このまま溶けてしまいそう。


「38度、アウトだな。今日は仕事切り上げて休め。」

 ピピっと機械音が鳴ると家入さんが私の手から体温計を受け取ってデジタルの数字を確認する。その数字は予想通りだったようで、溜息と共に家入さんは呟いた。

「すみません…」

 やっと明日は休み、と思った矢先にどうも体が怠くて目が覚めた。どうにか出勤してきたけれど、明らかに体温が高い気がして医務室に来たのが十分前。体温を測る為に開けていたワイシャツのボタンを閉めながら、やってしまったと胸元が不安や後悔でゾワゾワとしてくる。ここ最近体調を崩す事なんかなかったから油断していた。どんどん舞い込む仕事を遅くまでやって家に持ち帰ったりもしたし、それのせいで睡眠時間も少なかったとは今となっては思う。体調管理もできない自分が情けなくて溜息を吐き出すと、それすらもどこか熱い気がした。

「怠いなら、少し休んでから帰るか?」

 私が溜息なんか吐くから体調が悪くて辛いから故と思ったのか、カルテをまとめながら問いかけてくれる。家入さんは私達の何倍も忙しい人だからご迷惑をお掛けしたくないけれど、病は気からという言葉通り熱があると実感してしまった途端に何だか先ほどよりも余計に体が重く感じ始めてきた。

「お世話になります…」

 おずおずと頭を下げると、家入さんは立ち上がってそのまま医務室の空いてるベッドのカーテンを開けてくれる。医務室のベットは三台あって、それを使えという意味だろう。しかし、呪術師の皆さんが怪我をした時に使うベットのうち一つを、ただ風邪引いただけの補助監督が使っても良いものだろうかと今更ながら悩む。でもなかなか動かない私に家入さんから早くしろと顎でベットを促されてしまって、今回は甘えてしまう事にした。
 医務室のベットは真っ白いシーツで覆われていて、パンプスを脱いで潜り込むと少しひんやりとして気持ちよかった。

「喉は赤くないから、ウイルス性なわけではなさそうだ。純粋に疲労だろう」

 私がベッドに潜り込んだのを確認しながら家入さんが話してくれる。ベッドに横になるとあんなに重たかった体が少し楽になった気がした。ほっと体の力が抜けて必然的に見上げるような形になった家入さんを見上げると、彼女は不意にニヤリと口元を上げる。

「あと、知恵熱ってとこかな」
「知恵熱…?」

 ちえねつ、と口の中で転がしながら考える。確かに、私たちの仕事は常に考えて調べてを繰り返しだし報告書の作成や情報収集でパソコンも使うこともあれば、そういった電子機器がない時代の資料も読み込む事もあるので頭や目は酷使してはいると思う。けれど、今までそんなことになった事はなかったはずだ。
 なんでだろうと困ったようにまた見上げると、彼女は垂れ目の瞳を細めて楽しそうに笑っている。家入さんは、女の私から見ても綺麗で色っぽい。きっとプライベートがミステリアスなのもあるんだろうな、なんて呑気に考えてると、家入さんが身を屈めて距離が近付いたのでドキリとした。

「最近何にお熱なんだ?」

 何に、と言われると一瞬で七海さんが脳裏に過っていきなり頭が熱くなった。なるほど、確かに、そうだ。最近一緒に行くお店の事もだけど、それ以外にも七海さんの事を常に考えていた。今日だって、本当は夜に食事に行く予定だったから、今日を楽しみにして仕事だっていつも以上に頑張っていた。私の浮かれた脳内のお花畑の状態が家入さんに全てバレてるのだとわかって、真っ赤になった顔をシーツに埋もれて隠すとクスクスと笑い声が聞こえてくる。

「ははっ、まぁよく休めよ。いつもお疲れ様。」

 これ以上は深くは追求されずに、シーツ越しにポンっと頭を撫でられてからカーテンが閉まる音がした。顔を出せば、家入さんはもういなくて真っ白い空間が広がっていた。
 シーツから顔を覗かせて、真っ白な天井を見上げる。とりあえず、お店は予約しなくてもいいところだったから良かった。今日の事は申し訳ないけれど、七海さんに謝罪の連絡をしなくては。そういえば今日は七海さんの補助のお仕事だったのに、勿体ないことをしたな。
 熱で浮かされている頭でぼやぼやと色んなことを考えたけれど、そういえばただ医務室にいく位の気持ちだったので携帯を事務室に置いてきてしまったのを思い出した。でも、もう起き上がる元気もない。きっと、来る前に伊地知くんに伝えたから、大丈夫だろう。そう信じて、段々重たくなってきた瞼をそのまま閉じた。


