貴方が好きなのに、




 あの日、初めて七海さんからのお誘いをお断りした。

【明日は20時で大丈夫ですか?】

 あの夜、七海さんと呪術師の方との密会を見た日の夜に、七海さんからメッセージが届いた。いつもはバイブ音が鳴るだけでドキドキして嬉しくて顔がにやけてしまうけれど、今は二人が並ぶあの光景がグルグルと頭を駆け巡っていて胸が苦しい。ベットに沈み込んで枕に顔を埋め唸ってみたり足をばたつかせたりしてみて、やっとそのメッセージを開いたのは受信して結構な時間が経ってからだった。

『あまりそういう事に興味がありませんので』

 あの時の七海さんの声が今でも鮮明に思い出せる。もしかしたら、七海さんの伝えたい事とは告白かもしれない。なんて馬鹿な期待をして浮かれていた自分を殴ってやりたい。もしかしたら、私と同じ気持ちなんじゃないか、なんて。あまりにも自分に都合の良すぎる妄想だ。
 じんわりと溢れ出た涙は枕カバーに落ちてすぐに吸収して溶けていった。息を細く吸い肺に取り込んで、指先を滑らせて文字を打ち込んでいく。

【すみません、体調が本調子ではないのでやっぱり今回は無理そうです。】

 送信して、また涙で画面が歪んで目を乱暴に裾で擦り拭い取った。嘘ではない。体以外にも、心が一番重傷だもの。返事を見るのが怖くて、携帯を隠すように布団をかけて壁を向くように寝返りして目を閉じた。
 …あの呪術師の方は、とても綺麗な人だったから七海さんとお似合いそうだな。目を閉じると少ししか見ていなかったはずなのに、鮮明に二人の姿が暗闇の中に浮かんでくる。もう何をしても無理そうで、目を開けるとその拍子で涙が溢れた。すると次々に涙が溢れてきて、もう疲れた私は争うことを辞めてしゃくり上げながら布団に潜り込んだ。


□■□


「お見合い、ですか?」
「いやいや、最初はそんな堅苦しく考えなくてもいいよ。とにかく、会ってみてはくれないかなと思ってね」

 泣きじゃくって疲れて寝落ちしたのは昨日。アラームをかけ忘れたけれど、どうにか寝坊するのは回避できた。忘れる為にバタバタと仕事をしても、昨日の出来事を忘れられないままだった。
 どんよりとした気持ちで廊下を歩いている時に、脈略もなくその話題を出してきたのは直属の上司だ。補助監督でも古株の方で、柔らかい物腰で新人の頃にはとてもお世話になった良いおじいちゃんって言葉がぴったりだ。
 いきなりの出来事で呆然としている私にどこか楽しげに笑いながら、ほら、これが僕の甥っ子だよ。と携帯の画面を見せてくれる。そこには恐らく親戚の集まりで撮ったであろう写真が表示されていて、沢山人が集合している中でも顔を真っ赤にした上司が笑って酒瓶を抱きしめているのが一番最初に目に映った。

「あ、これじゃ分かりにくいかな?結構ハンサムな方だと思うんだけどねぇ、いい写真がないなぁ…」
「あ、いや、京都の方ですよね?多分お見かけした事はあるかと…」
「そう?でもそれなら話が早いね!」
「いや、しかし…」

 大人数の写真で私がよくわからないかと思ったのか、眼鏡を外して少し携帯を遠ざけ薄目で携帯を必死に見て画像を探し始めた。老眼に苦戦している上司に助け舟を出すと、彼は助かったと言わんばかりに声を上げて笑った。
 よく上司からお家の世間話を聞くことはあったので、京都で仕事をする際に一緒に仕事はした事はないが家柄の方々の顔はちょこちょこ拝見したことはある。しかし、顔を見たことあるとお見合いするのは全く別物すぎて話が変わってくる。そのまま押し切られそうな状態を危惧して、息を吸ってぐっと背筋を伸ばして上司に向き直りバッと勢いよく頭を下げた。

「申し訳ありません。私は補助監督という立場でこの世界で必要な呪力も強くはありません。もし結婚という形になっても、相手を支える事も、強い力を遺伝子で残せないと思います。家中の方々には、大変申し訳ないです。」

