目が合ったどころじゃない


眠りに落ちたのが朝方だったので、私の土曜日の始まりは昼過ぎだった。平日の溜まった洗濯物を2回転回して干していたら、ハンガーが一本足りなくなり仕方なくクローゼットの中の最近来ていないジャケットをかけていたものから拝借した。思ったより快晴なので布団も干したいが、洗濯物が多いから賃貸の狭いベランダではスペースが足りないので仕方がない。軽く掃除機をかけたりなどして、時計を見ると午後2時を指していた。

「うーん……引きこもりたい、気もする。けど、勿体ない気もする…」

今日は完全オフと決めていて何も予定を入れてなかったが、意外と家のことが終わってしまった。食材を買いに行くのも、夕方近くになった方がセールなどもやってるので今じゃないな。寝ていて朝も昼もまだ食べてはないけれど、ガッツリ食べると夜ご飯の時間が微妙だし。何となく流し見をしていたテレビからは、ニュースキャスターのお姉さんが明日から梅雨入りで今日が唯一の晴れ模様だとお知らせしていた。…うん。ジメジメとした梅雨が来る前に気分転換に夏服でも新調して、軽くカフェでお茶して気分を変えてみるのも悪くない。

「よし、今日はご褒美デーだ!」

思いつけば善は急げで、ほんのり腫れた目を誤魔化しながら手早くメイクを済ませ精一杯気分を上げる為の身支度を整えてから外へ飛び出した。


「もう意外と暑いなぁ…」

まだ梅雨が来ていないというのに、ジワジワと肌に刺さる日差しが暑いを通り越して最早痛い。こんなに夏を近くに感じるのに、明日から雨が続くなんて信じられない。普段は朝に出勤して夜に帰るから、こんな真昼間に外にいる事がないから尚更きつい。もう十代の頃のように行かないのだと痛感して悲しくなった。

「喉乾いたな…」

服もまだ一つのお店でしか買ってないけれど、暑さを冷やしたいと体がサインを出している気がする。折角だし美味しいケーキも食べたいなと考えたら、お腹は素直で隠れていた空腹が急に現れる。どこか休憩出来るカフェを探す為に携帯を取り出していると、ヒョイっと目の前に知らない人が顔を覗かせてきて思わず驚きの声が漏らしながら体を一歩後ろに後退った。

「もー、お姉さんいくら呼んでも気付いてくれないんだもん!」
「あ、えっと…?」
「ねね、1人でしょ?それならそこのカフェでお茶しようよ」

誰か知り合いだっただろうかと記憶をひっくり返して考えていたが、最後の一言で他人だとわかる。確かに、休憩したいとは思っていたけれど別に知らない人とわざわざお茶したいとは思わない。暑さとナンパで一気に疲労が増してしまった気がして、無難に無視を決め込んでそのまま歩き出してもやはり一度反応してしまったので男性はしつこくついてくる。

「ねぇ、無視はないっしょ?別にお茶するだけじゃん」
「…急いでるんで」
「そんなこと言っちゃって、ほら、行こうってば」

やってしまった。意外としつこいタイプだぞ。切り捨てても関係なしに、むしろ無視されて逆に意地になってるみたいだった。男性のイライラが空気感で伝わってきて、痺れを切らしたのか手首を掴まれた。その瞬間、ブワっと血の気が引いていくのがわかった。

「だい、じょうぶですってば…!」
「…ッチ、痛ってぇな!なにすんだよ!」

掴まれた手首は力が強くて骨が少しだけ痛んだ。一度引いた血の気はどんどん下がっていくようでちかちかと目の前が暗くなり始める。いけない、暑さも併用して倒れてしまいそう。しかし、今はとにかく逃げなくてはと脳内でカンカンと煩く危険信号が鳴り響く。
空いている方の手に持ったバックでせめてもの抵抗で男性にぶつけるが、そんなに力は入らずに結局その勢いで手からカバンがすり抜けて中身が道に散らばってしまった。地面にカバンの中身がぶつかる音も男性の怒鳴り声も、どこか遠く聞こえる気がする。私の抵抗についに堪忍袋の尾が切れたのか、男性の右手が振り下ろされて空気が震える感覚が頬を撫でる。避けたいけど、どうにか踏ん張って立っているのが精一杯で、諦めてこれから来る衝撃に耐える為にギュッと目をきつく瞑って奥歯を噛み締めた。

