同じ屋根の下、知らないあなたと
「それでは、お大事にされてください。」
「はい、ありがとうございました。」
最後の問診にきたおじいちゃんの先生は掠れた声でそういうと、看護師さんと一緒に病室を出ていった。お礼を言ってそれを見送ると、代わりに日下部さんが引き戸を開けて部屋の中へ入ってくる。なんとなく、さっきの先生と会っていた時よりも背筋が伸びた気がした。
「忘れ物ねぇか?」
「はい!大丈夫です!」
4日しか過ごしていない病室をもう一度見渡して、忘れ物が何もないのを確認すると日下部さんがベットに置いていた私の荷物を持った。慌てて受け取ろうとしたが渡してくれる素振りは一切なくて、行き場を失った腕は宙を彷徨ってしまった。部屋に一礼して病室を出ると、何だか久しぶりの外の世界で新鮮で少し眩しい。入院中何度も検査で色々な診察室には行ったが、一応脳みその問題だからと基本的にストレッチャーに乗せられて横になったまま押されて移動していたから見るのは天井ばかりだった。入院するまでは普通に歩いていったのだから今更じゃないかと思ったけど、看護師さんたちが親身に原因を探ってくれるので大人しくしていた。結局、医学的には原因はわからず仕舞いだったけれど。
チラリと横を歩く日下部さんを見上げる。口がへの字になっているけど、怒っているという訳ではなさそうだ。支払いはどうするのかなと思っていたけど、彼はそのまま足を止めずに正面玄関に向かっているから終わっているのだろうか。そんな日下部さんのトレンチコートの端を見つめながら、昨日の事を思い返した。
「退院後は、日下部さんと基本的に行動していただく事になりました。」
退院の前日、昨日の夜に病室に来てくれた伊知地さんはそう言った。その後ろには日下部さんがなんというか、苦虫を噛み潰したような渋い顔をして立っていた。え、こんなあからさまに嫌そうにしている日下部さんと行動って大丈夫なのか…?心底そう思って伊知地さんと日下部さんを交互に見比べていると、伊知地さんも少しオロオロしている。五条さん曰く、私たちの2個下らしい伊知地さんだけど、何だか毎日気疲れしているんだろうなって位疲労しているのがわかるから、私の事で仕事を増やして何だか申し訳ない。どうしていいかわからずにいると、日下部さんが深く溜息を吐き出してガシガシと頭を掻いてから一歩踏み出して、ベットに座ったままの私を見下ろした。
「上からの指示なもんで申し訳ないが、こんなオッサンと住む場所も一緒だ。…まぁ、よろしく頼む。」
そう言う日下部さんは、よろしくと言いながら何だか諦めろと私にも自分にも言い聞かせているようにも感じた。初めて会った時は記憶が混乱してしまっていたから、こうやって彼とちゃんと向き合って対話するのは初めてだった。トレンチコートとスーツ、ツンツン頭の第一印象の他に、気怠げな瞳の奥はちょっと寂しそうな人なんだなと今回感じた。そんな彼を見ていると、やっぱり胸の奥がギュッと苦しくなる。
「あの、間違ってたら、とても申し訳ないんですけど……私と日下部さんは特別な関係、という事でしょうか…?」
住む場所も同じと聞くと職場の寮かもしれない可能性もあるが、なんだか違う気がして口に出したが、外れていたらとんでもなく恥ずかしいなと自覚して語尾は徐々に小さくなっていく。私の言葉に、日下部さんの眉間にはまた一本皺が増える。おやおや、これは勘違いしてしまった流れかもしれない。無言の空気がいたたまれなくてつい伊知地さんに視線を移すと、彼は眼鏡の位置を直すふりして目を逸らされてしまった。
「……まぁ、そうっちゃそうだな。」
助けてもらえなかったのにショックを受けていたが、掠れた声で肯定の言葉が聞こえて驚いて日下部さんに視線を戻す。彼は相変わらずな表情で、記憶を無くす前に本当に彼氏彼女だったのかな?と疑わしくて聞き間違いなんじゃないかとすら思えた。何だか勝手にフラれたような気分で違う意味でショックなのと、それと同時に申し訳ない気持ちも込み上げた。だって、私たちの関係に名前があったならば、その日々を全て忘れてしまっているなんてなかなか残酷なことだ。
