帰るといい」
「帰る家なんて…ないよ」
「では何処から来た? 迷ったなら後で隠に調べさせ、」
「そんな場所ないっ! ある訳ない! わたしは何処にも……」
何処にも行けない。
その言葉は、震える喉で声にならなかった。
面倒だと義勇は思ったが、自分の羽織を掴んだままの女の手を掴み、羽織から離した。だが、その手は掴んだままだった。
「俺は冨岡義勇という。名はなんと言う」
「……ハル、です」
事故に遇い死を覚悟した女…ハルが、何故か死ぬ事なく時空を超えてしまった。
何故このような事が起こったのかなど、誰も知る由がなかった。
誰も知らないところで自由になりたいと、願ったからなのだろうか。仮にそうだとしても、何故こんな場所に来なければいけなかったのだろうか。
まるで厄介払いのようにその存在すら呆気なく消されたみたい。
それならば本当に生きる意味なんてない気がして、涙が溢れて仕方なかった。
皮肉にも、ハルを照らす光は、今まで生きてきた中で一番明るく眩しいものだった。