10話 私の全てをあげるのに




湯船に浸かっていたお湯が、そろそろぬるくなってきた。

「…はぁー……」

気付けばもう長いこと湯船に浸かっていて、そろそろ上がらなくちゃとわかってはいるけれど、そのあと一歩の力が出ない。

ガレーラから近過ぎず遠過ぎない絶妙な立地、築四十五年で時々床が軋む我が家の1番の魅力はこのお風呂だった。恐らく途中から後付けされた猫足バスタブはそれだけが白く真新しくて、古びた壁や床とは雰囲気が違いちょっと浮いていた。少々小ぶりだが私の身長なら広々と足を伸ばせて文句なし。前の家はシャワーしかなかったのもあり、此処を見て即決で書類にサインをした。
バスタブのカーブに沿う様に湯船に沈んでいけば、長い髪が水面をゆらゆらと揺れる。

「…キス、しちゃったなぁ。」

ポツリと呟くと改めてじわじわと体が熱くなった気がして、唸りながらもっと沈み込んでお湯の中でぶくぶくと空気の泡を吐き出した。暫くそんな光景を眺めながら呆けていたが、流石に風邪をひいてしまいそうだから縁に手を伸ばしてゆっくりと立ち上がった。


「明日は……確か、帆を試してみる日か…」

バスタブから上がって、かけていたバスタオルで先に髪の毛の水気をとる。最初こそ久々に髪が伸びてお手入れが楽しかったが、最近は乾かすのが面倒になってきた。季節はすっかり暑くなり、ドライヤーをかけると終わる頃にはまたじっとりと汗が体に滲んでいて億劫で、世の女性はこれを毎日やっていると思うと本当に尊敬だ。
独り言を溢しながらドライヤーのコンセントを指してスイッチを入れる。温風が勢いよく吹いてブォーっと空気が唸る音が響く。思ったよりも体は冷えていたようで、頭皮からじんわりと暖かくなってきた。

この間から依頼されていた海賊船の帆がやっと完成して、明日はそれを実際にマストに設置してみる日だ。船にとって風を味方につけなければ航海は始まらない。頑張って作った帆が風を受けて大きく膨らんで、刻んだマークが青空にはためく瞬間が私は大好きだ。
明日のことをぼんやりと考えながら暫く風を当て続け、髪が乾いた頃には体も温まってスイッチを切った。

「…もう消えてきてる。」

脱衣所の鏡には寝巻きのキャミソールを着た髪の長い私。そんな私がぽつんと立った姿を見つめて、そちらへ手を伸ばせば鏡の中の私も同じように近付いてくる。肩にかけていた落ちたタオルがするりと落ちて、白い首筋が現れる。

数日前には、この首筋にはパウリーにつけられたキスマークが彩られていた。
だけど今では、そこには何も傷も痕もなにもなくて、全て元通りになっている。

「あの日、本当大変だったよなぁ…」

鏡越しに先日まで赤くなっていた場所を撫でながら、まさに事件と言えるくらいな1日だったのを思い出してしみじみと苦笑いを溢した。


あの日、カクくんから首の事を指摘されると、すぐに昨日のアレだと検討がついた。 いつものように自宅の鏡を見て髪を結んでいれば、いつものように自分の服を着ていればきっとそれが見えることはなかっただろう。全てがただただ運が悪かった。

“…わかったから、焦んな…“

少しだけ余裕がなさそうに、お酒で少し掠れてそう囁く声。私を見下ろしてくるパウリーの瞳や触れた唇の柔らかさをブワッと思い出してしまって、顔が一気に熱くなった。 この恥ずかしさを誤魔化す為につい振り返って犯人を睨むと、当のパウリーはポカンと間抜けな顔をしていた。それが暫くすると顔が血管が切れそうなくらいみるみる真っ赤に染まり上がって、そのまま言葉にならない叫び声を上げてどこかに走っていってしまった。
いきなりの奇行に、ドックのみんなはなんだなんだとざわつき始める。そしてカクくんや、私たちの周りで何となく会話が聞こえていた人は別の意味で目を見開いた。

「ま、まさか…パウリーがワンナイトの相手か?!」
「わ、わぁー!」

カクくんの大声に、明らかに周りの空気が変わってザワッと周りがどよめく。
なんで?どうして?どちらから?ついにか!?告白はされたのか?まさかセフレか?おいバカ縁起でもない!!おい、もしかしてその服サイズ感大きいけどもしかして…。お前ら避妊はしろよ!アイスバーグさんに報告だ!!
色んな声が飛び交ってみんなが詰め寄ってくる。待って待って話が飛び過ぎだ、しかもアイスバーグさんに報告とかマジで勘弁してほしい!