 □■□


「んむ……」

 意識が浮上してきて、ぼんやりと重たい瞼を上げる。体はじとりと汗をかいていて、ワイシャツがなんとも気持ちが悪い。寝ぼけていた頭が覚醒してくると、部屋の電気が消えていて暗いことに気付いた。私は一体どれだけ寝てたんだろう、と反省するのと同時に、ふともう一つ疑問が浮かぶ。そういえばこの部屋は、意識を手放す前の記憶のような真っ白い空間じゃない。

「ここ、どこ…?」

 ゆっくり体を起こすとまだどことなく重たい。辺りを見渡すけど、私の部屋ではない。ベットの横に置いてあるスタンドライトやサイドテーブルなどはシンプルだけどなんだかお値段が高そうな造りで、私が今寝ているベットもいつものシングルベッドより倍くらい大きい気がする。スタンドライトが照らしている室内も広くて綺麗なのはわかって、全くどこなのか検討がつかない。とりあえず手持ち無沙汰の手で肌触りのいいシーツを撫でてると、ガチャリと扉が空いて明るい光が部屋に差し込んできた。

「起きましたか?」

 そこにいるのは私が恋焦がれ過ぎて体調まで崩してしまった原因の七海さんでしかなくて、いつものジャケットは脱いで水色のシャツを肘くらいまで折り曲げていた。トレードマークとも言えるサングラスもネクタイも外していて、普段そんなに着崩す姿は見ないのでこんな状態でも呑気に胸が高鳴った。

「七海さん、どうして…?」

 七海さんが扉近くのお洒落なランプをつけると、部屋がまた少しだけ明るくなった。そのまま近づいてきてベットサイドに座ると、七海さんの体重でほんの少しベットのスプリングが音を立ててそちらの部分が沈み込む。こちらを見据えてくるサングラスをしていない瞳に、ぐぅっと私の喉が小さく鳴った。

「貴女が、体調不良で医務室にいると聞いたので」

 答えになってない、と思う。恐らく、消去法でいくと此処は七海さんのお家なんだろう。だとしたら、なんで七海さんが私が医務室にいると聞いて、そして私が七海さんの家にいるのか?とまた疑問が増えてしまう。まだ自身の熱と彼の存在によって逆上せている頭ではボーッとしてしまい何一つ結びつかずにいると、七海さんの手が伸びてきて少し汗で濡れた前髪を払ってくれてそのまま額に手を当てた。

「熱いですね、汗をかいてるので水分補給してください。」

 七海さんの手はとても冷たくて気持ちが良い。彼が体温が低いのか、それとも私の熱がただ単に高いだけなのかよくわからない。でもその手が離れていくと一瞬の出来事だったのに寂しい。七海さんはそのまま反対の手に持っていたスポーツドリンクの蓋を開けて私に差し出してくれて、受け取るとそれはもっとそれは冷たかった。もしかしたら冷蔵庫からさっき取り出してきてくれたのかもしれない。意識すると喉が張り付くくらいカラカラな事に気付いて、口をつけてゆっくりと喉へ流し込むと熱い体に冷たいスポーツドリンクが落ちてきてとても気持ちが良かった。

「食欲はありますか?」

 冷たさのお陰で少し気持ちも思考もスッキリしていると、飲みかけのボトルを七海さんが受け取って蓋をカチリと締めてからサイドテーブルに置いてくれた。確か出勤してそのまま医務室に行ったので朝から何も食べていないはずだが、何だか空腹はあまり感じられなくて小さく首を振った。七海さんは悩ましそうに顎に手を置いて考えてから、ベットサイドから立ち上がった。

「出来るだけ消化にいいものを作るので少しでも食べてください。胃が薬でやられてしまいますから」

 少し起こしていた私の体にシーツをかけ直してくれながら七海さんは私を寝かしつけようとしてくる。何から何まで申し訳ないから首を振って体を起こそうとしたけれど、肩を押されて簡単にそのまますっぽりとベットに戻ってしまった。それを確認して部屋を出ようと私に背を向ける七海さんの姿を見ると、思わず反射的にシャツから出ている腕を掴んでしまった。

