おやすみなさい、良い夢を
今日は思ったより早く祓うことが出来て、夕方のスーパーに立ち寄ると新じゃがいもが出ていたから肉じゃがを作ることにした。なんだかゆったりとする夜なんて久しぶりで、コトコトと煮込みながら鍋の中で躍る野菜達を見下ろして体の力を抜くように息を吐き出す。そうしてる内に、ガチャリと鍵の解錠の音がしてピクリと肩に力が入った。
「おかえりなさい!」
火を止めて玄関に駆け寄ると、革靴を脱いでいる大きな背中があった。振り返った彼の顔にはいつものサングラスがつけられていなくて、鋭い瞳が目が合うと少しだけ柔らかくなった気がしてそれだけで胸の奥がキュッと苦しくなる。
「ただいま帰りました。」
今日は帰ってくるのが定時過ぎていないからか、顔色も声色もそんなに疲労に染まっていなかった。フゥーッと息を吐き出しながらスリッパに履き替える七海を見据えて、着けたエプロンの裾をキュッと握りしめて勇気を振り絞って口を開く。
「ご、ご飯にする?お風呂にする?そ…それともっ!私にする!?」
何回もシュミレーションしたはずのそのセリフは、最後はなんだか投げやりな感じに勢いよく言ってしまった。こんなの、よく見るドラマや少女漫画とはかけ離れていて、別の意味で恥ずかしくなってきた。そんな質問を受けた七海も、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。数秒の沈黙で消えてなくなりたくなっていると、七海は顎に手を置いて少し考える素振りを見せる。
「せっかくの料理が冷めてしまうのは勿体無いので、お風呂は後にします。」
「あ、そうですか…。」
なんと、勇気を振り絞った第三の選択肢は悲しくも却下されたようだった。なんだかドッと疲れが襲ってきて、気の抜けた返事を返せば七海の瞳がすっと細まる。
「食事の前に、貴女をいただいても?」
するりと、頬に伸びてきた指先はほんのりあたたかい。七海の整った顔が近付いてくるのをスローモーションのように感じていたが、ふと本来の目的を思い出してハッと意識が戻ってきた。
「す、すとっぷ!」
グイッと胸板を押し返すと、ピタリと七海が動きを止める。おずおずと見上げると、あの大人でクールな七海の顔全面になぜだと書いてそうなくらい不満そうな顔をしていた。
「今日は、私からするから…」
どうにか言い訳のように言葉を絞り出すと、七海の瞳がちょっぴり揺れた。付き合ってから、七海は意外と感情が顔に出るんだなって気付いた。まぁ、他の人に言うとそんな事ないって否定されるけど。
頬から手が離れて、ただじっとこちらを見下ろして来る七海の顔は今更だけど整っていてこうやって正面から見ると心臓に悪い。ドッドッと煩く鳴り響く心臓を抑える為に深呼吸を何度か繰り返して、改めて向き直る。私より身長が高いので顔に背伸びしてやっと届くくらいなので、彼のネクタイを控えめに引っ張ると意図を汲み取って七海が背を屈めてくれた。近くなった唇に、おずおずと顔を近付けて自分のものを重ねる。少しカサついた唇は、薄いけど柔らかかった。
「よし!ご飯にしよう!」
子供のお遊びみたいなキスだけど私にとっては壮大なミッションで、パッとネクタイから手を離して七海の反応を見ないまま背を向けるとリビングに早足に逃げていった。顔の赤さを誤魔化す為にわざとパタパタと忙しいふりをしてご飯の支度をしていると、スーツのジャケットやネクタイを部屋で脱いできた七海がリビングに戻ってくる。私と目が合うと、小さく笑っていて何も言われていないのに逆にそれがどうも恥ずかしい。
「誰かに何か吹き込まれたんですか?五条さん辺りに。」
ご飯を食べながら、今日の私の不審な行動に対して七海がやっと聞いてきた。そりゃそうか、と思いながら、柔らかくなったじゃがいもを半分に割りながら叱られた子供のように俯きながら口を開く。
「今日は、その…キスの日、らしくてさ…。いつも七海がしてくれるばっかりだから、私からしようかなぁー…って思ったの」
今回は五条さんから変に揶揄われたとかではない。ただ、今日の補助監督の新田ちゃんの今日キスの日らしいッスよ〜から恋バナが始まって、そういえば私はいつも七海にリードされっぱなしで自分からキスした事ないな、という重大な事実に気付いてしまったのだ。
おずおずと顔を上げると、七海は納得したのか小さく笑いながらお茶碗をテーブルに置いた。
「なるほど。今日があと数時間で終わってしまうから惜しいですね。」
「しょうがないでしょ、二人とも仕事だったんだから。タイミングが夜しかなかったんだもん」
そうと思いついてから、単なる偶然だけど今日やたらと事務室で伊地知くんと喋ってる姿や、自動販売機で珈琲を買ってるところや廊下ですれ違ったりなど神様が悪戯してるんじゃないかというくらい七海の存在を見つけて意識してしまい一日勝手にドキドキハラハラしていた。やっと重大任務を終えたような達成感があって、ビールを胃に流し込んでいるとそんな様子を七海が見ていてパチリと目があった。
「私は、廊下で貴女とすれ違う時ですら、キスしたいと思っていますよ。」
へ、と短く声を漏らすと、相変わらず余裕そうな七海は同じようにグラスのビールを男らしい喉仏がゴクリと揺らしながら一気に飲み干した。七海らしくない、飛んだ爆弾発言に耳が熱くなってきたのは、きっとビールのせいだけじゃない。
「そ、そんな素振りしてないじゃん…」
「えぇ、TPOを弁える大人ですから。…我慢しているだけで、いつだって貴女に触れたいと考えています。」
グラスを握ったままの私の手に、七海の長い指先が触れて思わず力んでしまって水面が揺れた。キンキンに冷えたグラスを持っていたからか、帰ってきたときよりも七海の指は冷たいけれど、触れている内にじくりと熱が伝わってきて指先から体全体に伝わってきそうだった。
「さて、お風呂に入ってきます。残り時間も残り少ないですから。」
七海、と名前を呼ぼうとするとそれより先に七海が立ち上がって指先が離れた。椅子に座ったままで熱に惚けて見上げていると、先程まで私に触れていた手が伸びてくる。熱い耳たぶに触れて、髪を掻き分けるように後頭部に手を添えられて七海との距離が近付く。あぁ、キスされるんだとわかって目を閉じたけれど、何秒か待ってもその感触はなかった。
「今日が終わるまで、貴女からキスしてくれるんでしょう?」
耳元に大好きな低音が息遣いと共に届いて、色んな意味で驚いてバチっと目を開けて身体を仰け反らせると後頭部を支えていた手からは思ったよりもするりと抜け出せた。そんな私の様子を、心底楽しそうに見つめていた七海はそのまま何事もなかったかのように体を起こしてリビングを出て行ってしまった。
「……やってしまった…」
相変わらず、ドッドッと心臓が煩くてもう痛いくらいだ。あぁ、こんな事ならもうすぐ日付が変わりそうなタイミングでネタバラシをすればよかった。壁にかけられた時計の時間を確認して、私はシャワーの音を聞きながら項垂れるしかなかった。
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