 五条さんのように御三家じゃないにしろ、家系がある方々はやはり血や力は大切になってくる。そうなると呪術師としての力量を発揮できなかった私では、役不足でしかない。廊下の木目と自分の靴に視線を落としたまま口を開くとツラツラと言葉が出てきて止まらなかった。きっと、ずっと思っていたコンプレックスだったから自分の中でその言葉たちが潜んでいたんだと思う。初めてそれらが形になって口から出てしまった事によって、改めて自分の気持ちに気付かされる。それと同時に、しんっと静まり返ったこの瞬間に背筋に冷や汗が伝う感覚がした。

「はははっ!いや、君はやっぱり思った通りだね!」

 そんな私の気持ちを吹き飛ばすように、上司の笑い声があんなに静かだった廊下に響き渡る。驚いて顔を上げると彼は全てを包み込むような暖かい笑顔で笑っていて、ぐぅっと私の喉奥が小さく鳴った。老眼鏡を付け直し腕を組むとウンウンと何かを噛み締めるように頷き、暫くするとゆっくり目を開けて私の肩を何度かぽんぽんと叩いた。

「僕はね、血筋とか力とかそういうのはこれからの時代少しずつ関係なくなるといいなと思うんだ。…君はそういうけれど、君は本当に仕事熱心だし人を思いやる気持ちがある。十分素敵な人だよ」

 ぽんっと最後私の肩を掴む手は暖かくて力強かった。真っ直ぐと見つめてくれる瞳は自愛に満ちていて、新人のころ落ち込んで陰ながら泣いてしまった時に上司がラーメンを奢ってくれた時を思い出す。ずっと見てくれていた人だからこそ、その言葉には説得力があり弱っていた心はじわじわと暖かくなった。昨日枯れ果てていたと思った涙が込み上げてきそうでグッと堪えた。

「…ありがとう、ございます。」

 認めてもらえるのは素直に嬉しくて小さく頭を下げると、もう一度肩を叩かれて手が離れていく。顔を上げて彼を見ると、私を覗き込むように小首を傾げて笑いながら白髪まじりのヒゲが生えた頬を指先でかいていた。

「それで、どうかな?勿論、無理にとは言わないんだけど。」
「…前向きに、検討してみます。」

 ここまで言っていただけると無下にも出来ずに、おずおずと頷く。しかし百歩譲って今回お会いしたとしても、彼が期待するような結果にはならない気しかしない。でもと前置きを置くために口を開きかけるが、廊下にどっと響いた上司の笑い声にそれは妨げられて音になることはなかった。

「いやぁ、僕は今すぐにでも君に嫁いできてもらいたいんだけどね!」

 あっはっはと文字が出てきそうなくらい大きく笑い私の肩を両手で叩く力はさっきのものと比べ物にならないくらいバシバシと強く、体幹がない私は一歩後ずさってしまった。
 すると後ろからガタンッと何かがぶつかるような音が聞こえて、後ろを振り返ると壁にもたれるように立っている伊知地くんがいた。

「やぁ、伊地知くん。どうしたんだい?」
「え、あ、いえ…」

 音の正体は伊知地くんがよろけて空き教室の扉にぶつかった音のようで、ずれた眼鏡を直す伊知地くんは挙動不審な様子で言葉を濁す。チラリと私を見る瞳と視線が重なって、今の会話を聞いていたのがわかって気まずくなり逃げるように視線を逸らしてしまった。
 そりゃそうだ。七海さんに告白すると聞いてたのに、いきなり他の人の嫁云々という話題を聞いたら驚きしかないだろう。先日の七海さんと女性との話を彼に話そうかと悩んでいたけれど、その事を改めて口に出してしまうと余計にダメージを受けそうで怖かったから出来なかった。

「あぁ、そうだ。伊知地くんに3日後の出張について渡したい資料があるんだった。この後は事務室かい?そうならこのまま渡したいんだけども」
「はい、事務室に行こうと思ってました。ありがとうございます。」
「そしたら好都合だ、行こうか。それじゃ、君には改めてまた連絡するよ!」
「あ、はい。かしこまりました。」