「あ…、」

 ゆっくりと振り返った七海さんと目が合う。無意識に引き止めてしまったので、それから先どうしていいかわからない。でも、やっぱり、なんだか寂しかった。子供の頃風邪をひいた時に親の帰りが待ち遠しかったように、弱った体は酷く心細くそばにいてほしい。しかしあの頃のように素直に甘えられない私は口の開閉を繰り返しても良い言葉が見つからずに悩んでいると、七海さんはまるで子供を見守るような優しい瞳で掴んだ手に大きな掌を重ねてくれた。

「すぐに戻ります。心配なら扉開けておきましょうか?」

 重ねられた手は大きくて、いつも鈍を振るっているせいかゴツゴツと皮膚が硬い部分があって、そして暖かい。そう優しく言われてしまえばこれ以上我儘は言えなくて、大丈夫だという意味を込めて小さく頷くと腕を掴んでいた私の手をゆっくりと剥がしてそれもシーツの中に仕舞われてしまった。そしてそのまま七海さんは寝室の扉を開けたまま出て行ってしまって、薄暗い寝室に明かりが伸びてくる廊下をシーツの隙間からぼんやりと見つめる。
 あんなに寂しいと思っていたけれど、遠くで水の音やトントンと何かを切る音が聞こえると思ったよりも安心した。一人暮らしが長いせいか、人の生活音がとても心地よい。まるで子守唄のようなその音を聞きながら目を閉じると、少し体の力が抜けた気がした。

「自分で食べれますか?」

 どれくらい時間が経ったのかわからないが、寝てるようで寝てないような微睡みの中にいると心地良い低音が鼓膜に届いて瞼を開ける。パチパチと瞬きしていると良い香りが漂ってきて、そちらに視線を向ければ七海さんがいた。七海さんは私の背中に手を差し入れそのまま支えながら体を起こしてくれて、自分でもどうにか腹筋に力を入れて体制を整えた。
 良い香りの正体は小さい一人用の土鍋に入ったお粥の様で、サイドテーブルに置かれたお盆の上でゆらりと控えめに湯気を立てている。ぼうっとそれを眺めてると、朝から食べていない空っぽのお腹はサインを知らせるようにきゅぅと小さく鳴く。先程のようにベットサイドに腰掛けた七海さんはお粥をスプーンで一口分掬って、熱を冷ますように息を三回ほどかけてから此方へ差し出してくれた。

「流石に、食べれますよ…」

 俗に言うあーん。と言うやつで、流石にそこまでお手を煩わせる訳にはいかず苦笑いするが、七海さんは引く気はないようでもう一度そのスプーンを口元に近付けてくれる。熱で浮かされている頭は、まぁそれなら甘えてもいいか。と簡単に飲み込んで、差し出されたお粥をおずおずと口に咥えた。

「…おいしい。」

 一口食べるとちょうどいい熱さで、口に含んだ瞬間素直に言葉が漏れた。卵と出汁で作られたお粥は美味しくて、そしてどことなく優しい味がした。先程まで空腹なんて気になっていなかったのに、一口食べただけもっと食べたいと合図を送るようにお腹が控えめに鳴っているのがわかる。七海さんは私の感想にどこか安心したように少し眉間の皺を緩めて、私の口から出て行ったスプーンにまたお粥を掬ってくれる。流石に三口食べたくらいで恥ずかしいからと伝えると、渋々だがお盆ごと私の膝下に差し出してくれた。
 ゆっくり、しっかり味わいながら食べるお粥はじんわりと体に落ちて行って暖かい感じがした。あっという間に食べ終えてしまうと、七海さんが立ち上がってお盆を受け取り寝室を出て行く。廊下の先から土鍋を水に浸す音が微かに聞こえて、七海さんはまたすぐに戻ってきてくれた。