「んな顔するな。…逆に俺みたいなのですまねーな」
俯いてしまっていると、私の頭に大きな手が置かれる。くしゃくしゃと撫でながらもちょっと控えめなその手は、大きくて私の頭なんて簡単に握り潰せそうだ。少し前の私なら、この手の大きさも硬さも高すぎない体温も全部好きだったのかな。それすらも思い出せないのが申し訳なくて、日下部さんの言葉に上手に返す事が出来なかった。
「ほぅ…!外の世界だ…!」
「…そんな変わらんだろ。はしゃぎ過ぎるとコケるぞ、あと迷子になんなよ」
改めて病院の外に出ると、病室から見ていた中庭とはまた違って感じた。たった数日の入院だが、なんだ感動してしまった。深呼吸を繰り返していると日下部さんは呆れたように私に忠告すると、駐車場の方へ歩いて行ってしまい慌てて追いかける。多分、私より何個か年上なのもあって、日下部さんってちょっとお兄さんというかお父さんっぽいな。まだそんな事は本人には言えないけれど。
そんな事を考えていると日下部さんが立ち止まって振り返ったので心が読まれたかと思いギクリとしたが、どうやらいつの間にか車に到着したようだった。黒色の車は相変わらず見覚えはなくて、彼は後部座席に私の荷物を置いてから運転席に乗り込んでいく。この場合、私はどこに座るのが正解なのだろうか。悩んで立ち尽くしていると、運転席に座ったまま日下部さんは身を乗り出して、助手席の扉に手を伸ばして少し開けてくれた。一瞬、開けるときに窓越しに此方を見上げてくる日下部さんと視線が絡み合って不意にドキリとしてしまった。
「家の鍵、一応後で渡すわ。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
助手席に乗り込んで車が発進してからは無言の時間が続いたが、先に沈黙を破ったのは日下部さんだった。カギ、鍵かぁ……。じんわりと頬に熱がこもってきた気がするので誤魔化すように窓の外に視線を投げた。この間から薄々思ってはいたけれど、私同棲しているのかぁ…。中学時代の恋愛感で現在進行形で生きている私からしたら、ちょっと大人な恋愛すぎてハードルが高くて何だか実感すると照れてしまう。窓に薄らと反射してる日下部さんを見て、緊張を解す為に小さくバレないように溜息を溢す。今の私って、こういう人がタイプなんだな。中学の時は生徒会長の三浦くんが好きだったけど、彼は眼鏡の子だったからちょっと印象は日下部さんと違う感じなんだよね。
「なんか寄りたいところあるか?」
「多分、大丈夫かな…?」
病院付近は道の開けた郊外だったが、徐々に道路の車線も増えてた背の高い建物ばかりになってきた。じっと窓越しに彼を見つめていると、真っ直ぐと前を見つめて運転したまま問いかけられる。いい加減顔の熱も冷めて来たので、前に向き直った。日下部さんはそうか、と短く相槌を打つと、ゆっくりブレーキを踏んで一時停止してから曲がり角を左折する。車の免許をとった覚えはないが、何となく運転の仕方はわかる。もしかしたら今の私は免許をちゃんと取っているのかもしれないが、記憶喪失で運転するのは怖いから暫く出番はないだろうな。
色々な考えで悶々としている内に目的地に到着したようで、車はマンションの駐車場にゆっくりと停車した。日下部さんがシートベルトを外して運転席を下りるので、私も続いて外に出た。八階建てのマンション、エントランスのオートロックを抜けてエレベーターに乗り込んでも、相変わらず見覚えはない。
部屋の前について、自分の部屋番号を忘れないように覚える。これから私が彼と暮らす家がココなんだ。じっと立ち止まってそう噛み締めている私を一瞥して、日下部さんはドアの鍵穴に鍵を差し込んでガチャリと回すと、扉を開け中に入っていった。
「おじゃましまーす…」