「…すまねぇ、待ったか?」

まるで水の中にいるみたいに全てが遠かった世界の中に、その声だけがスッと耳に届いた。それに、くるはずの衝撃がいつまでたってもこない。恐る恐る目を開けると同時に、後ろから腰元を支えられたのを理解した。男性の振り下ろされようとした拳は、後ろから伸びてくる誰かの手に受け止められてしまったようだ。

「それにしても、オンナに手をあげるなんざ男が廃るな」

後ろから響く少し低い声に、目の前の男性は小さく悲鳴を零す。そうすると止めれていた手を振り払って、彼は走って逃げ去ってしまった。まるで漫画のザコキャラの逃げ方をただただ見つめていると、支えてくれているその人の手にも力が入って、その感覚で安心からかふと体の力が抜けてしまう。あぁ、私はこの人に助けられたのか。顔を上げると、サラリと綺麗な金髪がすぐ目に入る。腰を支えてくれているので、当たり前だが思った以上に距離が近かった。

「っと、大丈夫か?もうちょい早く助けれればよかったな」

至近距離で、彼と目が合う。眼鏡の奥にエメラルドグリーンの瞳が、申し訳なさそうに少し歪んだ。その瞳の色は太陽の光の当たり具合で色味が変わって見えて、なんだか吸い込まれそうだ。長い金髪の髪は邪魔なのか後ろでまとめられていて、私よりキューティクルという言葉が似合いそうなくらいサラサラなのがわかる。

「ぁ、いえ…ありがとうございます」

彼の体温に触れていると、冷たくなっていた手が少しずつ暖かさを取り戻していくのを感じる。まだ少しくらりとする頭をお礼の為に小さく下げると、髪型を崩さない程度に撫でられた。
撫でる力は労わるように優しくて、暖かい。先程と同じ知らない男性なのに、こんなにも違うものなのか。多分、最初のセリフも知り合いのふりをしてくれたのだろう。体温もそうだが、なんだろうか。とても落ち着く。彼の声がすっと耳に届いて、まるで脳から心までにゆっくりと溶ける、よう、な、

「っわ…!」
「うぉ!?なんだ、どうした?吐きそうか?」

下げた頭を勢いよく上げると、近くにある瞳が驚きで大きく開いた。あと少しで手が届いて、息遣いさえも届きそうな距離。ぶわっとあんなに引いていたはずの血液が心臓から顔にかけて一気に昇っていくのがわかる。たくさんのことが、溢れかえりそうだ。

「あ、えっと、すみません!ありがとうございましたぁ!!」
「え、おい!!」

バッと勢いよく離れてワタワタと手を身振り手振りしてから直角なんじゃないかってくらい大きくお辞儀して見せる。そのまま急いでまき散らかした物をかき集め、全力で駆け出した。何か彼が叫んでいた気がするが、もうそんな余裕はない。

「だって、あれって…!」

間違いない。マイクだ。プレゼントマイクだった。格好も違うし、特徴的な髪型も首のスピーカーもなかった。でも、声は彼だ。何回も聞いてるから、わかる。
優しくて、元気で、明るくて。大好きな声。
そんな彼に、触れてしまったのだ。とても近い距離で、目が合ってしまった。こんなことあるだろうか。いや、ない。

一通り離れて、足を止めると一気に汗が溢れてきた。このドクドクと動く心臓は運動不足のせいか、それとも夢見たいな出来事のせいかはもうわからない。目が合ったどころじゃない。私、今日死ぬのかもしれない。絶対、一生分の運を使い果たしたんだ。額に張り付く前髪も、珠のように流れる汗も気持ち悪いけど、そんなの関係なしに私は言葉にならない呻き声を漏らしながら壁に寄りかかってズルズルと座り込んだ。
 

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