「薬をどうぞ。」

 その手元にはスポーツドリンクと2錠の薬が握られていて、またベットサイドに腰かけると本当に子供を見守る親のように見つめてくれる。その光景を見ていると昔は錠剤はなかなか飲めなくて、親を困らせたのが何となく思い出した。今では薬が苦手なわけではないので、素直に受け取って銀のフィルムから白い錠剤を押し出して水分と一緒に体の中に流し込んだ。自分の体温が少し下がってきたのか、先程よりもスポーツドリンクは冷たくは感じなくて、でもそれもちょうど良かった。

「本当、至れり尽くせりですみません…」

 起きてからあれよこれよとお世話になったので改めて七海さんに小さく頭を下げる。正直申し訳ない気持ちが多いが、大人になって体調を崩すのは昔と違って何だか心ともなく不安な気持ちになってしまうので助かった気持ちが大きいのが本音だった。きっと、あんまり大人になると風邪ひかないのもあるし、昔のように親が側で心配してくれるなんてシチュエーションがないからだと思う。だから、今回七海さんがいてくれて本当安心した。

「私が好きでしている事なので、気になさらず」

 申し訳なさそうな私に七海さんは少しだけ笑ってくれる。寝てくださいと言ってくれるので、大人しく従ってシーツに潜り込んだ。改めて少し余裕が出てくると、シーツの感触も枕やマットレスの低反発具合もとても気持ちがいい。きっと良いお値段するんだろうなぁとチラリと七海さんを見上げれば、静かに汗で張り付いた前髪を払ってくれる。

「七海さん、私汗かいてるから…」

 髪も濡れてる感じがするし、汚いから申し訳なくて七海さんの手首を掴んで阻止しようとするとそんなの気にしないかのようにそのまま頬に手を添えられた。七海さんの手の体温は、相変わらず気持ちよかった。

「…すみませんでした。」

 ポツリと聞こえた言葉は空耳かと思った。だって、こんなにしてもらって逆に謝られるなんて話の脈略が見えてこない。七海さんは少し悩んだように眉を寄せていて、困惑の眼差しを向けるとフゥーとゆっくり長く溜息を吐き出す。

「家入さんに知恵熱だと聞きました。」

 は、と私の口の中では言葉にならない声がこぼれ落ちた。

「休みの為に最近仕事も頑張っていたようですし、無理をさせてしまいましたね」

 七海さんが私の仕事を知ってること、そして今回の原因が家入さんに確実に聞いてることを理解して違う意味で体が熱くなってきた。思わず七海さんから隠れるようにシーツを頭から被る。大人のくせに体調管理が出来てなくて、内容も重なり恥ずかしい。暫くするとシーツ越しにポンポンと腹部を叩かれて、ゆっくり顔を覗かせると相変わらず七海さんがこちらを見ていて視線が絡みあった。

「私が、勝手に楽しみにしてただけなので…」

 語尾なんか小さくてもう聞こえないんじゃないかと自分でも思ったけれど、七海さんにはちゃんと届いたようで深い色味の日本人離れした瞳をゆっくりと細める。

「私もです。」

 あぁ、七海さんも少しは私と同じ気持ちでいてくれていないだろうか。お世辞とか大人だからとか色んな壁を取っ払って、私も本心を曝け出してしまおうかと口を開けたけれど、七海さんがまたゆっくりと頬に触れたので言葉はそのまま喉奥に戻っていた。

「しかし、最近少しがっついて先走りすぎていたのも事実なので。すみません。」

 指の腹で頬を撫でて、大きな手で覆ってくれる。その体温や感触が心地よくて、少し擦り寄るとピクリと手が少し震えた。七海さんの謝罪に首を小さく振ると、七海さんの手がそのまま私の目元を覆った。

「ゆっくり休んでください。」

 促されるまま瞼を閉じてゆっくりと息を吐くと、起きた時よりもあまり熱くない気がした。真っ暗な視界だと、七海さんの声はじんわりと耳を通して脳まで届いてなんとも擽ったい。

「七海さん、」

 暗闇になんだか心がサワサワと不安を煽るような気持ちになって、名前を呼びながらシーツから手を出すと包むようにきっと七海さんの手で握られる。

「大丈夫、ここにいます。」

 もう七海さんの手もすっかり熱くなっていた。不安な気持ちは波を引いて安心すると急に眠気が襲ってくる。目元と手のひらに感じる熱に身を委ねて、もう一度彼の名前を呼んだ気がしたけどもう意識は微睡んでいて形にならないまま眠りに旅立った。

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