いってらっしゃい、また夜に
「今日、キスの日らしいですよ。」
「はぁ?」
タイマーをセットしていてちょうど炊き立ての白ごはんに、昨日の残りのオカズとインスタントの味噌汁。簡易的な朝ごはんを向かい合って食べてる最中に不意に言えば、目の前の彼は予想通りの反応を返してくれる。
「…今日、5月23日だったか?んな読み方しねぇだろ」
流し見していたニュースの画面をチラリと見て今日の日付を確認すると、それでもピンとこなかったようで日下部さんは味噌汁を啜りながらこちらに視線を戻した。
「なんか、日本で初めてキスシーンが登場する映画が公開された日なんだって」
「ほー……そりゃ良かったな。」
アラームを止めた後いつもの習慣で確認するネットニュースに書かれていた内容をそのまま説明してみたけれど、これも予想通りで一気に興味なさそうに適当に相槌してくる。まぁ、確かにまだいい夫婦の日だったり肉の日は語呂合わせで意味がわかるけど、映画公開で記念日だなんて私も今日初めて知ったからそれが妥当な反応だろう。今日はオフだからまだスウェット姿の日下部さんはいつもよりも食べるペースがゆっくりで、一足先に食べ終えた私は自分の分の食器を持って立ち上がった。
「だから、今日はキスしないようにしようかと思うの。」
「はぁ?」
食器を台所に持って行ってシンクで水につけながら聞こえるようにさっきよりも少しだけ音量を上げて伝えると、水の音の合間にまた最初と同じような返答が返ってくる。最初は呆けていたけど、今回のは言葉の奥にほんのり不満げな色が含まれていて、手を拭きながらリビングに戻れば眉間に一本だけ皺を寄せている日下部さんがいた。
「…普通、逆だろ。キスの日だからキスしてー、とかじゃねぇの?」
「だってそれだと面白くないじゃないですか!わざと世間の逆をついてみようかなーって」
ジャケットと鞄を持って私が悪戯っぽく笑えば、そういう事かと一応納得したようでへーへーとやる気のない返事が返ってきた。
特に、付き合いたてな訳ではないし、私たちもいい歳だからそんな記念日に託けてキスするようなタイプではない。でも、何となく見てしまったから、本当に何となく普段の日常にスパイスになればと思っただけだ。
「それじゃ、私そろそろ行きますね。」
「おー。」
テレビに映る時間が家を出る時間を知らせていて、声をかけると日下部さんも食べ終えたのか立ち上がる。どうにもこの仕事をしているとオフが重なる事の方が珍しい。廊下を出て玄関に向かっていると、まだ少しだけ床がひんやりとしてやはりまだ朝方は肌寒さが残っていた。
「今日は一件しか入ってないから、夕飯までには帰ってこれると思います!」
「張り切りすぎると他の案件も押しつけられるぞ。私忙しいです感出しとけ。」
靴を履きながら背後で大きな欠伸を漏らしながらスウェットの中のお腹をかいている日下部さんに声をかけると、いつも以上に気怠げな返事が返ってくる。きっと私が出た後に、二度寝はしないだろうがソファーでダラダラするんだろう。とても羨ましくて仕事に行きたくない気持ちで一杯だけど、社会人なので我慢して全ての支度を終えると日下部さんに向き合った。
「……。」
「……。」
お互いに目があって、沈黙が続く。あれ、何でだろうか?普段と全く同じ感じなはずなのに、何か違和感がある。でもその違和感の正体がわからなくて困惑して日下部さんを見上げるが、日下部さんもどうしたら良いかわからない顔をしている。沈黙の時間が1分程経った気がして、そろそろ出ないと思った時に目の前の日下部さんが瞳を少し開いた後に細めて笑った。
「なんだよ、今日はキスしないんじゃねぇの?」
「……ぁ、」
その一言で、違和感の正体がわかった。私は、いつもの行ってらっしゃいのキスを無意識に待っていたんだ。それを始めたのは、確か付き合って何ヶ月か経った頃だった。いつ死ぬかわからないから、毎日家を出る時と帰った時にキスしようって、私が提案したんだ。だって、その時はまだ私は若くて、別れが心配だったから。日下部さんは最初は渋々だったけれど、それが日常に溶け込んで、当たり前のようになっていたから気付かなかった。数分前に自分から言い出した事なのに、キスを律儀に待っていたなんて恥ずかしくて一気に顔に熱が集まってきた。
「い、行ってきます!」
逃げるように振り返って玄関のドアノブに手をかけてガチャリと音を鳴らして外の光が玄関先に差し込んでくる。少しだけ開いたところで、伸びてきた手によって体ごと後ろに引かれて、扉は閉まり玄関はまた少し薄暗くなってしまった。顎を大きな手で覆われて、そのまま左後ろを向かされると見慣れた顔が至近距離にある。何か言葉を発する前に唇にあたたかい感覚がして、カッと体が熱くなった。いつもは触れる程度のまるで外国の挨拶のようなキスなのに、今日はむにっと柔らかい感触を押し付けるようにして私の下唇を啄むように何度か軽く吸われる。う、と短く声を漏らすと、やっと顎と唇が解放された。
「ほら、忘れもんやったんだから気張ってこいよ」
目の前の日下部さんは、悪戯が成功しましたと言わんばかりの意地悪な顔をしている。離れる時に髪の毛に隠れた頸に軽く触れてくるのは、確実に確信犯だ。
「…煩い。キザなセリフ。似合わない。」
「はいはい、よしよし行ってこい。」
まるでロボットように単語単語でしか喋れない私に笑いながら、今度は髪の毛が乱れるのも関わらずわしゃわしゃと頭を撫でれる。その様子はもう男女を匂わせるような雰囲気ではなくて、色々悔しくていってきますと早口に吐き捨てて早足で外に出た。
「…今日、絶対早上がりしよう。」
きっと、私は今仕事に行く前の人の顔をしていないと思う。熱くなった耳たぶに触れながら、独り言を呟いて歩く足は気持ち最初ほど重たくないように感じた。
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