「ち、違うよ!そんなワケないじゃん!だってあのハレンチパウリーだよ?!」
「これは虫刺され!え?服?…いや、これは前私が雨で濡れちゃった時パウリーに貸してもらって、借りパクしてるの!本当本当、嘘じゃないって!」
「だってさ?!あのパウリーが、見えるところにキスマークなんて付けると思う?あのパウリーだよ!?すぐハレンチハレンチって煩いパウリーだよ?!」

私が必死にシラを切り続けると、周りの人達はどんどん まぁ、確かにパウリーだしそんなハレンチな事する根性ないか… という空気になってくれる。

「もしパウリーの野郎がワンナイトなんざしてたら、一発殴るところだったな!!」

タイルストンさんは相変わらずウォオ!と大口開けて笑っているが、目は笑っていない。私の胸元辺りにある大きな手は、静かに、でも力強く拳を握っていた。
あれ、もしかして今後誰かとお付き合いする時って、一回タイルストンさんに紹介してからの方がいいのかな…?
カクくんはまだ納得してないようだけど、なんとなくみんながパウリーじゃないか、となってくれそうだったのに、誰かがオレはパウリーの男気に賭けるぜ!とベリーを掲げ始めた。そうなればオレもパウリー!オレは合コンインテリ野郎!とベリーが次々出され私の性事情で賭け事が始まってしまった。そこにタイミング悪く何故か全身ずぶ濡れのパウリーが戻って来たから散々だった。まるでお祭り騒ぎをしている彼らを眺めながら、もう今日の落ち着いた業務を諦めて溜息を吐き出す。手の平の中で隠れている痕があるであろう場所を、そっと1人で撫でた。


「……なんで、消えちゃうんだろう。」

何度見ても鏡の中のそこにはもう赤い痕は何もなくて、溜息を漏らして脱衣所を出た。

あの日起きた時の彼の反応を見て、夜の出来事は覚えてないんだと悟った。それならば私も忘れなければと思ったけれど、ドックでのあのパウリーの真っ赤な顔は、恐らく思い出した…んだと思う。そんな気がするけど、あれからお互いに何となく避けていて真相は聞けずじまいだった。

“……お前って、本当に……キス好きだよなァ……“

大好きなパウリーと蕩けるようなキスをして、嬉しくて泣きたくなった時に落とされた言葉。思い出しただけで胸の奥がモヤモヤして重たくて、息が詰まってくるしい。今だってグゥっと喉奥で唸りながら、勢いよくベットに倒れ込んだ。

「あー、もう!キス好きなのって誰なのよー…!」

誰かと、間違われてた。彼の言う、キスが大好きな女の子に。

いつ出会った子なのとか、彼女とどこまで触れ合って分かり合ったのかとか。色んな事を聞きたいけど聞く勇気もなければ、その資格が私にはない。その子は、私みたいにヤダなんて抵抗なんてしないで、首元に手を回して強請るように甘えていたりしたのかなぁ…

「……もしあのとき、私が拒まなかったらどうなってたんだろう…」

枕にうつ伏した顔を上げ、天井を見上げるように仰向けになる。私がやめてって言わなければ、パウリーはあのまま寝落ちしないで私に触れていたのかな?首筋を這う舌は、そのまま下へ下へと降りていっていたのかな…?

「……あーもう、そんな事考えて馬鹿みたい!」

そんな妄想をしてしまうと、キスだけで体の芯から熱くなった時を思い出す。ジクジクと腹の奥が熱くて、腰がそわついて落ち着かない。私を見下ろす瞳が、優しく触れる指先が、少しカサついて柔らかい唇が全てが私を溶かしてくるようだった。

そんな下心に体の芯をソワソワと刺激されても、私は自分を慰める術を知らない。熱を燻ってしまい、誤魔化すように叫んで布団を引き上げて潜り込む。パウリーの言葉を借りるなら、まさにハレンチ女ってやつだ。

「…………私じゃ、ダメなのかなぁ…」

ゴロンと寝返りをしてから小さく呟く言葉は、一人暮らしの部屋にすぐに溶けて消えていってしまった。
わかってる。代わりなんて、都合のいいこと言っちゃいけない。それって多分、みんなが言う“セフレ“みたいな位置になるんでしょ?最初は良くても、絶対私のことだから辛くなるもん。それにあの真面目なパウリーが同僚の私をそんな相手として選ぶ訳がない。第一に、パウリーハレンチ星人だしセフレとか一生作らなそう。

…そうわかってはいるけど、恋というのは大変面倒なものだ。一度味を知ってしまったら、もう知らない時には戻れない。

「ばかぱうりー……」

枕に顔を埋めながら精一杯の悪口を言って、もういい加減寝るために目を閉じる。

またキスしたい。潮風で傷んだ金髪に触れたい。抱き締めて欲しい。名前を呼んで欲しい。また好きだと伝えたい。好きって、言って欲しい。他の誰かから好んでもらえても、やっぱり私はパウリーが良い。顔も名前も知らない彼女じゃなくて私を選んでくれるなら、私の全部をあげるのに。
沢山願っても現実で叶わないのはそんな私が一番わかっていて、せめて夢の中で彼に会えればと願いながらゆっくりと微睡みに身を委ねた。



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