 私と伊知地くんの絶妙な空気は気付いていないようだが、いい感じに助け舟を出してくれた上司は心なしか初めよりも上機嫌な様子でそのまま伊知地くんと事務室へと歩いて行ってしまった。
 廊下にぽつんと残された私は、沢山叩かれてちょっとだけじんわりと痛い肩を撫でて行き場のない溜息を吐き出した。


□■□


「お見合いじゃないって言ってたくせに、ちゃんとお見合いじゃん…」

 上司に甥っ子に会ってみないかと言われたのが十日前。基本的に職場が同じでも伊知地くんも然り同僚や上司などと任務が一緒でなければ一ヶ月会わないなんてざらにあるので、その話はなかなか進まないだろうと高を括っていた自分を殴ってやりたい。
 最初は出勤するといつも通りの山積みの書類の上に、紺の質の良さげな表紙の冊子が置かれていた。何だろうと思って開けると、それは家柄が良いのか伝わってくるような正装姿の男性の写真が入っているものだった。これはどうしたら良いんだろうと悩んでいるうちに、次には当日の料亭の地図とアレルギーの有無を聞かれるメモがあって、その次には私の休みがしっかり確保された嬉しそうな赤丸のついたシフト表。もう外堀が確実に埋められてしかいない。

「これ、ワンピースとかだときっとダメだよね…。着物持ってないから、レンタルしなきゃかな…着付けも予約しなきゃ…」

 なんでこんなことに。という思いが強いが、それは全て流された自分のせいなのでぐうの音も出ない。任務の送迎がそろそろなので車に向かうために廊下をトボトボと歩きながら、ポケットから携帯を取り出してとりあえず着物レンタルと文字を打ち込んで検索をする。

「結局、伊知地くんにも弁解出来てないし…はぁ…」

 あの後伊知地くんから連絡が来たけれど、文字で打つとそれこそ泣きそうだから次会った時に飲みに行って話すと返信したがなかなか彼が忙しくて予定が合わない。少しは心が落ち着いてきて今なら相談出来そうなのに、本当タイミングとは難しい。

「…七海さんから、連絡は来てない…よね。」

 上の方にある伊知地くんのトーク履歴から3個下くらいに、七海建人の文字がある。あれから、もう一度食事に誘っていただいたけれど、私がとって付けたような言い訳をつけてお断りしてしまった。その会話から更新はされていなくて、自分のせいだから当たり前なのに溜息が漏れる。
 七海さんに会って、あの彼女との会話のように私に興味がないと言い放たれてしまうのが怖かった。勝手に傷付いて守りに入って閉じこもってる心は、それなのに彼に会いたいとジクジクと疼いていて苦しい。それなのにそれを埋めるようにお見合いなんてするんだから、本当に身勝手でしかない。
 来る筈のないメッセージを確認している自分に嫌気が差して、もうやめようと携帯の電源ボタンを押すと泣きそうな顔をしている自分の顔が真っ暗な画面に写っていた。それを見ないふりする為にポケットに押し込もうとしたところで、何かに腕を強く引かれて視界が大きく揺らぐ。その拍子に携帯が床に落ちる音がガシャンと廊下に大きく響いた。

「え、あ…七海さ…っ!?」

 何事かわからずに傾いた体を支えるために後ろ足を踏ん張って、自分の腕を見ると見慣れたスーツに身を包んだ逞しい腕があってドッと心臓が勢いよく動き出す。その先を沿うように視線を上げるとそこには七海さんがいて、名前を絞り出すけれどいきなり喉がカラカラに張り付いたように上手に言葉が出てこなかった。するとその名前に反応するように、私の腕を握る七海さんの力が強くなって骨が小さく軋む音が聞こえそうなくらい痛みが走る。

「あ、あの!七海さん!い、痛いです…っ!」

 思わず七海さんの手を剥がすためにその手を押し返すと、ハッと七海さんが息を飲む気配がしてそのまま私の手を払い退けるように腕が解放された。血管が圧迫されていたようで一気に血が巡っていく感覚がして、指先は少し痺れていて改めて彼のと力の差を感じる。いきなりの出来事に困惑しながら、少し腕を払い退けられたことに胸がチクリとするのに気付かないふりをする。改めて七海さんを見上げると、至近距離でもどんな感情かわからない表情をしていた。