おずおずと、玄関に足を踏み入れて控えめに呟く。あ、ここはただいまで良かったのかもしれない。変な空気になるかと思って日下部さんを見上げたけど、彼は気にした素振りはなく靴を脱いでそのまま廊下を進んでいく。一応、大丈夫だった、のかな。何だか物珍しくてキョロキョロと周りを見渡しながらリビングへ進む。お部屋はシンプルだが、どこか生活感があってちゃんと人が暮らしてるのが垣間見えた。友達の家なんかにいくとその家庭の香りが自分の家の匂いと違うから何だか不思議な気持ちになるけど、この部屋の匂いはすっと体に染み込んできて落ち着く感じがする。
「…無理だと思うが、あんまり気ぃ使うなよ。もししんどくなったら、俺はネカフェにでも泊まるから言ってくれ。監視されてる訳でもねぇし、高専にはバレねぇだろ。」
ぼけーっと部屋の真ん中で立ち尽くしていたら、日下部さんは鞄を持ったまま廊下へ戻っていった。廊下の先からピピッと電子音が聞こえるから、洗濯を回しに行ったのかもしれない。…そうか、そう考えると鞄の中身の生活雑貨や…パンツとかの下着類を持ってきてくれたのも日下部さんなのか。使用済みの衣服を洗濯に出させるのは申し訳ないし何より死ぬほど恥ずかしいが、そうしている内にもうゴウンゴウンと音を立てて洗濯機が回る音がしたので泣く泣く心の中で深く頭を下げることにした。
どこに座るべきかわからなくて、リビングをまた見回す。ふと、テレビ横の棚に置かれていた写真立てが倒れているのが目に移ったが、何だか触れてはいけない気がした。
「ベットは使ってくれ」
「…え、日下部さんはどうするんですか?」
後ろから聞こえてきた声に振り返ると、私の方を見ている日下部さんとパチリと目があった。不意に視線が絡んだことで彼の瞳の奥が一瞬揺らいだ気がしたが、すぐいつものように気怠げに伏せられてしまった。
「俺はソファに寝る。」
「いやいや、それは悪いです!日下部さんは家主なのに…」
「…そんな事言うなら、お前だって家主だろ?」
そう言われると、何も返せなくなる。だとしても、今目の前にあるソファーはふかふかな感じはするが背丈もあって体付きもしっかりしている彼だと絶対に足がはみ出るだろう。何なら私がソファーの方がサイズ感的にちょうどいい気もしていたが、先手を打つようにお前は病人だったしな。と言われて仕舞えばもうぐうの音も出ない。
「マジで気にすんな。任務で野外で寝る事だってざらにあるし、なんなら寝床があるだけマシなレベルだ。」
極力私が気を使わないような言い訳を並べる日下部さんに、もう私は頷くしかなかった。どこか子供を諭すような様子だったのは、教員の仕事柄なのか、それか私の記憶が後退してしまったからなのかどちらなんだろう。やっと話がまとまって安心したのか、日下部さんはトレンチコートを脱ぎながらダイニングの椅子の方に腰掛けた。薄々思っていたけれど、スーツ姿の日下部さんはトレンチを着ている時よりも体のラインが出ていて体格の良さがわかる。中学までの同級生とも、自分のお父さんや先生とも違う大人の男性の雰囲気に、ちょっとだけたじろいてしまう。
「風呂とか飯とか、ルール決めとくか?」
そんな彼とまだ向かい合ってお話する免疫力も勇気はなくて、私は少し離れたソファーに座ると声が飛んでくる。一緒に住むということは、家事洗濯から睡眠までずっと共同作業になる。明日から私も一応職場復帰する予定だし、確かに共働きな分ルールや当番を決めた方がやりやすいかもしれない。でも、色々考えたけれど、やっぱり首を振ってみせた。
「その時、気になったら言い合う感じにしませんか?」
一応、私たちは恋人同士らしい、し。変にルールを決めると、今の私たちは本当に同じ屋根の下にいるけど割り切って他人になってしまいそうな気がする。嫌な気分になったら言って欲しいし、嬉しいことがあればありがとうを共有した方が、一緒にいた事を思い出せるかもしれない。私の返答が意外だったのか、一瞬口を開いたがそこから言葉が音になることはなかった。わかったと小さく呟かれて、一旦無言の時間が流れた。
「日下部さん、」
名前を呼ぶと、日下部さんと目が合う。先程のようにその瞳は揺れず、真っ直ぐと私を捉えていた。
「前の私は、どういう人間だったんでしょうか?例えば日下部さんの呼び名とか、一緒にいる時はどんな雰囲気だったー…とか」