「七海さ、」
「貴女は、」

 何だかそれが怖くて、いつもの七海さんを求めて名前を呼ぶがそれは彼の言葉に遮られた。お互いに話し出してしまってどうしていいかわからない空気が流れるが、私が口を紡ぐことで会話の主導権を譲る事を示すと七海さんがゆっくりと閉じていた唇を開く。

「お見合いをすると、聞きました。」

 七海さんの言葉に、ひゅっと心臓が一気に冷えていくのを感じた。本当に自分のせいなのにその言葉に何を返していいかわからなくて、口を開くがそれは言葉にならずに開閉を繰り返すだけになってしまう。そんな私の様子をただただ七海さんは見下ろして、静かに細く息を吐き出す。

「何を考えているんですか?」
「何を、と言われましても……」

 投げかける言葉はただただ冷たい。今まで一緒に食事をしたり笑い合っていた七海さんはそこにはいなくて、まるであの自動販売機の前で栗色の髪をした彼女と淡々と話していた七海さんみたいだ。
 私の気持ちは、彼から此処で終止符を打たれてしまうのだろうか。せめて、未熟でずっと燻ってきたこの気持ちを伝える事なくこのまま墓場まで持って行くから、どうか七海さんもそのまま見ないふりをして欲しい。わざわざ実ることのない事を、知らせてくれないで欲しいと強く思う。

「七海さんには、関係のない事だと、思います…」
「…、チッ……クソが…」

 俯きながらどうにか言葉を絞り出すと、沈黙が続いて小さな舌打ちとその言葉が頭上から聞こえてくる。あぁ、もう終わった。わかっていた事だけれどいざ現実を突きつけられるとジワジワと目元が熱くなってきて、耐えろ耐えろと念じても込み上げてくる涙は止まるとはなかった。

「失礼します…っ!」

 せめて彼から少しでも嫌われないようにと、涙が零れ落ちる前に立ち去ろうと踵を返して走り出した足は強い力で腕を引かれて地につく事なく宙を浮いた。背中全面に温もりを感じて、胸元と腹部を強く何かに巻きつかれる。今まで恋しく常に思い描いていた彼の香りが、ぐっと強く鼻腔に届いた。

「な、なみさ…」

 初めて七海さんに抱き締められていた。腕に回されているのは七海さんの逞しい両腕で、私を逃げないようにしっかりと力が入っていてちょっと苦しい。大きな体は少し前屈みになって身長差のある私の体を抱え込むように抱き締めていて、本当に全身で七海さんを感じられた。触れ合っている場所全てに心臓があるんじゃないかと思うくらい熱い。あぁ、嬉しい。ずっとこうしたかった。すき、好き。七海さんが、大好きだ。

「や、だぁ…ッ」

 大好きだから、これ以上傷付きたくない。ずっと大切に仕舞い込んで、ただ傍にいれるだけでよかったのに。舞い上がって、勝手に期待して、それで欲張りになってしまった私はもうどうしていいかわからない。ただ一つ言えることは、この恋が実らないとしても、七海さんにどうしても嫌われたくない。
 耐えていた涙がボロボロと溢れてきて、廊下の木の床に落ちてすぐに消えていった。本当は縋りつきたくて堪らない手で七海さんの腕を弱々しく押すと、思ったよりも簡単にその腕は解けて二人の体の間に冷たい風が吹いたような錯覚がした。きっと私の熱のせいだと言い聞かせ、七海さんがどんな顔をしているか見るのが怖くてそのまま腕を払い除けるように背を向けて走り出した。

「っは……どうしたら、いいのよぉ…」

 たくさん走って、裏庭の方に出た時やっと足を止めた。走りながらボロボロと流れていた涙はいつの間にか止まっていて、代わりに額にじんわりと汗が滲んでいる。
 しまった、任務の送迎の為に駐車場に向かっていたのに、これでは逆方向だ。時間も間に合うだろうか。あぁ、もう。色々確認したいけど携帯をそういえば落としたままだった。いろんな事がぐるぐると回っていて、でも結局まとまらなくてしゃがみ込んで膝を抱え絞り出した嘆きは誰に拾われる事なく風で揺れる木々の音で消えていった。

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