仕事の事などの日常の事はある程度五条くんから教えてもらったけど、日下部さんとの事はほとんどまだわからない。まだ一緒にいた時間は短いけど、日下部さんの背中を見ていると彼の事をもっと知りたいと思った。バクバクと心臓が煩いけれど、これは不安か緊張か、それとも過去の私のトキメキなのか思春期の恋への憧れを引きずっている故なのか、高鳴りの原因はよくわからない。絡んだ視線を先に逸らしたのは日下部さんで、シワの寄った眉間を押さえ目を閉じて細く息を吐き出した。
「…上の連中は、お前が記憶を取り戻す為に今までと同じ生活をしろって事で今回こうなったが、別にそんな気負いしなくていいぞ。今のお前に、前と同じ事を押し付けんのも違ぇしな。…あー、だから特に俺の事は気にすんな。」
言葉を選ぶように紡がれる言葉は、遠回しに私を遠ざける言葉ばかりだった。
「なんで日下部さんは、そんなに悲観的なんですが?」
思わずムッとしてつい言葉が漏れて、目を開けた日下部さんの口がはの字で開いたままになっているのを見てやってしまったと気付いた。
「あ、すみません!…でも私は、別に会ったことのない上の人の為に思い出そうとしてるんじゃありません。ただ、一緒に暮らすくらいの関係性だった…今目の前にいる日下部さんのことを知りたいと思ってるから聞いているんです!」
年上に向かって失礼だったと反省したが、どうしても我慢出来なくて立ち上がった。彼の目の前までズンズン行くと、先程まで見上げていた日下部さんが座っているから見下ろしていて不思議な気分だ。さっきこめかみを押さえていた彼の手をとって両手で握手するようにぎゅーっと握りしめると少し冷たい。大きくて手のひらの皮が厚くて少しカサカサしている、今の私は知らない大人の男の人の手だった。
「…わかった、すまん。でも、お前はいつだって大丈夫って言いながら無理して勝手にストレス溜めるタイプだから、マジで無理すんなよ。少しでもしんどくなったら、すぐ言えよ。」
私の珍行動にあっけに取られていたが、降参したように片手をあげて日下部さんはやっと少しだけ笑った。それなのに、逆にちょっと切なくなったのはなんでなんだろう。
「日下部さん、今日お休みですか?」
「ん?あぁ、呼び出しがなければ一応非番だな…」
ずっと握っていた手は私の体温が移ったのか、それとも彼のものなのか少し温かくなって気がして手を離した。
「そしたら、出会いとか馴れ初めとか教えてください!あと、仕事について!私って教員のお仕事もしてたんですよね?生徒たちの事も戻る前に知りたいんです!」
「仕事についてはいいが、前半は勘弁してくれ…」
自分のこともだけど、もっと彼の事を知りたくて両手を合わせてお願いすると日下部さんはちょっとだけ嫌そうな顔に戻ったから思わず笑ってしまった。すると日下部さんは自分と向かいの椅子を指差す。多分座れ、って意味だと思う。彼のテリトリーに少しだけ足を踏み入れることを許可されたような気がして、思わず頬が緩んでしまい誤魔化すようにパンッと手を叩いた。
「あ、ちょっと待ってください!せっかくなら何か飲みながら話しましょう?お家何かありますか?」
「…あぁ、それなら紅茶と珈琲がある」
「あ、日下部さんはズバリ!ブラックコーヒー派ですね?」
「面的にそう思われるが、意外と微糖派なんだわ」
大人な男、って感じだからブラックコーヒーの缶を飲んでそうだけど意外と甘党らしい。そういえば、昨日会った時もキャンディの棒を咥えていたっけ。キッチンの棚を指差すので、そのままキッチンに向かったが何だか知らないキッチンというのはそわそわしてしまう。教えてくれたけど、私が心配になったのか結局日下部さんも続いたやってきた。電気ケトルにお水を入れてスイッチをつけて、棚を開けると紅茶と珈琲のティーパックがあった。それと、沢山の角砂糖。ティーパックがどちらも減ってる量が同じだから、今みたいに二人で一緒に飲んでいたのかもしれない。日下部さんに出してもらったマグカップもお揃いで、また少し彼の事を知れて嬉しかった。
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